てのひらにひとひらの花

#04 不器用なミカ

 本当に、叩かれる事はなかった。怒鳴られる事もなかった。
 ミカは起きられるようになってすぐにバルテルの手伝いをするようになったが、バルテルも通いでやってくるメイドも、ミカに手を上げない。それどころか、病み上がりだから無理はしない方がいいと、休むように勧めてくれた。
「働けます。大丈夫です」
 そうミカが言うと、バルテルに少し悲しそうな顔をさせてしまった。
「エルネスト様も私も、お前を叩いたりしないし、怒鳴ったりもしないから、無理をしなくていいんだよ」
 その言葉通りで、ここでは誰もミカを怒鳴りつけなかったし、寝たきりで少しも働けていない時でも、食事をもらえた。
 以前の主人は、ミカの『仕事ぶり』が気に入らなければ、容赦なく殴りつけていた。鞭で打たれる事もあった。食事も『仕事ぶり』がよければ、主人の足元で食べる事が許されるくらいで、もしも機嫌を損ねれば、食べられない事もあった。
 ここでは、毎日バルテルやメイドと一緒に、厨房のテーブルで食事をさせてもらえた。食べるものも、彼らと同じ料理だった。それどころか、メイドは間食にジャムを塗ったパンまで与えてくれた。ミカが受け取っていいのか分からず、もじもじして手を出せずにいたら、この年配の、アンナというメイドは「子供は間食をしないと大きくなれないからね。ちゃんと食べて元気に働くと、エルネスト様もお喜びになるから、食べるのも仕事だよ」と笑っていた。
 与えられる仕事も、ミカにとってつらくないものばかりだ。
 片付けや掃き掃除や拭き掃除、野菜の皮むきや、洗濯の手伝いなど。両親や一族と暮らしていた頃にもやっていたような仕事で、少しも苦にならない。
 前の主人の家は大きな屋敷で、ミカは逃げ出さないよう繋がれて過ごしていたが、ここでは自由に歩き回れた。ミカはそれがとても嬉しかった。
 エルネストの屋敷はそれほど大きくはなかった。バルテルが『エルネスト様は人嫌いで賑やかなのが苦手なので、人を雇いたくないんだよ。だからお屋敷も少人数で管理できるように、小さめなんだ』とミカに説明してくれた。
 小さいが、豪華なのはミカにも分かった。この屋敷は階段の手すりにまで草花の彫刻が施され、どこの街でもまだ珍しいガラスの窓がたくさんあった。
 そして肝心の主人であるエルネストは、滅多にミカの前に現れなかった。
 バルテルの言う通り人嫌いらしく、大抵ひとり書庫に閉じこもっていて、ミカはまず顔を合わせなかった。
 ミカの命の恩人であるが、エルネストはとても気難しそうに見えた。いつも少し怒ったような口調で、ミカはそれが少し怖かった。
 エルネストに声をかけられたのは一回くらいで、まずミカの目の前に現れない。それですっかり油断していた。
 ミカは窓のガラスを拭いていた。あまりに熱心に拭いていたので、声をかけられるまで気がつかなかった。
「ずいぶん元気になったな」
 ミカは思わず手にしていた掃除用の布と磨き粉の袋を落としそうになりながら、慌てて振り返る。
「あ、あっ、あの、おはようございます、エルネスト様」
 エルネストはミカの狼狽に気付いているようだったが、それには触れずにいてくれた。
「仕事には慣れたか?」
「は、はい」
 エルネストが目の前にいると、緊張してしまう。
 処分されるところを買ってもらって、助けてもらった。そのお礼を言った方がいいのか、感謝の気持ちをどう伝えたらいいのか、ミカは分からなかった。緊張で余計にどう言ったらいいのか、考えが回らない。
 何をどう言えばいいのか。ミカは青くなったり赤くなったりしながら、もじもじしていた。
「実家からこれが届いた。子供は甘いものが好きだろう? 食べるといい」
 ミカの目の前に、綺麗に包まれた箱が突き出された。
 箱とエルネストの顔を見比べながら、まだミカはどうしたらいいのか分からず、戸惑っていた。
「いいから受け取れ。俺はこの菓子があまり好きじゃないんだ。お前が食べないなら、捨てるしかない」
 捨てる、と聞いてミカは慌てて両手を差し出し、箱を受け取る。
「ありがとうございます……」
 決して嬉しくないわけではない。エルネストには命を助けてもらい、奴隷とは思えないような待遇で働かせてくれて、食べ物まで与えてくれて、そして今、菓子まで与えてくれた。
 とても感謝していると伝えたいのに、言葉は出てこなかった。
 エルネストはそのまま背中を向けて、いつもの書庫へと歩き出した。その後ろ姿に、ミカはもう一度声をかける。
「ありがとうございます、エルネスト様。大事に食べます!」
 他に気の利いた言葉が何も思い浮かばなかった。お礼も伝えられない自分が恥ずかしく、もどかしい。それでもエルネストは怒鳴ったり怒ったりしないでくれた。
 エルネストを見送って、ミカは箱を開けてみる。綺麗な包み紙から現れたのは、焼き菓子だった。
 ミカのような貧しい子供が食べた事がないような、バターたっぷりの、ナッツやドライフルーツをふんだんに使ったクッキーだ。
 この菓子が好きではないとエルネストは言っていたが、ミカは毎日、アンナが用意し、バルテルが給仕する、エルネストが書庫で嗜む午後のお茶の準備を手伝っている。
 手伝うといっても、アンナが作った菓子を皿に並べ、ティーワゴンに茶器と一緒に載せるくらいだが、その用意される菓子はよく見ている。これとよく似た菓子が用意されているのも見ていた。
 エルネストがこれを嫌いだというのは、嘘だ。
『処分』されるミカを買い取って、手当をしてくれた。奴隷なんか診ないはずの医者にまで、診せてくれた。叩いたり、怒鳴ったりもしない。前の主人のような『仕事』も要求しない。食事も、着る物も、清潔なベッドも与えてくれた。こうして、ミカが食べた事がないような豪華な菓子まで、与えてくれた。
 自分が恥ずかしかった。お礼さえちゃんと言えない。自分の気持ちを伝えられない。もどかしさと申し訳なさだけではなかった。色々な感情がこみ上げ、ミカの榛色の瞳から、涙が溢れ出す。
「ミカや、そろそろ休憩にして、一緒にお茶でも飲まないかね。……おや、どうしたんだ。どこか痛いのか、怪我をしたのかね」
 バルテルにそう声をかけられて、ミカは慌てて涙を拭う。
「あ、ち、違うんです。掃除してたら、目にゴミが入って」
「おや、それは」
 ミカが手にしている箱にバルテルは気付いた。
「さっきエルネスト様がそれを持ってお部屋を出て行かれたと思ったら、ミカにあげる為だったのか」
 バルテルはとても嬉しそうに、にこにこ笑顔を見せた。
「そ、そうなんです。エルネスト様が、くれました」
「良かったね、ミカ。大事に食べなさい。ミカが喜んでくれたなら、エルネスト様もお喜びになるからね」
 それなのに、ミカはきちんとお礼を言えなかった。それが自分でもとても悲しい。エルネストの前だと、緊張のあまりどうしても、言葉が浮かばなくなってしまう。エルネストは優しい主人だ。最初は恐れていたが、今は怖い人ではないとよく分かっている。
 それでも緊張し、言葉が思い浮かばなくなってしまう。
 目の前でなければ、もう少しちゃんとできるかもしれないのに。
 そこまで考えて、ミカは思いついた。
 そうだ。これならもしかしたら。
「あの、バルテルさん。お願いがあるんです」



 いつものように書庫に引きこもり、読みたくもない本を適当に読んで時間を潰してから、エルネストは寝室にやってきた。
 さして疲れない生活で、寝付きはあまりよくない。今夜も寝付けなければ、ベッドの中で本でも読もうかと思っていた。
 書庫から持ち帰った本をベッドの上に置こうとして、気付く。
 綺麗に折られた紙がピローの脇に置かれていた。この紙には見覚えがあった。数日前、ミカにやった菓子の包み紙だ。
 何故ここに? 不思議に思いながら、手に取り、開いてみると、たどたどしい文字が並んでいた。
 あまり上手ではない。小さな子供が書いたような、不器用に躍った文字だ。
 不器用な文字は、子供の作文のように、内容も不器用だった。
 命を救ってもらったこと、綺麗な服を着せてくれたこと、毎日食事を与えてくれること、自由に歩けること、お医者さんに診てもらえたこと、綺麗な部屋で眠らせてくれること、おいしいお菓子を食べさせてくれたこと……どれもとても嬉しかった。とても感謝していて、たくさんお礼をいいたい。上手にお礼を言えなくてごめんなさい。手紙ならたくさん気持ちを書けると思った。
 ロサ族は文字がないけれど、大きな街の人はロサ族に手紙の配達を頼む事があったので、手紙を書いてみようと思い、バルテルに文字の書き方を教えてもらって書いた。
 そんな事が下手くそな文字で書かれていた。
 本当に下手くそな文字で、子供の作文みたいな文章だ。読みにくく、おまけに菓子の包み紙に書いてある。
 本当に、不器用な、不細工な手紙だ。
 それなのに、エルネストは胸が痛くなっていた。なんだか目頭が熱かった。
 誰か他人と関わろうと思っていなかった。まさか他人がこんな形で、エルネストの凍った心に触れてくるなんて、思いもしなかった。
 不器用なミカの手紙を握りしめて、エルネストは目を閉じる。  


2020/12/19 up

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