てのひらにひとひらの花

#05 空の高さ、空の青さ

 バルテルが隠居するまでの一年間に、ミカが覚えなければならない仕事はたくさんある。
 食料品や雑貨の在庫を調べ、市場の商店からやってくる御用聞きに注文をし、料金を払い、ごく稀にエルネストが出掛けなければならない時は、貸馬車を手配しなければならない。屋敷や庭の手入れの手配もだ。主な家事は通いのメイドであるアンナが基本行うが、エルネストの身の回りの事や、エルネストの使いは全てミカの仕事になる。その中には当然、文字を書かなければならない仕事もある。
 先日、エルネストへのお礼の手紙で文字の書き方をバルテルに習ったが、バルテルも仕事をしながらミカの勉強まで見るのはなかなか大変だった。
 そもそも、老齢のバルテルだ。通常の仕事もミカの手伝いが必要なのに、ミカの勉強までは手が回らなかった。
 ミカは仕事の合間に、厨房の隅のテーブルで文字の勉強をするようになった。ここならアンナやバルテルに迷惑をかけずに、声をかけられればすぐ仕事に取りかかれるからだ。
 バルテルが買ってくれた羽のつけペンとインク、市場から届く品物を包んでいた紙と、同じようにバルテルが書いてくれた文字の見本がミカの勉強道具だった。
 朝の洗濯、掃除の手伝いが終わり、ミカはまた厨房の隅でバルテルのお手本を見ながら、文字を書く練習をしていた。 
 文字は大分書けるようになった。問題は、文章を書く事だ。文字をどう並べたらいいのか、ミカはあまりよく理解できていなかった。文章はただ文字を並べるだけではない。主語や述語、修飾語や接続語などを組み合わせて、決まった順番に並べなければならない。
 それが難しいので、ミカの手紙は子供の作文のようなものになったわけだ。バルテルもつきっきりで教えられるわけではない。勉強はなかなか捗らなかった。
 今日もそこで詰まり、ミカは困っていた。ちょうどミカが紙を持って考え込んでいる時に、珍しくエルネストが厨房にやってきた。
 まだこの屋敷に来て日が浅いミカは知らないが、エルネストが厨房までやってくるなんて、よほど急ぎでバルテルかアンナに用事がある時だけだ。
「おはようございます、エルネスト様!」
 ミカは椅子から立ち上がり、エルネストの前に飛んでいく。
「何かお仕事ですか?」
 エルネストは無言のまま、ミカが手にしている練習用の紙を取り上げると、紙の上で相変わらず躍っている下手くそな文字をしばらく眺めていた。
 自分でも下手くそな事は分かっている。ミカはかーっと頬を赤くしながら、羞恥のあまり俯く。
 しばらく眺めた後、エルネストはやっと口を開いた。
「この前の手紙は読んだ」
「は、はい」
「子供の作文みたいだったな」
「ご、ごめんなさい……」
 その通りだ。あんな下手な手紙を書いて、失礼な事だったかもしれない。ミカはどう詫びるか、必死で考える。
「初めて書いたにしては、いい出来映えだった」
 予想もしない言葉に、思わずミカはエルネストの顔を見上げる。まだエルネストはミカの下手な文字を眺めていた。
「これからの仕事で文字も文章を書く事も必要になるな。バルテルも忙しいだろうから、今度から俺が教える」
 何を言われたのか、分からなかった。ミカはまだ呆然とエルネストを見上げていた。そのミカの視線に気付いたのか、エルネストはやっと文字からミカへと視線を移した。
「毎日一時間か、二時間、勉強の時間を確保するよう、バルテルに言いつけておこう。それでいいな、ミカ」
 エルネスト様が、ぼくに勉強を教えてくれる?
 奴隷なのに?
 ミカは考えが追いつかず、ぼんやりと考えていた。
 こうして食事も寝床も与えてもらえ、奴隷ではなく雇われた使用人のように働かせてくれているのに、更に勉強まで?
「勉強がいやなのか?」
 そう問われて、ミカは慌てて首を振った。
「違います! た、ただ、びっくりして……」
 この屋敷に来てから、戸惑う事ばかりだ。以前の主人とはあまりにも違う扱いに、ミカは困惑せずにいられなかった。
「びっくりして、ごめんなさい……。嬉しいです。もっと字が書けるようになりたいです」
 文字が書ければ、手紙が書ける。不器用なミカでも、もっと上手にエルネストに自分の気持ちを伝えられるようになるかもしれない。
「ありがとうございます、エルネスト様。う、うまくいえなくて、でも、いつも嬉しいです。エルネスト様が大好きです」
 ミカにしては、素直に自分の気持ちを伝えたのだが、エルネストは突然『大好き』と言われて、驚いていた。そんな言葉を真っ直ぐぶつけられた事なんか、もしかしたら初めてではないか。
「…………」
 無言になったエルネストに、ミカはさーっと青ざめる。何か失礼な事を言ってしまったのかと、肝が冷える思いだ。
 ミカにしてみれば、好意を伝えるのは普通の事で、何の邪心もない。父や母にも大好きだと毎日のように言っていた。ロサ族の子供たちとって、当たり前の事だった。大好きなら、惜しまず素直に相手に伝えていた。
 そんな事を言われ慣れていない、そして落馬事故後は他人も家族も寄せ付けず心を閉ざしていたエルネストには、十分強い刺激だった。
 青くなったミカに気付いたエルネストは、何事もなかったかのように取り繕った。動揺を一瞬で押し隠した。
「ああ、じゃあバルテルに伝えておく」
 紙をミカに返すと、エルネストはいつものように杖をつきながら厨房を出て行った。
 怒られなかった。
 ミカはほっとため息をついて、勉強の続きに戻る。



 言葉通りに、エルネストはミカの勉強を見てくれる事になった。
 それに喜んだのは、ミカだけではなかった。バルテルもだ。
 エリンに移り住む以前から、どこに行くでもなく、ただ屋敷に閉じこもり、他人を拒み、無為に過ごしていたエルネストが、自分からミカに勉強を教えると言い出すなんて、思いもしなかった。
「仕事の心配はいらないから、よく勉強してくるんだよ。エルネスト様が教えて下さるんだから、無駄にしてはいけないよ」
 バルテルはそう言って喜んでくれたが、言われるまでもなく、ミカも努力をしなければと、よく分かっている。
 勉強する場所は、普段からエルネストがよく閉じこもっている書庫になった。書庫に初めて足を踏み入れたミカは、まず、その薄暗さに驚いた。
 日差しから本を守る為に、窓は全て厚いカーテンで覆われている。時折空気の入れ換えは行われているのでカビ臭さなどはないが、なんとも重く、陰鬱な雰囲気だ。
 こんな暗い部屋で、エルネスト様は一日中過ごしているの?
 ミカは落ちつかず、辺りを見渡してばかりいた。
 大陸中を旅するロサ族は、日差しが大好きな民族だ。雨や雪より晴れの日の方が旅も商売もしやすい。そしてなにより、晴れの日差しは明るい気持ちにさせてくれる。
「そんなに珍しいか?」
 文字をもたないロサ族だ。本も珍しいだろうとエルネストは思ったようだが、そうではない。ミカはこんな薄暗いところに閉じこもっているエルネストを心配しているのだ。
 ミカは慌てて首を振り、テーブルに飛びつく。
 暫くはエルネストの指導通りに勉強していたが、この重い雰囲気で薄暗い部屋に、ミカは不安になり始めていた。
 薄暗い部屋は、ミカに思い出したくない事を思い出させる。
 だんだんと顔色が悪くなってくるミカに、エルネストも気付いたようだった。
「どうした。気分が悪いのか?」
「い、いえ! 大丈夫です……」
 平静を装っていても、ミカの心臓はばくばくと脈打つ。ペンを握る手にもそれは現れていた。ミカの右手が、小さく震えている事にエルネストも気付いたようだった。
 エルネストもミカが前の主人の下でどういう目に遭っていたのか、気付いている。傍らの杖を取り、エルネストは窓辺へと歩いて行く。
 カーテンを開くと、まぶしいくらいの光が書庫へ流れ込んでいた。春の終わりの、初夏へと移ろう日差しだ。
 ミカが振り返ると、窓越しにエルネストは青空を眺めていた。
「ああ、エリンの空はこんなに高くて青いのか」
 エルネストの言葉は、不思議な響きだった。まるで初めて空を見上げたかのような、初めて空の青さに気付いたかのような。ミカは思わず立ち上がり、窓辺のエルネストに近寄る。
 空を見つめたままのエルネストの横顔を見上げ、それから同じように、空を見上げる。 エルネストが何を考えているのか、ミカには分からない。エルネストの凍っていた心に触れてしまった事も、ミカは気付いていない。
 何も分からなくても、ミカは嬉しかった。
 いつも気難しい顔をしているエルネストが、ほんの少しでも笑みを見せてくれた。それがとても嬉しかった。



2020/12/21 up

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