騎士の贖罪

#24 牙を隠した唇

 頬を撫で吹き抜けた風に煽られ、リュシオンは目が覚めた。
 いつもの部屋の、いつもの寝台だ。一瞬あれは悪い夢だったのではないか、と思ったが、下腹に走る痛みで、現実だと引き戻された。
 もうあの不気味な痺れも、頭の中まで麻痺させるような激しい衝動もなくなっていた。だが身体はひどく重く感じられ、身体のあちこちに痛みがあった。
 身体に押し込まれていた性具はもう取り除かれていたが、痛みは残っていた。小さな珠で飾られた美しくも忌まわしい性具の、あの冷たく硬い感触を思い出すと、背筋が冷たくなる。身体の中を吹き荒れた嵐が去れば、あれがもたらす快楽よりも、恐怖の方が勝る。
 リュシオンは起き上がれないまま、部屋の中を見渡す。
 風が吹き抜けているのは、中庭に面した硝子扉が割られているせいだ。あの時響き渡った硝子の砕ける音は、これだったのかもしれない。
 その割れた硝子から差し込む陽光の中に、佇む人影があった。纏った黒いショールが風に翻っているが、その人影は瞬きもせずに、窓辺に立てかけられている絵を見つめていた。
 それはクレティアの風景を描いたものだ。草原から見上げた城壁や、水辺、果樹の並ぶ街道、思いつくままにリュシオンが描き続けたものだ。
「……もう薬を盛らせない。クラーツにあんな真似もさせない」
 リュシオンが目覚めた事にいつ気付いたのか、視線を絵に向けたまま、グレイアスは口を開いた。
「信じろとは言わない。祖国を滅ぼし、家族を殺し、こんな境遇に陥れた私を信じられるはずがないのは、よく分かっている」
 リュシオンはベッドに横たわったまま、陽光に照らされるグレイアスの横顔をぼんやりと眺めていた。
「私を許す必要もない。憎み続けるのは当然の事だ」
 初めてクレティアの郊外で出会った時、この火傷の痕に驚かずにいられなかった事をリュシオンは思い出していた。少し厳つくもある整った精悍な顔立ちで、目立つ火傷痕が余計に惨く思えていた。この火傷痕がなければ、もう少し柔和に見えたかもしれない。
「いつか約束したように、時が来たなら、私の命を奪えばいい。……アンネットに……娘に会っただろう。娘はもう長くは生きられない。他国の人間を散々手にかけておきながら身勝手だと誹られても、娘を守れもしなかった父親にできる事は、最期に見送ってやる事だけだ」
 アンネットがそう長くは生きられないのではないかと、リュシオンも不安に思っていた。こう聞かされても驚きはなかった。やはりそうなのかと、やるせなく、悲しく思わずにいられない。
 だからこそ、アンネットに世界を見せてやりたかった。
 狭い部屋の中でしか生きられないアンネットに、外の世界の美しさを、見た事もないような動物を、野山に咲く名もなき草花を、見せたかった。
 リュシオンの描く絵で彼女を励ます事ができるなら、力づける事ができるなら、描き続けたかった。彼女の喜びや笑顔は、リュシオンの救いにも励ましにもなっていた。
「アンネットに、子犬の絵を描いてくれたそうだな。……アトリーンから帰還する途中の街に、アンネットからの手紙が届いた。……子犬の絵のお兄さんに罰を与えないよう、クラーツに頼んでくれと、そう書かれていた」
 グレイアスはアトリーン保護領に出向いたままで、いつ帰ってくるのか、リュシオンは知らなかった。アンネットはジーナか誰かに頼んで、早馬を出したのだろうか。
 クラーツの焚いた香で意識が途切れていたが、あれからどのくらいの時間が経過していたのか、リュシオンは分からない。そう長い時間ではなかったようにも思える。
「アンネットを看取った後、どこか別の国に連れて行く。そこで私を殺した後に、逃げればいい。クレティアに連れて行く事は難しいが、ハイメスやバジリカならなんとかなるだろう」
 グレイアスは感情がないかのように、淡々と語る。まるで何もかも諦めているかのような、そんなやるせなさをリュシオンは感じずにいられなかった。
 クラーツの言葉が頭の中にはっきりと鮮明に、思い浮かんだ。
『今まで積み重ね得てきた王の信頼を失ってまで、君を手に入れたかったのは、何故だろうね』
 憎み続けなければならない男だ。
 リュシオンを欺き、クレティアを滅ぼし、両親を、小さな王子や王女達を無慈悲に吊した男だ。
 許してはならない。この男に心を許したばかりに祖国を滅ぼしてしまったリュシオンの罪を償わなければならない。
 ずっと絵を見つめ続けていたグレイアスの視線が、ベッドに臥したままのリュシオンへと動いた。黄金に赤銅が混ざったような狼の瞳が、ゆっくりと瞬く。
「……許されるとは、最初から思っていない」
 一生憎み続けなければならない男だ。祖国の、肉親の、一族の仇だ。リュシオンを欺き、辱め、陵辱した男だ。
 何か言葉を口にしたなら、泣き出してしまいそうだった。



 部屋の硝子が張り替えられるのと同時に、中庭の錆びた鉄扉は撤去された。残った壁の穴を大きく崩し、出入りしやすいようにアーチ型の通路が作られた。
 これでアンネットの部屋への行き来は気軽にできるようになった。
「おにいさんがいつでもわたしと遊べるようにって、おとうさまがそうして下さったのよ。おとうさまは、おにいさんを叱ったり、しなかったでしょう?」
 アンネットは寝台に横たわったまま、久しぶりに会うリュシオンの指をしっかり握り締め、嬉しそうに話す。
「おにいさんとお茶をご一緒してもいいって、言って下さったわ。もっと早くにおとうさまにお願いしておけば、クラーツ先生におにいさんが叱られる事もなかったのね。……内緒にしない方が、よかったの……?」
「ああ、ついこの間までは私がアンネットの一番の王子様だったのに、今は二番に格下げか」
 ユリエルが大げさにため息をついて見せると、アンネットはしっかりリュシオンの指を掴んだまま、楽しそうにくすくす笑う。
「だいたい、アンネットの手紙を早馬でグレイアスに届けさせたのは私なのに、あまり感謝されていない気がするな。……まあ、こんな大事になっているとは思っていなかったんだけれどね。アンネットがグレイアスに手紙を書くなんて初めてだから、グレイアスが喜ぶだろうと単純に考えていたよ」
 アンネットの部屋でユリエルと三人で午後のお茶を飲む事になろうとは、リュシオンも考えていなかった。
 だがこのお茶会のおかげで、アンネットの手紙はジーナを経てユリエルに託され、そこから帰路の途中のグレイアスに届けられたという流れは把握した。
「リュシオン王子ならアンネットとうまくやれるんじゃないかと思ってはいたんだけれどね」
 この男はこの部屋にリュシオンが出入りしている事にとっくに気付いていたくせに、今でも知らなかったというふりを貫いている。
 相変わらず、敵なのか味方なのか分からない男だ。むしろ、敵でもあり味方でもあり、という事なのか。リュシオンはこの帝国の王子にいいようにあしらわれているような気がしてならない。
 それまで嬉しそうに喋り続けていたアンネットが、急におしゃべりをやめて、考え込んでいた。
「アンネット、どうしたんだい?」
 そうリュシオンが話しかけると、アンネットはずっと握っていたリュシオンの指を離し、顔を見上げる。
「……おにいさんの名前は、リュシオンなの?」
「そうだよ。……ああ、そういえば、まだアンネットに教えていなかったね。そう、リュシオンというんだよ」
 アンネットはぱっと笑顔を見せ、枕元にいつもある、宝物入れにしている母親の形見の宝石箱を引き寄せた。
「リュシオンっていうのね! ……そうなのね!」
 大きめの宝石箱だ。それを開けて、アンネットはごそごそと探っている。
「これ、おにいさんのね? おとうさまから、大事な物だからって預かっていたのよ。これは、おにいさんのハンカチだったのね」
 アンネットは満面の笑顔で取り出したハンカチを広げ、リュシオンに見せた。
「とっても大事な物だって、おとうさまが言っていたの。大切な物なら、おにいさんに返さなきゃ」
 見間違うはずがなかった。
 このハンカチは、クレティアの郊外でグレイアスに出会った時に渡したものだ。ルッツ家の家紋とリュシオンのフルネームが刺繍されている、絹のハンカチだ。
 何故、これが今、ここに?
 突然目の前に現れたそれに、リュシオンは戸惑わずにいられなかった。
「……使わなかったんだよ」
 ユリエルはこともなげに口を開く。
「使わなかったんだ。そのハンカチを使って入り込んだ方が楽だったのにね。グレイアスが計画していた予定通りのルートで侵入したよ」
 ユリエルはいつものように優美に椅子から立ち上がり、アンネットの柔らかな黒髪を撫でる。
「さて、私達はそろそろお暇するよ。きみが疲れてしまうからね。……そんな顔をしなくても、また来るよ。きみの大事な王子様は、すぐ隣の部屋じゃないか。明日も来てくれるよ」
 リュシオンはハンカチを握りしめたまま、呆然としていた。
「そのハンカチはアンネットの為にきみがくれたものだからね。だからアンネットに預けたんだろう。……グレイアスは愚直だな。まるで初めて恋をした少年のように、不器用で、真っ直ぐで、純朴だ」
「……そんな、何故……」
 困惑せずにいられなかった。立ち竦んだままのリュシオンの手を取り、ユリエルは中庭へと歩き出す。
「ごきげんよう、アンネット。ちゃんと休んでおかなければだめだよ。……またね」
 アンネットの為に庭に飾られたトピアリーの可愛らしい動物の群れを通り抜け、リュシオンの部屋へのアーチをくぐると、ユリエルはまだ呆然としたままのリュシオンに話しかける。
「グレイアスは真面目すぎる。……顧みもしなかった妻を死なせた自分に、誰かを愛する資格も幸せになる権利もないと思っているんだろうな」
 相変わらず、ユリエルは何を考えているのか分からない。歌うように笑うように話し続ける。リュシオンは戸惑ったままだ。
「おまけに君は、自分が指揮して滅ぼした国の王位継承権を持つ、王子様だ」
 ユリエルのしなやかな手が、リュシオンの頬に触れた。
 リュシオンはまだ混乱していて、気付かなかった。ユリエルの両手に抱き寄せられ、やっと気付く。
「な…っ…!」
 優雅で華やかな見た目でも、この男は油断ならないと分かっていたはずだ。それを失念していた。
 ユリエルの両腕に抱きすくめられ、身動きすらできなかった。優男に見えるだけで、この男の本性は獣のように獰猛で鋭い。
「……君を奪ったなら、グレイアスはどうするだろうね」
 決して油断してはならなかった。ユリエルが何を考えているか分からずとも、常に獰猛な牙を隠し持っていると、よく知っていたはずだ。
「君を私が連れ去って私のものにしたなら、グレイアスはどうするだろうね。……ねえ、リュシオン王子」
 いつものように、本気なのか冗談なのかすら、分からない。牙を隠した唇が、リュシオンの目の前で、穏やかに優美に微笑みの形に綻び、囁く。
「将軍ごときがカルナスの第一王子に逆らえると思う?」


2018/06/28 up

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