メモには今日やっておいてほしい仕事の内容が書かれているが、大雑把な指示だ。
『掃除だけやってくれればいい。しばらくは掃除で手がいっぱいだろう』
確かに掃除で手一杯だ。
仕事の指示は出ている。屋敷は埃だらけでやることは山ほどある。メイドは黙々と掃除をしていたが、カーテンなどのファブリック類の綻びが気になっていた。それに、荒れ放題の玄関ポーチや庭先も気になる。
草刈りや庭の手入れに使う道具や裁縫道具はどこにあるのだろう。
一応、蜘蛛に聞いてみたが、蜘蛛も分からないのか、頭を傾げるような仕草をみせただけだった。
では、主人本人に聞くしかない。
昼間はどうやら現れず、大変な人見知りらしい主人にどうやって聞けばいいのか。
「蜘蛛さん。ペンや紙はありますか? ご主人様にご挨拶や仕事の連絡などをしなければなりませんので、手紙を書きたいのです」
掃除の手を休めて、肩の上にいる蜘蛛にそう尋ねると、蜘蛛はぴょんと飛び降りて、走って部屋を行ってしまった。
そのまま少し待っていると、蜘蛛は得意げに頭の上に小さなインク壺を乗せ、戻ってきた。
「ありがとうございます。こんな重たいもの、大変では? 案内していただければ、自分で……」
メイドがインク壺を手に取ると、蜘蛛は話を聞かずにまた走り去ってしまった。
彼は彼で、仕事をもらえたのが嬉しかったのかもしれない。ずっとメイドの肩の上にいるだけで、退屈だったのだろう。
掃除を続けながら待っていると、ペン、紙、と次々運んできてくれた。紙は引き摺っていたので少々汚れてしまったが、彼のせっかくの気遣いだ。メイドはありがたく受け取った。
「お疲れ様でした。蜘蛛さんのおかげで、ご主人様にご挨拶ができそうです」
蜘蛛はメイドを見上げ、なんだかとっても誇らしげで嬉しそうだ。
この様子を見るに、ときどきは彼にも頼み事をした方がよさそうだ。ただ肩に乗っているだけでは退屈でしかたないのはよく分かる。
きりよく一部屋分の掃除を終え厨房に戻ると、メイドは新しい主人への手紙を書き始めた。
まず、どこにも行く当てがなかった自分を買い取ってもらった感謝を伝えなければならない。
それから、裁縫道具や庭の手入れ道具のありかを聞いておこう。入ってはいけない部屋があれば、それも。
メイドは思いついた用件を書き足しながら、最後に『署名』ができないことに気付いた。
メイドには、名前がなかった。
きっと名前はあったはずだが、森に捨てられてからバンパイアの主に拾われるまでの間に、なくしてしまった。
彼がなくしてしまったのは、名前だけではなかった。それまでの記憶もなくしてしまっていた。物心がつくかつかないかくらいの歳で捨てられたのだ。何も覚えていなくても仕方がなかった。
名前も、記憶も、感情も、全てなくしてしまったのに、彼を置き去りにして去って行く父親らしい人の後ろ姿だけは覚えていた。
前の主は、メイドに新しい名前をつけなかった。なぜなのか語られる事はなかったが、名前がなくとも不便だと思った事がなかった。名前がほしいとも思わなかった。名前が必要な場面が今までなかったのだ。
新しい主人に仕えるとは思っておらず、いざこうなってみると、名乗れる名前がないのは不便だと感じた。
ないものは書けない。
署名できないが用件はまとめられた。これで十分だ。
メイドはペンを置き、仕事の続きに戻ることにする。今日はバスルームの掃除をしようと思っていた。そろそろメイドも身ぎれいにしなければならない。不衛生なメイドなぞ、お屋敷にあってはならないものだ。
一階の隅にバスルームはあった。人間が四人くらい入れそうな巨大で深めのバスタブがあったが、これは埃を被っておらず、使われている形跡があった。
可愛らしい猫足のバスタブだ。サイズ以外は普通のデザインと形状で、これを見る限り、主は相当大きな身体の持ち主ではないだろうか。
埃は被っていないがあまり手入れはされていない。陶器のバスタブはくすんで汚れも残っている。
メイドはバスタブを磨きながら、今まで知り得た主の情報をまとめる。
大変な恥ずかしがり屋で、人前にはなかなか出てこない。
文字も文章もとても綺麗で、高い知性と気品が感じられる。
大きなバスタブが必要になるくらい、大きな身体を持っている。
今までのバンパイアの主とは大きく違う。バンパイアは見た目だけなら人間とそう大差がなかった。今度の主は文字が書けるような手を持つ大きな魔物らしい。
どんな姿でも、主人には違いない。同じように仕えればいいが、身体が大きい可能性が高い事を考慮して、家具の配置をしなければならない。
そういえば、この屋敷におかれていないものがある。
鏡だ。
鍵のかかっていない部屋は全て確認してきたが、鏡はひとつもなかった。
鏡がないのは身支度を整える上で少々不便だが、前の主も持っていなかった。バンパイアは鏡に映らないので、必要がなかったからだ。屋敷にあった鏡はメイドと老メイドが身支度を整えるために持っているものだけだった。
撫子は珍しい種類の魔物だと言っていた。ここの主も鏡に映らない魔物なのだろうか。
夜になりメイドが棺桶に戻って眠りにつこうとすると、蜘蛛はそれを見届けてからどこかに去って行くのだが、あれは主のところに帰るのかもしれない。
この蜘蛛の普段の仕事は恐らく屋敷内の見回りで、メイドが新たに雇われたことによって、『メイドの面倒をみる』という仕事が追加されたようだった。いわばメイドの上司にあたる。
朝が来ると、蜘蛛はまた棺桶の縁に載ってメイドが目覚めるのを待ち構えていた。
厨房のテーブルに置いておいた主人宛ての手紙はなくなっていて、代わりにまた主人の書いたメモが置かれていた。
やはり気品と高い知性を感じる文字だ。これだけ綺麗な文字が書け、人が住むような屋敷に住んでいるなら、魔物といえど人型に近い姿をしているのではないだろうか。
メモは要約すると『庭の手入れ道具はとっくに朽ちて処分した。裁縫道具ももうとっくにどこかにやってしまった。適当に選んで撫子から購入してくれ。他にも必要なものがあれば適当に買ってくれ。代金は支払っておく。鍵のかかっている部屋は立ち入り禁止だ。それ以外の部屋の掃除を頼む』という内容だった。
メイドが名前を名乗らなかった事に関して、不審に思いもしないのか、そもそも興味がないのか、何も書かれていなかった。
『適当に買う』とは。
メイドは少々首を傾げて考え込む。
今、メイドが一番ほしいものはベッドと自分の部屋だ。
撫子が届けてくれた着替えなどの衣類は棺桶の傍にたたんで重ねてある状態で、寝起きも今のところ棺桶のある部屋で行っている。毎日ベッドの代わりに棺桶を使っているが、快適とは言い難かった。
この棺桶はバンパイアの主が以前使っていたものだ。
そして新しい主が決まるまでこの中でメイドは眠り続けていたが、それは眠るというより棺桶にかけられた魔術で一時的に仮死状態になっていたようなものだった。
バンパイアには快適な寝床かもしれないが、寝返りを打つ人間にとって、寝床にするには少々厳しかった。ここで眠っても安らげず身体の節々が痛くなるので、ベッドと寝具がほしかった。いや、寝具だけでもあれば、床で眠れる。
寝具とベッドは『適当に買って』もいい『必要なもの』だろうか。
メイドはメモを見つめながら考える。
『自分の部屋』も、メイドは普通、持たないのだろうか。ろくに世の中を知らないメイドにとって何が『普通』なのか、分からないことばかりだった。
ひとりでは全く判断がつかない。
バンパイアの屋敷の中しか知らないメイドに、一般的な常識があるはずがなかった。
メイドは庭の手入れ道具一式とリネン類の繕いに使う裁縫道具などを紙に書き留める。撫子がやって来たらこれは頼むつもりだ。業務上必要なもので、これは許可がでているものだ。
だがやはり、ベッドや寝具は判断がつかず書く事ができなかった。
あまり快適ではないが、棺桶でもそれなりに眠れる。
メイドはそう割り切って、今日の仕事に取りかかることにする。