メイドは知らなかったが、メイドの『面倒』を見ている蜘蛛は、面倒をみるだけが仕事ではなかった。
主の『眼』の代わりも果たしていた。
蜘蛛が見たものは主も見る事ができていた。つまり蜘蛛の眼を通してメイドの様子を見ていたのだ。
蜘蛛は眼がひとつもない『無眼』から最大で八つあるものまで、多様だ。
この蜘蛛には大きな目がふたつとその両脇に小さな目がひとつずつと、四つしかないように見えていた。だがメイドが気付かないだけで、この蜘蛛は八つの眼を持っていた。メイドが気付かなかった両側頭にある体毛に埋もれたとても小さな四つの眼は、主の眼として使われていた。
そのおかげで主は常に蜘蛛の眼を通してメイドの位置を把握し、姿を見られることなく気取られることなく屋敷の内外への移動ができていた。
メイドもこの主も、理由は違えど同じように世間とも他の同族ともほぼ関わることなく狭い世界で生きてきた『世間知らず』という共通点があったが、幸いなことに主は『人間の母親』と暮らしていた経験があった。
そのおかげですぐにメイドが『人間らしい』生活をしていない事に気付いていた。
このメイド、棺桶で寝起きしているが、それで身体が休まるのか?
主は蜘蛛の眼を通してメイドの行動を観察しながら考える。
彼の母親はベッドで寝起きをしていた。彼も小さな頃は母親と一緒に寝起きしていたが、成長するに従って別々の部屋になった。母親がいくら『赤子』だと思い込んでいても、身体は日増しに大きく育ち、人より大きい魔物の身体には手狭になっていった。
メイドにも部屋が必要なのではないだろうか。
バンパイアに育てられたせいでおよそ人間らしからぬ棺桶生活をしているのかもしれないが、人間なら人間らしくベッドで寝起きした方が、身体にいいのではないだろうか。あんな狭苦しい棺桶にぎゅっと詰まって寝ていたら、間違いなく身体に悪い。
自分が『いい主人』になれるとは到底思えないが、買ったからにはきちんと面倒を見るのが主人の役割だ。
世間知らずの魔物でも、それくらいの思い遣りと常識は持ち合わせていた。
そしてこのメイド、中古品とはいえなかなか高額だった。撫子は『中古だがこのクラスのメイドは妖魔メイドにもなかなかいない』と言って、ぼったくりじゃないかという金額を提示していた。
さして長く生きられず何かあるとすぐ死ぬような脆弱な人間に、この金額。
腑に落ちないが撫子の口車に乗せられてしぶしぶ売買契約書にサインしてしまった事を思い出す。
安くない金を支払ったのだ。こうなったらバリバリ働いてもらって元を取りたい。それには健康維持が重要だ。魔物も人間も身体が資本なのは同じだ。
主は部屋の隅の書斎机に放り出してあった撫子色の紙を拾い上げ、ペンを走らせた。
この紙は『呼び出し紙』といい、ダーダネルス百貨店が配布・販売しているものだ。魔力を帯びており、この撫子色の紙は外商・撫子の許に届くように細工されている。注文書も兼ねていた。
ベッド、鏡台、箪笥、寝具、ライティングデスク。
思いつく物を書き綴ったが、他に必要なものがあまりよく分からない。人間の生活に必要そうなものを適当に見繕ってくれ、と撫子への伝言も書き綴る。
書き終えると撫子色の紙をたたみ掌に乗せ、ふっと息を拭きかける。紙はふわりと舞い上がり、まるで花が散るように四散し、消えた。
『必要なものを適当に頼め』と書き置きしたのに、あのメイドは何も自分のものを頼まなかった。先日、撫子が納品に来たが、請求書を確認したところ、本当に庭仕事の道具と裁縫道具、少量の食料品くらいしか買っていなかった。
色々訳ありなメイドだ。そんな中古品で弱い人間を買い取ってくれた主人に、図々しく要望を言えないと思っているのだろうか。
そういう気遣いは面倒だ。
これは仕事だと割り切って、必要なものはしっかり要求し自己管理を徹底して働いてもらう方が気が楽だ。
再び蜘蛛の眼を借りると、メイドは庭の手入れをするつもりなのか、届いたばかりの道具を持って庭へと出て行くところだった。
蜘蛛はメイドの肩に乗っている。ちょうどメイドの横顔を見上げる状態だ。
撫子の言う通り、美しいメイドだった。
短く切りそろえた黒髪に、透けるような白い肌。そしてひときわ目をひくのは、瞳だ。黒々とした長い睫に縁取られ深く澄んだ青い瞳は、殊更にこのメイドの美貌を際立たせていた。美貌なだけでなく手足もすらりと長い。そして立ち居振る舞いも洗練されており、厳しく教育を施されていたのが窺えたが、この容姿と服装でも不思議なくらい女性的な雰囲気がなかった。身体も顔の輪郭も、女性にしてはシャープすぎるせいか。
『高い美意識を誇るバンパイアが手元に置き自ら育てた人間』という売り文句を裏付ける、現実味のない妖しく不思議な雰囲気を纏っていた。
ふいにメイドは肩の上の蜘蛛へと視線を移した。蜘蛛に何かを語りかけるように、形のいい唇が動く。蜘蛛の眼を通して、まるで自分が見つめられているような気がした。
蜘蛛を見つめるメイドの真っ直ぐな、何もかも見透かすような眼差しで、主は我に返った。
一瞬、蜘蛛の眼越しに自分の醜い姿を見られてしまったような気がした。
蜘蛛に眼を返した主は窓辺のカーテンの隙間をそっとのぞき込み、光差す庭を盗み見るように上階から見下ろす。
母親が元気だった頃、よく庭の手入れをしていた。誰が訪れるわけでもない庭から玄関へと続く小道を作り、季節の花を植え、華やかに飾っていた。
当時の面影さえ残っていない荒れた庭だ。雑草がはびこり廃墟の様相だが、メイドはここも手入れをするつもりのようだ。
メイドが来て一週間で屋敷は見違えるように綺麗になった。裁縫もできるのか、カーテンのほつれも綺麗に繕っていた。
メイドはとてもよく働く。彼が何を考えているのか知りようもないが、朝から晩まできびきびと動き回っていた。
もしも自分が、あのメイドのように美しい姿を持っていたなら。せめてあのメイドのように、完全な人間の姿を持っていたら。
買ったばかりの鎌ではびこる雑草を刈り始めたメイドの姿を眺めながら、ぼんやりと思い巡らす。
こんな森の奥で息を潜めて暮らす事も、こんな寂しい場所で母をひっそりと死なせる事もなかっただろう。
せめて自分が人の姿をしていたなら、母もこんな森の奥ではなく、騎士団のある国から遠く離れたどこか他の国で暮らせたのでは。
あのメイドは、諦めていた『人間』の世界への憧れを強く思い出させる。それはつらく苦しい気持ちだった。ずっとそう思っていた。
それなのに今、手に入らないはずの『人間の世界』が目の前にあるような気がしていた。
ここが森の奥深くにある魔物の屋敷だという事を忘れそうなくらい、メイドはごく自然に、夢見て憧れた『人間の生活』を見せてくれていた。
メイドは主の視線に全く気付かずに黙々と草を刈っていて、穏やかな昼下がりだった。
あまりに穏やかで、注意を怠っていた。
ここしばらくの間、人間の討伐隊も魔物も現れなかった為に油断もあった。そしてメイドに姿を見られないよう、屋敷にいる蜘蛛の眼にばかりかまけていた。普段なら森を徘徊する蜘蛛たちにも注意を払い、屋敷に近付く人間や魔物を警戒していた。
間が悪い不運が重なっていた。侵入者に森の蜘蛛が噛み殺された事に、気付いていなかった。
主がカーテンを閉め窓辺から離れ廊下へ出た瞬間、森の中から猛々しい獣の咆哮が響き渡った。咄嗟に窓辺へ駆け寄りカーテンを開け放ち、庭を見下ろす。
鬱蒼と生い茂った森から現れた巨大な双頭の狼が、今まさに、メイドに襲いかかろうとしていた。
あんな魔物に襲われたなら。無防備で弱い人間なぞ一噛みで骨を砕かれ絶命するだろう。
「逃げろ! 早く!」
そう叫びながら躊躇なく窓から庭めがけて飛び降りた。だが、いくら俊敏な脚を持っていても間に合わない。双頭の狼は一瞬で間合いを詰め、メイドの目の前で鋭い牙を剥いた。
メイドの身体がふっ、と沈んだ。沈んだ、と思った瞬間、濃紺のスカートと真っ白なパニエが翻り、鮮血が飛び散った。
メイドの血だと思った。間に合わなかった。そう主は思っていた。遅れて主が放った銀色の糸は、鮮血を浴びながら双頭の狼の四肢を捕らえ、つるし上げた。
ぐしゃっと鈍い音を立て、何かがメイドの足元に転がった。
抉れて潰れた大きな眼球だった。しなやかで強靱な糸に縛り上げられた双頭の狼は、狂ったように吠え猛る。ふたつある頭の片方の頭はぐったりとうなだれていた。そのうなだれた頭の眼窩は空洞だった。ぽっかりと空いた眼窩からは、生々しい鮮血が溢れ出ていた。
メイドの両手には、血塗れのダガーが握られていた。鋭く研ぎ澄まされた漆黒の刀身を持つ、戦闘用のダガーだ。どこからこんな二本のダガーを? そう考えてから思い当たった。スカートの中だ。派手に翻ったのは、スカートの中にガーターホルスターがあり、そこからダガーを引き抜いたからだ。
吠え猛る狼にとどめを刺すべく、主は糸を引き絞る。骨と肉の砕ける音と共に短い断末魔を上げ、狼は事切れた。
狼が絶命したのを確認してから、メイドはゆっくりと背後の主を振り返った。
このメイドは、この姿を見た瞬間、どんな悲鳴を上げるだろうか。
隠しきれるものではないと、分かっていた。
主の目の前で、青く澄んだ瞳が瞬いた。