てのひらにひとひらの花

#03 変化の始まり

 いつの間にか眠ってしまったようで、エルネストは窓辺から差し込む朝日と、小鳥のさえずりで目が覚めた。
 椅子の背もたれに寄りかかって眠ったせいで、背中がこわばって痛かった。軽く伸びをしながらベッドに目をやり、思わず目を見開く。
 朝にはきっと冷たくなっているだろうと思われた子供は、生きていた。朦朧としているようだったが、寝具の中で震えながら目を開けていた。
 エルネストは驚きのあまり、すぐには言葉が出てこなかった。そもそも生きて朝を迎えるとは思っていなかった。語りかける言葉なぞ、考えていなかった。
「あ、ああ……俺は、エルネストというんだ」
 何を言えばいいのか、本当に分からない。戸惑いながらエルネストは子供に語りかける。
「もうあの奴隷商のところには、帰らないでいい。……俺が買ったから、今日から俺が主人だ」
 そもそも、流民にこの国の言葉は通じるのか? そんな事を考えながら、エルネストは根気よく話しかける。
「今は何も考えずに、眠れ。元気になってから話そうか。……ああ、でも」
 この子供をどうするかなんて、何も考えていなかった。それでも、この子が生きて朝を迎えられた事を、喜ばずにはいられなかった。
「名前を教えてくれないか。何て呼べばいいか、分からない」
 子供は怯えたように震えていたが、それでも口を開いた。
「……ミカ……」
 掠れた小さな声でそう答えると、再び目を閉じた。眠ると言うよりは、気を失ったようだった。起きていられるほど体力がないのだろう。
 言葉は通じる。思えば、一度は売れて返されたと言っていた。店で教育されたか、売られた先で覚えたのかもしれない。
 ミカと名乗った子供の額に冷たい水で絞ったタオルを載せてやりながら、エルネストは考える。
 まだまだ予断を許さない容態だ。奴隷を診てくれる医者がいるかは分からないが、バルテルに聞いてみる事にする。
 奴隷制度に疑問を持つ事も異を唱えるつもりも、慈悲深い優しい人間のつもりもない。他人の事なんか、事故以来、考えた事はなかった。
 自暴自棄になっていたエルネストでも、この瀕死の憐れな子供を目の前にして、見捨てられるほど人の心をなくしたわけではなかった。
 事故から閉じこもり、誰にも心を許さず、他人を寄せ付けなかったエルネストが、初めて他人を気にかけていた。



 次にミカが目を覚ました時、エルネストは席を外していて、戻ってきたところだった。
 部屋のドアを開くと、エルネストに気付いたミカはベッドから飛び起きようとして、転がり落ちた。
「おい、大丈夫か」
 杖をつきながら傍に歩み寄ると、ミカは小さく呻きながらよろよろと身体を起こしエルネストの目の前で、頭を床に押し付けるようにひれ伏した。
「ご、ごめんなさい。もう大丈夫です。働けます」
 ミカが名前以外に初めて口にした言葉だった。むき出しの床に伏したミカの背中は、小さく震えていた。
 奴隷商は『返品された商品』だと言っていた。買われた先でミカがどんな扱いを受けていたのか、うっすらと想像がつく。
 エルネストの杖が床に触れ、こつ、と音を立てた瞬間、びくっ、とミカの背中が跳ね、更に小さく縮こまった。
 杖で殴られると思っているんだ。
 そう気付いた瞬間、エルネストはなんともいえない苦々しい気持ちになった。
 こんな小さな子供が殴られ、痩せ衰えるまで働かされている現実を、今まで知らなかった。
「……起こしてやりたいが、見ての通り、俺は足が不自由なんだ。だから手を貸してやれない。自分で起きてベッドに戻ってくれ。殴ったりしないから、安心しろ」
 ひれ伏していたミカは恐る恐る、顔を上げた。
「で、でも」
「病気の子供を働かせるほど人手に困っていないが、だが元気になったら手伝ってもらいたい仕事はある。だから今は病気を治せ」
 ミカはまだ小さく震えていたが、素直に身体を起こし、ベッドに這い上がった。
 毛布に潜り込みながら、ミカは戸惑っているようだった。どう振る舞えばいいのか分からないのか、落ち着かずにエルネストの様子を窺っていた。
「……なんだ?」
 エルネストは残念ながら自分の威圧的な外見や言動に、気付いていなかった。
 闇色の黒髪に切れ長の青い瞳は、精悍で魅力的な容貌ではあったが、温厚そうな見た目とは言いがたかった。そして事故後は引きこもりがちになり、口数も減り、周りからは『神経質そうな、気難しそうな』男に見えていただろう。いや、実際、自由に歩ける健康な身体と同時に、明るさも失ってしまっていた。
 ミカは口籠もりながら、ぼそぼそと不安を口にした。
「働けないなら、処分するって……」
 こんな子供にひどい言葉を浴びせていたのは、あの奴隷商か、それともミカを買った主人か。
 あまりに惨い奴隷の現状に、思わずエルネストは眉をひそめる。
「俺はそんな事をするつもりはない。まあ、働いてもらいたいからお前を買ったが、病気のまま働かせようなんて思っていない。覚えているか分からないが、俺の他にじいさんが手当をしていただろう。あれはバルテルというんだが、元気になったら、あのじいさんの仕事を手伝ってもらうつもりだ」
 ミカは少々驚いたような顔をしていた。休めると思わなかったのか、ひどく戸惑っているようだった。まるでエルネストの言葉を噛みしめるようにしばらく黙り、それから小さく頷いた。
「早く元気になって、働きます」
 もうすり込まれてしまっているのだろう。働けなければ殴られたり殺されたりすると思い込んでいる。エルネストは小さくため息を洩らし、話題を変えようと話を振る。
「何歳なんだ?」
「十五歳です」
 絶対に嘘だろう。どう見ても十歳ちょっとくらいだ。
「嘘つけ」
「本当に十五歳です」
 恐らく、奴隷商にそう言えと言われたのだろう。あまり小さすぎると弱く、酷使に耐えられず働きが悪いと判断されるからか。
「本当の年齢を言え」
「十五歳です。もう大人です。働けます」
 らちが明かない。正確な年齢はもうこの際どうでもいい。
 何歳でも働ける範囲で働ければそれでいい。そう考えてから、ふとミカを買った店を思い出す。甘い香りが充満した、いやに小綺麗な店だった。市場で見た他の店とは内装も違い、娘たちも化粧まで施されていた。
 そもそもエルネストの父親は、そういう処理の意味も込めて奴隷を買えと言っていて、エルネストにあの店での購入を勧めた。店に入るまでは深く考えていなかったが、思えば『性的な要望に応えられる品揃え』の店だった。
 まさか、こんな子供を?
 今、思い至った自分の考えに、背筋が冷たくなる。
 ミカは確かに可愛らしい子供だった。薄汚れて痩せ衰えていても、濃い榛色の瞳と明るい栗色の髪で、聡そうな子供に見える。もしも健康だったなら、それは綺麗な、愛らしい子供だったのではないだろうか。
 主人の性的な要望に応じられるように、年齢を偽らせているのか? いや、いくら偽ったとしても、無理がある。あまりに小さく、幼い。
 エルネストは思い当たった忌まわしい考えを振り払う。
「お前は流民だと聞いた。サクロナの言葉は分かるようだが、どこの国の者だ?」
「……ロサ族です」
 ロサ族は放浪しながら定住せずに商売をする民族だ。文字をもたないが、独自の言語を持ち、大陸中を移動している。
「お前の……」
 家族は、と問いかけようとしたところで、ミカの様子に気付いた。
 まだ熱も下がりきっていない。弱った身体のままだ。無理をさせたようで、ミカはぜいぜいと苦しげな息を吐きながら、目を伏せていた。
「無理はしないでいい。……よく休んで、眠るんだ」
 ミカは小さく頷く。
「旦那様、ありがとうございます」
「名前で呼んでくれ。俺の名前はエルネストだ」
「はい。エルネスト様」
 エルネストが傍にいると、ミカはとても気を遣うようだった。眠りに落ちそうになっては、はっとしたように目を開く。エルネストを恐れているのだ。
 小さな子供がこんなに怯えているのを見て、平静でいられるほどエルネストは冷たくはなかった。
「眠っていいんだ。何度も言うが、お前を殴ったり怒鳴ったりはしない。まずはゆっくり眠るのが、今のお前の仕事だ」
 必死で目を開けようとしていたミカの瞳が、じわり、と滲み、痩せた頬を大粒の涙が横たわったミカの眦から溢れ、青白い痩せた頬を伝い落ちた。
「……ありがとうございます」
 ミカの押し殺した泣き声を聞きながら、エルネストは部屋を後にした。
 言葉にできないほど、胸が痛んでいた。こんなやるせなさを今まで感じた事はなかった。



 結論で言うと、流民の奴隷を診てくれるような医者はいなかった。だが金の力でどうとでもなる。跡継ぎから外されても、残りの人生で不自由しない資産はエルネストにもある。
 流民の奴隷、しかも弱り切った子供に入れ込むのは、端から見ればどうかしているように見えるかもしれない。バルテルも、エルネストが自主的に、意欲的に行動するようになったからこそ、苦言を口にせず見守ってくれているが、内心は困惑しているようだった。
 ミカを診察した医者は、よく休ませて栄養を取っていれば、すぐに回復すると言っていた。恐らく殴打された痕であろう、痣や擦り傷があるが、骨折はしておらず、それもそのうち治るとの事だった。
 死地を脱したミカは数日もすると熱が下がり、起き上がれるようになった。
 起きて少し動けるくらいの体力がミカに戻ったところで、バルテルは「この臭いだけは許せません」と主張し、通いのメイドとふたりがかりで風呂に入れ、ミカをピカピカに磨き上げた。
 綺麗に洗い上げられたミカは、優美に長い手足を持った可愛らしい子供だった。少しいい服を着せたら、とても流民だとは思えないような気品さえ感じられた。
 熱も下がり動けるようになったミカは、積極的にバルテルやメイドの手伝いをするようになった。
「もう少し元気になるまで休んでいたらどうだ?」
 熱心に廊下を磨くミカにそうエルネストが声をかけると、ミカはとんでもない、と首を振った。
「もう元気です。働けます」
 ミカはふたことめには「働けます」と口にする。
『働けなければ暴力をふるわれたり、殺されたりする』と思い込んでいるミカを無理に休ませるよりは、多少仕事を手伝わせた方が、安心するようだった。
「とても一生懸命働いていますよ。器用で仕事も丁寧で、真面目な子です」
 最初はいい顔をしなかったバルテルも、ガリガリに痩せこけていながら懸命に役にたとうとするミカが可愛くなっているようだった。
 だがミカは、主人であるエルネストの事を、まだ恐れていた。
 ミカがここに来るまでに、どんな目に遭っていたのかあまり考えたくはないが、想像がつく。思い当たる事があるだけに、エルネストもミカとどう距離を取ればいいのか、分からなかった。
 単純に、奴隷と主人だ。それ以上でもそれ以下でもない。元々バルテルの代わりになる、気軽に仕事を言いつけられる奴隷が欲しかっただけだ。ミカの事は仕事を引き継がせたいバルテルに任せればいい。
 分かっていてもミカの様子が気にかかるのは、死にかけた姿を見てしまったからかもしれない。
 今まで自分の殻に閉じこもっていたエルネストの、変化の始まりだった。



2020/12/18 up

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