騎士の贖罪

#25 分かるはずがない

 使われる事なくアンネットに預けられたリュシオンのハンカチ、そしてユリエルのこの言動。いつでもこの男はリュシオンに揺さぶりをかける。
 折に触れグレイアスを庇うかのような発言をしながら、こうしてリュシオンを手に入れようとしているかのような素振りも繰り返す。グレイアスにとってもリュシオンにとっても、敵なのか味方なのか、まるで分からない。ただひとつ分かっている事は、この男を甘く見てはいけないという事だ。
 リュシオンが口を開く前に、この話は遮られた。
「ユリエル王子、悪戯が過ぎるとレクセンテール将軍がまた暴れ出しますよ」
 突然現れたクラーツに、ユリエルは驚きもしなかった。クラーツは背中を向けたまま、いつものようにテーブルの上に診察に必要な道具を並べていた。
「来ていたのか、クラーツ。いつも誰かしらにいいところで邪魔をされるなあ」
 まるで何事もなかったかのようにリュシオンを離して、ユリエルはポーチを上がり、クラーツに歩み寄る。
「ああ、派手にやられたな。グレイアスが激昂するような事をするからだよ」
「私はロデリック王の僕ですから、王の意向に沿うのが最優先です」
 振り返ったクラーツは頬に膏薬を染み込ませた布を貼り付け、顔を腫れ上がらせていた。覆いきれない皮膚に、赤黒く変色した痣が浮いている。
「リュシオン殿。先日の事を詫びはしません。あれは王の意向に沿った私の仕事ですから。引き続き監視と診察を続けますが、薬に関しては将軍が王と話し合われたので今後は使用しません。……本当に、将軍の温情に感謝くらいして欲しいものです」
 あまりに生々しい殴られた痕に、リュシオンは呆気にとられていた。あの時、グレイアスはクラーツに殴りかかって止めたのか。
「それから、ユリエル王子。こんなところでレクセンテール将軍のペットをからかっている場合ではありませんよ。あやしげな一団が西の国境に現れたそうです。至急、王城にお戻りになれますよう」
「今度はどこの国の敗残兵かな。その不屈の精神は素晴らしいと思うが、今更争ったところで何が変わるわけでもないというのにね。……リュシオン王子、急用だ。今の話の続きは、次に会った時にね」
 まるで世間話でもしていたかのように、ユリエルは屈託ない笑みを見せる。相変わらず、リュシオンは振り回されっぱなしだ。この男の思惑は全く計り知れない。
 さっさと出て行くユリエルを見送り、当たり前のように診察の準備をしながら、クラーツは話し続ける。
「こう簡単に姿を見せるのは少しおかしい。陽動かもしれないので国境だけでなく、それぞれの街や王都もも警戒を強める事になるでしょう。さて……レクセンテール将軍は王都の警備をなさるのか、国境へ向かわれるのか」」
 アトリーン保護領から帰還したグレイアスは、ここ暫くは王城に出仕している。相変わらずリュシオンはこの屋敷の立地を把握していないが、登城したグレイアスが日帰りか一泊程度で帰宅し、クラーツが頻繁に王宮からこの屋敷に通っている事を考えると、王城、首都からそう遠くはないはずだ。遠いとしても王都近郊程度ではないだろうか。
「この屋敷にも警備兵はいるが……用心しておいた方がいい。思いも寄らないところに奇襲をかけられた事も過去にあった」
「そんな大変な時なら、僕の診察をしている場合ではないのでは? それとも軍医のような仕事はしないのか?」
「たまにする事はある。医者の数は足りてないから、私のような宮仕えの医者も駆り出される事は多々ある。……まだ本格的な戦闘は起きないだろう。賊は大抵、夜に奇襲をかけるものだ。負傷者がでるのはまだ先だろうから、ここで診察してから王宮に戻るよ」
 近くで見れば、本当にひどい怪我だ。クラーツの顔は腫れ上がっている上に、唇の端も切れている。クラーツは医者らしく荒っぽい事には無縁だろうという細身の身体だ。歴戦の騎士であんな大柄のグレイアスに殴られたらひとたまりもない。この酷い痕をみる限り、手加減なしで殴られたのは間違いないだろう。
 リュシオンの視線に気付いたのか、クラーツは小さく肩を竦めて見せた。
「君のおかげで大怪我をしたよ。前々から言っているが、もっと賢く立ち回ったらどうだ。……いや、賢くなられても困るな。レクセンテール将軍を意のままに操れるような手管を持たれても」
 椅子に座ったリュシオンの左足首を、跪いていつものように取り上げたクラーツは、珍しく薄い笑みを浮かべた。
「やろうと思えば君はその身体と言葉で将軍を誑かせただろうに。それこそ、国を裏切るくらいに恋に狂わせようと思えば、できたんじゃないか。……まあ、子供には無理な事かな」
 恋に狂わせる。
 そんなはずが、と苦笑しかけて思い出す。
 グレイアスは、いつか時が来たなら、リュシオンに自分の命を奪わせ、逃がすつもりだと言っていた。
 それが本気だとはリュシオンには到底思えなかった。
 リュシオンはクレティアの支配権を持つ傍流の王子だ。そのリュシオンを逃がすというのは、たとえグレイアスが死んだ後だとしても、カルナスへの裏切り行為には変わらない。その後リュシオンがクレティアへ戻らないとは限らない。
 一瞬頭に浮かんだ事を振り払うように、リュシオンは緩く頭を振る。
 そんな事があるはずがない。あってはならない。



 この屋敷の警備の規模がどんなものなのか、リュシオンにはさっぱり分からない。そもそも屋敷の規模が分からない。かなりの大きさの屋敷ではないかとは思っているが、実際はどんな構造なのかさえさっぱりだ。
 アンネットの部屋へは中庭続きで移動できるが、相変わらず控えの間への扉と廊下へと続く扉は鍵をかけられ、アンネットの部屋の控えの間と廊下への扉も鍵を施されている。
 バジリカの屋敷を襲撃され妻を亡くし娘に重傷を負わせたグレイアスは、アンネットの身辺警護には神経質なのだとユリエルが言っていた。
 先ほど夕食の給仕に来たジーナは『このお屋敷の警備兵さんは皆とっても強いし、国境を守る兵士さんたちも、街を守る騎士様達も、とってもとっても強いので大丈夫です! それにいざとなったら、私がアンネット様とリュシオン様をお守りします!』と笑顔を見せ、全く動じていないようで、もしかしたらカルナスのように敵の多い国ではよくある事なのかもしれない。
 そんな国だからこそ、警備は厳重でそうそう奇襲が成功するような事はないだろうが、用心はしておきたい。
 囚われの身で足が不自由だとしても、リュシオンは『盾の一族』で見習いとはいえ騎士だ。アンネットとジーナくらいは守りたい。だが相変わらずリュシオンの部屋には武器になりそうなものはない。その上アンネットの部屋はもっと注意深く、危険な物は取り除かれている。
 グレイアスが部屋に来たなら、警戒が解かれるまでだけでも剣を預けてもらえないか聞いてみよう。そう考えながら寝台にあがろうとして、ふと思い出してしまう。
 グレイアスの手が、吐息が触れたあの感触が、何故か生々しく身体に蘇った。
 あれからグレイアスに抱かれる事はなかった。クラーツの行った『教育』でリュシオンの身体が傷付き、治療と安静が必要だったせいかもしれないが、グレイアスはあの日以来、リュシオンの部屋を訪れていない。ジーナやアンネットからグレイアスの近況を聞くだけで、彼と会う事はなかった。
 クラーツに言われるまでもなく、リュシオンも薄々は気付いていた。
 一時期毎日のように犯されていた事もあったが、あれはほんの一時だった。それ以外は、クラーツの診察がある前の日だけに、グレイアスはリュシオンを『使って』いた。
 それはロデリック王の監視に対しての自身の保身もあるだろう。今なら分かる。それだけではない。
 『クレティアの支配権を持つ傍流の王子』であってはならない。『将軍の愛玩物』でなければならない。クレティアの王子であり続けるなら、リュシオンは処刑されるか、一生幽閉か、ふたつにひとつの運命しかない。
 将軍の『愛玩物』である限り、生き続ける事が許される。
 リュシオンは絹のリネンに埋もれるように潜り込み、目を閉じる。
 次から次へと起こる出来事に、心が追いつかなかった。
 リュシオンを欺き手に入れたはずのハンカチを、グレイアスは使う事なくアンネットに託した。
 それが真実かどうかは、確かめるすべはない。
 オダマキと子犬の絵も、ハンカチも、アンネットの手に渡っている。全てがリュシオンを騙す為の嘘だったはずなのに、故郷で父の帰りを待つ病気の娘も、子犬の絵を喜ぶ娘も、存在していた。
『グレイアスは真面目すぎる。……顧みもしなかった妻を死なせた自分に、誰かを愛する資格も幸せになる権利もないと思っているんだろうな』
 昼間のユリエルの言葉も、どこまで信じたらいいのか。
『……君を奪ったなら、グレイアスはどうするだろうね』
 ユリエルはどこまで本当の事を言っているのか、分からない。悪ふざけの延長なのか、真実を話しているのか、本音を漏らしているのか、まるで読めない。リュシオンを、グレイアスをどうしたいのか、彼は笑みの下に悪意を隠し持っているようにも見え、部下を思う思慮深い王子のようにも見える。
 分からない。
 静かに眠りに落ちながら、リュシオンはおぼろげに考える。
 自分の気持ちすら分からないのに、誰かの気持ちなんて、分かるはずがない。



2018/07/02 up

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