騎士の贖罪

#29 言葉だけでも伝えきれない

「そうスマートな方法でもなかったな。すまないね、暫く窮屈な思いをさせるけど」
 寝室に連れ込まれ両手を縛られたまま寝台に放り出された時は、リュシオンも覚悟はしていた。だが、特に何をするわけでもなく、ユリエルは寝台の傍の椅子に座っているだけだ。
「逃げようがないし、この足で争おうとは思わない。……アンネットの傍にいてやりたいのに、本当ならこんな事をしている場合じゃないんだ」
 グレイアスの屋敷からこの湖畔の離宮に連行される間中縛られていて、手首だけではなく肩も背中も動かせず、凝って痛んでいた。
「どうせ何もできない。ほどいてくれ」
 リュシオンは革の紐で縛り上げられた両手をユリエルに突き出すが、ユリエルは全く取り合おうとしない。
「アンネットの事は耳が痛いな。……私も君と争って負けるとは思っていないが、まあ少しの間我慢してくれ。……さて、グレイアスはまだかな」
 この男が何を考えているのか、リュシオンには分からないが、ただひとつ分かっている事は、今すぐリュシオンをどうこうしようとは思っていない、という事くらいか。
 そもそも、ユリエルが本気でリュシオンを奪い、自分の物にしようとしているとは、到底思えなかった。それならばもっと簡単に、とっくにリュシオンを手に入れる事ができたはずだ。
 現に今でも、ユリエルは退屈そうに組んだつま先を揺らすだけで、リュシオンに触れようとはしない。
「グレイアスは軍議では雄弁だが、他ではろくに口を利きもしない。昔からそうだった」
 グレイアスはユリエルの子供の頃からの武術指南役だったと言っていたのを、リュシオンは思い出していた。グレイアスの屋敷にも家族同然のように出入りしているユリエルは、グレイアスと浅からぬ絆がある。
 ユリエルの目的がまるで分からない、というわけではなかった。心当たりはあった。
「父上……ロデリック王とカルナスに絶対的な忠誠心を持った男なんだが、どうした事か、クレティアの支配権を持つ王子様が欲しいなんて言い出してしまって、私も驚いたんだよ」
 言われるまでもない。リュシオンを手に入れる事によって、グレイアスは帝国での地位も今まで培った信頼も捨てたも同然だ。いや、もう不要だと思っていたのだろう。
 顧みもしなかった妻にあんな惨い死に方を強いた事も、娘の心と体に消えない傷を残した事も、グレイアスには耐えがたい後悔だったのかもしれない。
「まるで君と引き換えに、何もかも捨てて構わないとでも言いたげだよね。むしろ、本当にそういうつもりだったのかな」
 そう語るユリエルは、窓の外、どこか遠くを見つめていて、今傍にいるリュシオンに語りかけると言うよりは、ひとりごとのようだった。
「……だから、君に協力してもらおうかと思って」
 やはりユリエルも気付いていた。グレイアスが何を考えているのか、リュシオンに分かるくらいだ。この切れ者の王子が気付かないはずがなかった。
「まあ君が欲しかったのは認めるよ。グレイアスが欲しがらなければ、私がもらおうと思っていたくらいには、気に入っていた。美貌の家系で有名なルッツ家の王子様だけはあるよね。優雅で優美な容姿を持ち、そして素晴らしい絵を描く。まさに物語にでてくるような貴公子だよね」
 ユリエルはやっと椅子から立ち上がり、リュシオンの寝転がる寝台へ膝をついた。やっとこの窮屈で不便な両手を解放されるのかとリュシオンは両手を差し出すが、それはやんわりと押しのけられた。
「でも、君とグレイアスとどっちが大切かといえば、やはりグレイアスなんだよ。長い付き合いでもあるし、私が将来この大陸を制覇するには、彼の力が必要でもある。……分かるだろう?」
 長くしなやかな指先が、リュシオンの胸元に触れた。その優美な指先は、首元まできっちりと閉められていたシャツのボタンを器用に外していく。
「連れてこられたばかりの時はほんの子供だったのに、ずいぶん綺麗になった。男性に綺麗になった、というのもどうかと思うが、事実だしね。君は心外だろうけれど」
 シャツから覗く胸元には、夕べグレイアスが残した唇の痕が幾つもあった。ユリエルはそれに眉をひそめるわけでもない。無造作にシャツを寛げて、その生々しい捺印を刻まれた素肌を晒す。
「憂いは君をとても大人びて見せるね。……そんな感情を教えたのが無口で無骨なグレイアスかと思うと、なんとも不思議な気がする」
 ボタンを外し終えると、あっさりとユリエルは手を引いた。リュシオンは無抵抗のまま、されるがままだ。ユリエルの思惑が分からないほど、愚かではいられなかった。
「うん。……ちょうどいいところに来てくれたようだ」
 寝室へと続く部屋に荒々しい足音を立てて駆け込んできた人物は、止めようとする女中を怒鳴りつけ、乱暴に寝室の扉を叩く。
「ユリエル王子。悪ふざけはそのくらいにして頂きたい」
 怒気を含んだグレイアスの声だ。ユリエルはリュシオンと顔を見合わせ、笑みを見せる。
「鍵は開いているから、入るといい」
 まだ寝転がったままだったリュシオンを片手で抱き寄せながら、ユリエルは扉の向こうのグレイアスに声をかける。間髪入れずに寝室の扉が派手な音を立てて開け放たれた。
「リュシオン王子なら、ここに」
 思わせぶりに片手でリュシオンを抱いたまま、ユリエルは笑顔を見せる。
「アンネットも心配をしております。どうか、お返し下さい。彼は私が王から賜りました」
 素早くユリエルの目の前に跪き、グレイアスは頭を垂れる。見かけこそ礼を尽くしているが、語気は荒いままだ。
「私も彼が欲しかったんだよ。もう十分楽しんだだろう? そろそろ私に譲ってくれてもいいじゃないか」
 リュシオンは戸惑いながらもされるがままだ。ユリエルの意図は分かっている。それにグレイアスがどう答えるのか。不安もある。そしてわずかながらの希望も持っていた。
「……ユリエル王子。どうか悪ふざけはそこまでに」
「愛玩物のひとつやふたつ、譲ってくれてもいいだろう。……それともお前は、私に逆らうのか」
 リュシオンを抱いていたユリエルの右手が、寛げられたリュシオンの胸元に滑り落ちた。まるで見せつけるかのようにリュシオンの胸元を撫でる。
「……っ……!」
 思わず詰めた息を洩らしてしまう。今まで頭を垂れたままだったグレイアスが顔を上げ、ユリエル見据えた。
「たかが愛玩物じゃないか。何故そこまで固執する? 私や父上の信頼よりも、このクレティアの支配権を持つ王子様が大切だとでも言うのか?」
 あまりに容赦がない。リュシオンは身を固くしたまま、息を潜める。ユリエルがどんな言葉をグレイアスから引き出そうとしているのか、分からないわけではなかった。今リュシオンにできる事はなにひとつない。見守る事しかできない。
「グレイアス、答えろ。……お前の返答次第では」
 ユリエルはためらいもせずに、腰に下げられていた剣を引き抜き、切っ先をリュシオンの胸元に突きつけた。
「この愛玩物を始末しなければならない」
 驚きはなかった。リュシオンは胸元に突きつけられた銀色の刃を、自分でも驚くくらい、冷静に見ていた。
 ユリエルははっきりと言っていた。グレイアスが大切なのだと。リュシオンにグレイアスの命をみすみすくれてやるわけにはいかない、そうユリエルは言っているのだ。
 そうだ。この男は油断ならない。恐ろしいほど先の先まで計算し見透かし、動いている。アンネット亡き後のグレイアスの動向なぞ、とっくに読めていただろう。
「お前が考えている事が分からないほど、愚かではないぞ。……なあ、グレイアス」
 銀色の切っ先が鎖骨の下、胸の合わせ目に触れ、すっと動く。薄い皮膚を裂いた銀色の刃先の痕から、鮮血が滲み出た。
 一瞬だった。黒い影が目の前に、とリュシオンが思った瞬間に、強い腕に掴まれ、ユリエルの腕から引き剥がされた。
 こんな大きな身体の騎士が、こんな素早く動けるのか、と妙な感心をしながら、リュシオンはされるがままに、グレイアスの腕に引き摺られるように床に落とされた。
「ユリエル王子、お許し下さい」
 ユリエルから奪い取ったリュシオンを片手に抱えたまま、再びグレイアスは片膝をつく。
「……まるで私が悪者みたいじゃないか。まあそうなんだけれどね」
 ユリエルは深いため息をついて剣を投げ出し、片膝を抱える。グレイアスはやっと、重い口を開いた。
「帝国に尽くす事だけが正しいと思っていました。娘の目の前で妻にあんな惨い死に方をさせるまで、目が覚める事はなかった。……王と帝国への忠誠だけで生きていけたのは、あの時まででした」
 リュシオンを抱きしめる左腕は、恐ろしいくらいに冷たく強張っていた。リュシオンはその腕にしがみついたまま、息を詰める。
「ユリエル王子、お許し下さい。あなたの望む世界を担うには、私はあまりに罪深く、弱い。……リュシオン王子には、何の咎もありません。私の愚かな感傷に付き合わせただけです」
「お前がアンネットを失った後、どうしようとしているのかくらい、私にだって予想はついているよ。お前は私を見くびりすぎだ」
 ユリエルは再び投げ出した剣を取り上げ、寝台から立ち上がる。
「ならば、お前からリュシオン王子を取り上げるか、殺すか、ふたつにひとつしかない。……グレイアス、お前に選ばせてやろう。殺すか、引き渡すか。ふたつにひとつだ」
 リュシオンを抱きしめていたグレイアスの手に、ぐっと力が篭もる。
 今、目を背けていた選択肢を目の前に突きつけられている。それはグレイアスだけではない、リュシオンもだ。
 到底許せるはずがない。祖国を滅ぼされ、両親や大切な人々を殺された事を、一生忘れられないだろう。
 それでも、もう迷わなかった。
 リュシオンは縛られた不自由な両手を伸ばす。
 焼け爛れ引き攣れた頬の傷跡に触れ、抱き寄せ、グレイアスの荒れた唇に、自分の唇を押し当てる。
 身体だけでは何も分かり合えない。伝えられない。
「……あなたを心から許せる事は、きっと一生、ないんだ」
 唇を触れあわせたまま、リュシオンは囁く。
「きっと一生、忘れられない。……一生憎み続けられたなら、こんな苦しくもなかっただろうと、何度も考えたよ」
 唇を引き離し、リュシオンは目の前のユリエルを見上げる。
「ユリエル王子。レクセンテール卿を僕に任せて欲しい。……あなたはきっと、それを最初から望んでいただろう」
 何の迷いもなく、愛していると言えたならどれほど幸せだろう。その言葉はグレイアスにとっても、リュシオンにとっても、あまりに罪深く重すぎた。
「アンネットにも約束した。……命ある限り、僕はレクセンテール卿と生きていく。僕が決めた事だ。……一生、傍にいる」
 リュシオンはグレイアスのあの金色に赤銅を混ぜた瞳を見上げ、再び口付ける。
 身体だけでは伝えられなかったように、言葉だけでも伝えきれない。
 こんな激しく、悲しく、切なく、愛おしい気持ちを、どうすれば伝えられると言うのだろう。
 不意にグレイアスの目の前に、ユリエルの剣が突きつけられた。
「グレイアス、誓え。……今ここで、お前の命は帝国と私のものであると、誓いを立てろ」
 グレイアスは跪き、剣を掌に受け、頭を垂れる。
「……未来の王と、カルナスに栄光を。私の魂と忠誠はユリエル・アルトハイム・カルナス第一王子とカルナス帝国に」
 剣を鞘に収める小さな音が響いた。
「リュシオン王子」
 呼びかけられ、グレイアスにしがみついたままだったリュシオンは慌ててユリエルを見上げる。
「君も私と約束を。……グレイアスをこの世にとどまらせるのが、君のこれからの仕事だよ。……どんな手を使ってでも、引き留めてもらわないとね」
 何か言葉にしたなら、泣き出してしまいそうだった。グレイアスを抱きしめたまま、頷いてみせるしかなかった。



 左足は腫れ上がったままで、歩けそうにない。
 立ち上がることもできないリュシオンを抱き上げようとするグレイアスを、やんわりとリュシオンは拒んだ。
「……嫌なわけではないんだ。それはちょっと、恥ずかしいんだ……」
 ユリエルの前であんなにキスした後にグレイアスの顔を間近で見るのは、さすがに羞恥を覚えた。
「ああ。……すまない、配慮が足りなかった」
 グレイアスは違う意味で取ったようだ。リュシオンはお姫様のように抱きかかえられて歩くのを、ユリエルの離宮の騎士や従者達に見られるのが恥ずかしいのだろうと思ったようだ。
 グレイアスの背中に背負われながら、リュシオンは素直にグレイアスの肩に両手を回す。
 離宮の廊下を歩きながら、暫くふたり無言だった。
 けれど温もりは伝わる。今までどれだけ身体を重ねたか分からないが、今が一番、互いを身近に感じられているように思えていた。
「……何故、傍にいようと思えたんだ」
 どこまでも不器用な男だ。リュシオンはグレイアスのショールに包まれた項に頭を押しつけながら考える。
「僕もよく分からない。……あなたが考えているような、憐れみでも同情でもないよ。そうだったなら、もっと楽になれるのにね」
 クレティアを裏切っているという重い事実から、目をそらし続けるのは難しい。
 それでも今こうしている事が、幸せではないと言えない。この男を抱きしめていたいと願わずにいられない。
「……帰ろう。アンネットもジーナも、きっと心配してるね」
 無防備に、何の躊躇いも迷いもなく、愛していると言えたならと思う。そんな風に愛を囁けるような出会いは、きっとできなかった。
 あの日、あの場所で絵を描いていなければ、あの日、グレイアスがクレティアを襲わなければ、出会う事すらなかっただろう。
 いつか、口にする事ができる日が来るのだろうか。
 きっと一生忘れない。心から許せる事はない。
 それでも愛していると伝えられる日が来るかもしれない。そう信じたかった。




【騎士の贖罪 終】


2018/07/12 up

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