ミカもエルネストに勉強を教えてもらうまでは、滅多に屋敷の中でも顔を合わせる事はなかったが、それはアンナも同じだった。子供の頃から仕えていたバルテルだけがエルネストの傍に近寄る事を許されていた。
そのエルネストが、自分から戸外に出るようになった。
戸外といっても、通りや隣家からは見えない木陰のポーチだが、それでも大進歩だ。この穏やかに陽の光が届くポーチにテーブルと椅子を設えて、毎日ミカに勉強を教えるようになった。
明らかに、薄暗がりに怯えるミカのためだ。だが、エルネストはそんな事を一切口にしない。
『勉強をするには書庫は暗すぎるが、カーテンを開けると本が傷む』
ミカやバルテルにはそう説明していたが、ふたりともエルネストの気遣いに気付いていた。
そしてエルネストは、ミカの勉強の時間以外も、時々、ポーチで本を読んで過ごすようになった。
これは大きな変化だった。以前は書庫と寝室、そして食事をとる為に食堂に顔を出すくらいで、バルテルでさえ、用事がなければエルネストに近寄れなかった。
バルテルだけだった給仕も、ミカが任されるようになった。元々、バルテルの仕事を引き継がせる為にミカは買われたのだが、落馬事故からこの五年、バルテル以外の誰かが許された事はなかった。バルテルの代わりが誰にでも務まるわけではなかった。
「エルネスト様、お茶の時間ですよ」
バルテルの指導のおかげで、ミカはなんとかまごつかずにお茶の用意ができるようになっていた。最初の頃は緊張のあまり手が震えて、溢さずにお茶を注げなかったが、最近は落ちついて給仕できるようになった。
ミカがテーブルにお茶と菓子を並べる間も、エルネストはろくに口を利かない。最初ミカは怒らせてしまったのかとびくびくしていたが、そうではなかった。
こうしてポーチに出るようになったものの、エルネストが以前の明るさを取り戻したわけではなかった。返事がないのも無表情で無愛想なのも、ミカは慣れてきた。エルネストの邪魔にならないように茶器を並べ菓子をとりわけ、立ち去ろうとした時に、ようやくエルネストが口を開いた。
「ああ、忘れていた。ミカ、来い」
ミカが素直に近寄ると、エルネストはポケットを探り、何かを取り出した。・
「そろそろ街へ出る事もあるだろう。これをつけておかないと、警備兵に呼び止められた時に、身元が証明できない」
エルネストが取り出したのは、焼き印を施された革のバングルだった。紋章のようなものが焼き印されているが、これはエリン市の紋章だとエルネストが教えてくれた。
「エリン市のルベール家の奴隷だという身元証明だ。身分証明書がないと、逃亡奴隷や密入国した他国の人間だと判断される」
エルネストはミカの左手をとり、手首にバングルを巻き付け、金具を留める。ミカも今は不自由なく文字が読めるようになった。エリンの紋章の他に、ルベール家とミカの名前も焼き印がなされている。ミカはその焼き印をしみじみと眺める。
「警備兵に呼び止められたらこのバングルを見せれば、咎められる事はない」
「街にお使いに出ていいんですか?」
思わず口にしてしまった。
「今はバルテルがいるが、あと一年もすれば首都の娘夫婦の家に帰る事になっている。それにもういい歳だから、外を回る仕事はきついはずだ。ミカが早く街に慣れてくれれば、バルテルはもう無理をしないですむ」
確かにバルテルは時々、徒歩や貸馬車などで出掛けている。だが、彼は奴隷ではない。サクロナ人で、ルベール家に長く仕える従者だ。奴隷のミカとは違う。
奴隷が歩き回ってもいいとは、にわかに信じられなかった。エルネストは前の主人とあまりにも違いすぎて、ミカは戸惑わずにいられなかった。
「いきなり街に行けと言われても、迷うだろう。まずはこの住宅街を散歩してだいたいの位置を覚えるといい」
エルネストはティーカップを持ったまま、隣の敷地を指し示した。
「隣はサクロナ王立軍の佐官の屋敷だ。この辺りはそれなりに財産を持った商人か軍人が住んでいる。治安はそういう事情でだいぶいい。まずこの辺りの道を覚えるために、毎日散歩に行っておくんだ」
当然のように勧められて、ますますミカは戸惑う。
前の主人の時は、ほぼ一日中、犬か家畜のように繋がれて過ごしていた。時折首輪を外してもらえたが、屋敷の外に出してもらえるなんて事は一度もなかった。
ミカの戸惑いに気付いたのか、エルネストは更に続ける。
「今度からバルテルが街に出る時についていけばいい。散歩も朝の早い時間なら、まだ警備兵がうろついていないだろう」
「あ、ありがとうございます」
主人であるエルネストがそういうのだから、問題ないのだろう。それでもミカは不安で、ティーワゴンを押して厨房に戻ってきた時に、ちょうどそこにいたバルテルに尋ねてしまった。
「エルネスト様が許して下さるのだから、いいんだよ。ちょうど夕方まで特に仕事もないから、この辺りのお屋敷を見物してくるといいよ」
ちょうどいい、とばかりにバルテルに背中を押されて、ミカは奴隷になってからはじめて、ひとりで散歩にでる事になった。
ミカの両親は、ミカが生まれるずっと前にサクロナ王国に来たことがあると言っていたが、ミカは初めてだった。もしも流民狩りがなければ、ミカたち一族は、このエリンまでやってきて、商売をしていたかもしれない。
ミカは薬草を見つけるのが得意で、最近は自分で集めた薬草を商うようになっていた。薬草集めはミカの大好きな仕事でもあった。
ミカは恐る恐る、屋敷の門の外に踏みだす。外はこれから初夏になろうという、気持ちのいい季節だ。午後の日差しは燦々とミカに降り注ぐ。
ロサ族は太陽が大好きな一族で、ミカももちろん、日差しが大好きだ。明るくて広々した外の風景ですぐに戸惑いや不安を忘れ、辺りをわくわくと見回す。
エルネストが言っていた、隣の佐官の家の前を通り過ぎ、色々な屋敷の庭先を眺めながら、庭を彩る様々な草花や樹木を観察する。
あの家には、立派な菩提樹がある。菩提樹の花は初夏に咲くが、安眠効果があるので、お茶にして飲めばリラックスできる。
エルネスト様は夜なかなか眠れないみたいだから、あの花でお茶を作って飲んでもらえたら。
そんな事を考えながら、ミカは歩き続ける。
街にある草花や木は、誰かのものだ。野山にあるものなら自由に摘んでも許されるが、街ではそうもいかない。どこかで手に入れられないかと、ミカは考える。
街の中は歩けても、街の外には出られないだろう。外に出られれば、色々な薬草を持って帰れるかもしれないのに。
エルネストには命を助けてもらって、こんな自由な生活をさせてもらっている。なんとか感謝の気持ちを伝えたかったが、ミカにできるのは、不器用な文字で綴る子供の作文のような手紙くらいだ。
せめてどこかで薬草を手に入れられたら。
曲がり角にさしかかると、小さな赤い屋根が見えた。柵の代わりに縄が大雑把に張られ、『売家・売地』の看板が立てられている。赤い屋根を持つ小さな可愛い家は、今は空き家になっていた。
こぢんまりとした可愛い家が、荒れ果てた庭の中にぽつんと建っていた。こんな可愛い家なのに、誰も買わないのかとミカは不思議に思ったが、この居住区はエルネストも言っていた通り、豊かな軍人や商人が住んでいる。この地区に住めるような人なら、もっと大きい屋敷に住みたがるため、この小さな家は誰にも買われずに、ひっそりと佇んでいた。
庭は荒れていたが、様々な草花や木が生い茂っていて、ミカは嬉しくなってしまった。流浪の暮らしをしていたミカにとっては、懐かしい野山や草原を思い出させる、素敵な場所だ。
柵代わりの縄越しに、草木が鬱蒼と生い茂る庭を眺めながら歩いていく。よく見るとバラや木苺の影に、ひっそりと香草や薬草が茂っていた。風に運ばれたか、前の住人が好んで植えたのかは分からないが、ミカはますます嬉しくなる。手を伸ばせば届くところに、まだ咲き始めのりんご草が生えていた。
ロサ族はりんごの匂いがするからりんご草と呼んでいるが、本当は別の名前があるかもしれない。ミカたちはよくこの花に熱湯を注いで蒸らし、お茶にして飲んでいた。香りがとてもいいので、ミカもよく街の人に売っていた。
ほんの少しだけなら、摘んでもいいだろうか。
誰かのものを奪ってはいけないと、小さな頃から両親に言い聞かせられていたので、ためらいはあった。
「ごめんなさい。少しだけ、下さい」
誰もいない荒れ果てた庭にそう詫びてから、りんご草の小さな白い花を摘み取る。
花を六つと葉を少し。ちょうどお茶一杯分の花だ。まだ幸せに両親や仲間たちと暮らしていた頃の思い出も呼び起こす、懐かしい香りがしていた。ミカは両手で小さな花を大事に包み、来た道を振り返り、真っ直ぐに駆け出した。
ミカが散歩に出てから、まだ大して時間が過ぎていなかった。その為、エルネストはまだポーチで本を読んでいた。
「エルネスト様!」
息せき切って駆け寄ると、エルネストはすぐに顔をあげ、ミカを見上げた。
「これ、お土産です!」
ミカは大事に両手で包んでいたりんご草の花を差し出す。突然差し出されたそれに、エルネストは少々面食らっているようだった。
「あの、これは、りんご草っていうんです。りんごの匂いがするから、りんご草って言われてるんですけど、ロサはこの花にお湯を注いで、お茶にするんです。りんごみたいないい匂いのお茶になって、寝る前に飲むと、ぐっすり眠れるんです」
エルネストは黙ったまま、ミカの顔を見上げ、話を聞いていた。ミカは夢中で話し続ける。
「エルネスト様は夜なかなか眠れないってバルテルさんが言ってたから。今夜、これでお茶を作るので、飲んで下さい」
エルネストは差し出されたミカのてのひらの花を、ひとつだけ摘まみ上げた。確かにりんごのような、甘酸っぱい爽やかな香りがする。
「本当にりんごの匂いがするな」
ミカはぱっと笑顔になり、頷く。
「寝る前にお茶を作りますね!」
再び大事に両手に包んで、ミカは厨房へと駆け出した。
上手にお礼もいえない。感謝の気持ちも伝えられない。けれど、エルネストの役に立てるかもしれない。ほんの少しでも、役に立てたら。役に立てるかもしれないと思うと、ミカは嬉しくてしかたなかった。