騎士の贖罪

#26 それが許されただろうか

『国境に不審な一団が現れた』という話を聞いてから、数日が経っていた。
 結局グレイアスは屋敷に戻る事なく国境に向かったとジーナに聞かされたのは、たった今だ。ジーナが夕食の給仕をしながら世間話にしゃべり出さなければ、知らないままだったかもしれない。帰ってこない時点で察してはいたが、どこに行ったのかまでは知りようがなかった。
「グレイアス様は、こんな時こそアンネット様の傍にいたいって思っていらっしゃるでしょうね……。何事もないと思いますが、グレイアス様はアンネット様が心配で仕方ないんですよ。でも、責任のある立場だから……自分の事より、国と国民を優先しなければならないんでしょうね」
 食後のバジリカチャイをリュシオンに差し出しながら、ジーナは小さくため息をつく。
「せめて身を守る武器くらいは欲しかったけれど……ジーナ、なんとか手に入れられないかな」
「だ、だめです! それは絶対だめですっ! グレイアス様が絶対だめだって……!」
 言いかけて、慌ててジーナは口を噤む。
 ジーナが口を割らずとも、リュシオンも分かっている。リュシオンに自ら命を絶たせない為に、この部屋には凶器になりえるものは一切置かれない。今もそれは頑なに守られたままだ。
「じゃあ、いざという時はジーナ、その時だけこっそり武器を渡してくれないかな。……それならいいだろう」
 ジーナはもじもじしながら微かに頷く。
「このお屋敷の警備をしてる方達はとっても強いから、そんな心配はいらないって思います。それに、私だってアンネット様とリュシオン様をお守りします。……でも、万が一の時の為に、その時はお渡しします。お約束します」
 ジーナは本当にリュシオンとアンネットを自分で守るつもりらしい。この明るくて真面目で健気な女中を、リュシオンは密かに尊敬せずにいられなかった。彼女の明るさも強さも、リュシオンにはないものだ。だからこそ、眩しく思える。
「どこかの街が襲われたとか、捕まったとか、何か動きはないのかな」
「何も聞いていません。警戒が厳しくなったから、引き上げたんじゃないかなって思うんです……。だってもう一週間近く経つのに、そんなに隠れていられないと思うんです。植民地の警備は少し足りないかもしれないけど、帝国内はとっても厳しく警戒されているんですよ。特に王都は、警備の人だけでなく、休暇中の騎士様や兵士さんがいっぱい歩いてますから、王都に隠れるのは無理だと思います」
 このジーナの口ぶりから察するに、グレイアスの屋敷は王都かその近郊にあるはずだ。そうではないかと思ってはいたが、確証は持てずにいた。
 ジーナは『だから安全だ』と言っているようなものだ。グレイアスにどう言いつけられているのか分からないが、ジーナはおっとりのんびりに見えて、重要な話をなかなか洩らさない。アンネットの存在すら隠し通していたくらいだ。推測するしかない。
「本当の事をいうと、よくある事なんです。……帝国を恨んでる人達は、いるから……」
 ジーナの部族も、そういう『帝国を憎む人々』で、実際にバジリカに駐屯する帝国軍を襲っている。
「それでも帝国内で大事になった事はないです。だから、きっと、大丈夫です! リュシオン様、夜更かしして絵を描くのはほどほどにして下さいね。目にも身体にもよくないから、ちゃんと早寝をして下さいね! バジリカチャイを飲んだから眠れなかったって言い訳はだめですからね!」
 母親みたいな小言を言いながら下がっていったジーナを見送って、オイルランプの明かりを頼りに、リュシオンは描きかけの絵に向かう。
 ジーナには『夕食にバジリカチャイなんて、だめです! 眠れなくなっちゃいます!』と言われたのに、無理に頼み込んだ。むしろ眠らない為に、バジリカチャイが欲しかった。
 眠ってはいけない気がしていた。
 それは胸騒ぎのようなものなのか、それとも、杞憂なのか。
 目を閉じ耳を塞ぎ拒否し続けていたもの全てが、今、目の前に突きつけられていると、そう感じているからなのか。



 ジーナが言うほどの威力は、バジリカチャイにはなかった。
 夜半を過ぎれば素直に眠気が襲ってきて、リュシオンは思わず小さく笑ってしまった。ジーナは大袈裟すぎる。眠れなくなるというのをすっかり信じてしまった。
 眠気を覚まそうと絵筆を置き椅子から立ち上がって、数歩歩いた時だった。
 確かに、聞こえた。
 リュシオンは中庭への硝子扉へ向かう。はっきりと、聞こえる。人が争う声と物音だ。
 不自由な左足では、走る事さえできない。もどかしさに苛立ちながら、リュシオンは中庭に飛び出した。石壁のアーチから、鋭い悲鳴が聞こえる。アンネットの叫び声だった。
「アンネット!」
「……おにいさん! おにいさん、ジーナが!」
 飛び込むと、犬のトピアリーの陰にアンネットが倒れ込んでいた。月は重い雲の波間に隠れ、まだ暗闇に目が慣れなず、見渡すのが困難だった。
「おにいさん、ジーナを助けて……!」
 アンネットは抱えていたショールに包まれた何かを差し出す。アンネットの震える手で巻かれていたショールが解かれると、現れたのは細身の剣だった。
「ジーナが……! ジーナが!」
 雲の切れ間から月明かりがポーチに零れ落ち、煌々と照らした。その月明かりの中に、ジーナが飛び出してくる。ジーナが握りしめているのは、湾曲した刀身の、巨大なナイフのようなものだった。
「リュシオン様、アンネット様をお願いします! 逃げて!」
 ジーナに掴みかかろうとする男もまた、よく似た蛮刀を振りかざしていた。月明かりに照らされたジーナは血に塗れ、握り締めた蛮刀からも血が滴っていた。
「ジーナ……!」
 アンネットの悲鳴が響き渡る。
「バジリカを、サファを裏切るのか!」
 ジーナに斬りかかった男は、確かにそう叫んだ。
「帝国に媚びを売る薄汚いサファの恥! そのカルナスの娘ごと殺してやる! ……殺してやる!」
「違う! 違う……! バジリカの為にも、サファの為にも、こんな事終わらせなきゃいけない! こんな事したって、死んだ人達は生き返らない!」
 ジーナの叫びは、まるで泣き声のようだった。あまりに悲壮で悲痛な叫びだった。
「つらくても、悲しくても、どこかで終わらせなきゃ……!」
 ジーナを掴み引き寄せた男は、躊躇いなく禍々しい蛮刀を振り上げた。男が躊躇しなかったように、リュシオンも躊躇しなかった。不自由な足の事なんて、忘れ去っていた。アンネットの腕から転がり落ちた剣を掴み、鞘を抜き男に投げつけ、ひるんだ男の一瞬の隙を突き、不自由なはずの足で駆けた。夢中だった。瞬時に間合いを詰め、両手で剣を振り下ろす。
「……リュシオン様!」
 男の右肩から胸まで切り裂き沈み込んだ剣を抜く暇もなかった。男の後ろから現れ、リュシオンめがけて蛮刀を振り上げたもうひとりの男に、ジーナは信じられない早さで飛びかかり、喉笛を一瞬で切り裂いた。
 血まみれのジーナを抱き留め、リュシオンはそのまま力尽きたようにポーチに倒れ込む。
「……ジーナ……怪我は?」
 心臓が信じられないくらい激しく脈打っていた。息がなかなか整わない。それはジーナも同じようだった。
「大丈夫です。……たいした事、ありません」
 ジーナは血で染まった震える手で、涙と血にまみれた頬を拭う。振り下ろされる蛮刀を防ごうとしたのだろう、左腕には、大きく口を開いた生々しい切り傷があった。
「……アンネット、怪我はないかい?」
 ジーナのエプロンを裂いて傷口を塞ぎ、出血を止めながらアンネットを振り返ると、アンネットは力ない両腕で起き上がろうとしていた。
「ないわ。……ジーナが守ってくれたもの……!」
 ジーナを抱え、泣き出しそうなのを必死で堪えるアンネットに歩み寄り、リュシオンはふたりを両腕に抱え込む。
「……すまない」
 とっさに口を突いて出た。ジーナはそれだけで、リュシオンが何を言いたかったのか察したようだった。ぐったりと疲れ果てた姿で、弱々しく首を振る。
「いいえ。……いいえ。これでいいんです。……私は、裏切り者って言われても、いいんです。もう、終わらせたいんです。アンネット様のような目に遭う人や、私のような目に遭う人が、いてはいけないんです。……どこかで終わらせなきゃ。前に進まなきゃ」
 リュシオンはジーナの言葉を聞きながら、頷く。頷く事しかできなかった。
 今夜ここに現れたのが、サファの人間ではなく、クレティアの人間だったなら、どうしただろう。
 ジーナに投げつけられた言葉は、リュシオンに投げつけられたも同然だ。
 クレティアの裏切り者。
 もしこの男達がクレティア人でも、アンネットを、ジーナを守る為に戦っただろうか。戦えただろうか。それが許されただろうか。許せただろうか。
 ひどく疲れていた。身体も心も限界に思えていた。ジーナとアンネットを抱きかかえたまま、動く事ができなかった。彼女たちも同じようで、ただ三人、無言のまま、抱き合っていた。


2018/07/05 up

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