てのひらにひとひらの花

#08 明かりを灯す手

 花を商う露店の前で立ち止まったミカに気付いたバルテルは、一緒に立ち止まり、花屋の店主に声をかけた。
「お嬢さん、花を見せてもらうよ」
「いらっしゃい! ゆっくり見ていって!」
 天幕と同じ生成りのエプロンを掛けた若い娘は、明るく挨拶を返してくれた。
 ミカが目を留めたのは、所狭しと並べられたたくさんの切り花でも鉢植えの花たちでもなく、天幕の柱や梁に飾られたドライフラワーやリースでもなく、露店の影にうち捨てられたように置かれたひとつの鉢植えだった。
 それは菩提樹の若木だった。もう花期も終わりかけな上に弱った、枯れかかったような状態で、売り物にはならないようなものだ。
「ミカや、どれが欲しいのかね?」
「あの、菩提樹が」
 ミカは死にかけた菩提樹の鉢植えをバルテルに指し示した。
「鉢植えの菩提樹を買ってもいいでしょうか」
「それは構わないが、もっと元気な木を買った方がいいんじゃないかい? ああ、お嬢さん。菩提樹の鉢植えはこれしか残っていないかね」
 バルテルが声をかけると、店主は少し困ったように首を傾げた。
「ああ、ごめんなさい。それが最後なんだ。明後日くらいに取りに来てもらえれるなら、もっと元気のいい菩提樹を用意しておくよ」
「この鉢植えは、どうなってしまうんですか?」
 ミカは思わず店主に尋ねる。
「どうって……まあ、もう枯れちゃうだろうから処分するよ。誰だって枯れかけた木より、元気のいい木の方がいいでしょ」
『処分』という言葉を聞いて、ミカはエルネストに出会う前の事を思い出していた。
 この菩提樹と同じように、ミカも『処分』されるはずだった。
「あの、これ、買います。僕が買います!」



 ミカの初めての買い物は、便箋と日記帳と、菩提樹の鉢植えだった。
 花屋の店主は『そんな死にかけの鉢植えだけじゃ申し訳ないから』と、種や球根をおまけしてくれたが、植える場所の問題があった。
 ミカは菩提樹の鉢植えを抱えて、いつもの木陰のポーチで書き物をしているエルネストにどう声をかけようか、考えていた。
 ミカがもたもたと話し掛ける内容を整頓し終わる前に、エルネストがミカに気付いて顔を上げた。
「おかえり、ミカ」
 おかえり、という言葉に、ミカの胸はなんだかじんわりと温かくなっていた。少し切ないような、とても嬉しいような。ミカはエルネストの傍に駆け寄る。
「ただいま帰りました。エルネスト様に頂いたお小遣いで、日記帳と、この鉢植えと、種と球根を買いました」
 エルネストは書き物をやめて、ミカの買ってきた鉢植えを見つめる。
「これは何の木だ?」
「菩提樹です。葉っぱや花でお茶が作れるんです。すごく大きな木になります」
 鉢植えを差し出し、ミカは思い切って頼む事にした。
 菩提樹はミカと同じように、お日様が好きな木だ。日の当たる場所に置いてやりたかった。
「どこかに植えるか、鉢植えで育てたいです。エルネスト様のお庭のどこか、すみっこで構わないんです。貸して頂けませんか」
 どう説明して頼めばいいのか分からなかったミカは、勢いだけで言ってみるしかなかった。心臓が口から飛び出しそうなくらい、ドキドキしながらエルネストの返事を待つ。
 エルネストは枯れかけの菩提樹を眺めながら、少し考え込んでいた。答えを決めたのか、ようやく口を開いた。
「俺はあまり庭に興味がないんだ。見苦しくない程度に手入れしてあれば、それでいいと思っているくらいだ」
 確かにエルネストはこのポーチには出てくるが、庭を歩くような事さえない。とにかく人目を嫌い、人目に触れる庭になんか出たくないという態度だ。
「屋敷の裏、隣接する佐官の屋敷との間に、そこそこ日当たりのいいところがあったはずだ。あそこには柵くらいしかない。あの辺りなら好きに植えていい」
 そこは二階の廊下の窓から見える、朝日の当たる東向きの場所だ。厨房の裏口から数歩で行ける。
「あ、ありがとうございます! あの、他にも種や球根があるんです。それを植えてもいいですか?」
「あの辺りなら構わない。好きに使うといい。庭仕事をするのも気晴らしになるんじゃないか」
「あ、ありがとうございます! 綺麗に使います!」
 ミカは大喜びでバルテルの許へ駆けて行く。道具を借りて、早くこの弱った菩提樹を植え替えてやりたかった。たっぷり水と栄養を与えてやりたかった。
 バルテルにスコップとじょうろを借りて、ミカは裏庭へ飛んでいく。
 菩提樹はとても大きくなる木だ。迷惑にならないよう、こまめに枝打ちをしなければならない。邪魔にならない場所をよく考えて、大きな楡の木の傍に植える。
 花屋の店主にもらった草花は、今蒔くのに適したものと、来年のものとがあった。今蒔ける草花を蒔き、綺麗に地面を整え、汲みおいた水を撒く。
 裏庭に落ちていた小石を集めて囲うと、ミカの小さな花壇ができた。
 片付けを終え、改めて、植えたばかりの菩提樹を眺める。
 エルネストは枯れかけた菩提樹を見ても、何も言わないでくれた。それがミカはとても嬉しかった。
 花屋の店主も言っていた。誰だって、元気のいい木が好きだと。
 エルネストは死にかけたミカを選んでくれた。そしてミカも同じように、死にかけた菩提樹を選んだ。
 ミカはエルネストがあの時、何を考えていたのか、少しだけ分かるような気がしていた。
 この菩提樹の若木を、うち捨てられるまま死なせたくなかった。せめて、たっぷりのお日様と、たっぷりの水を与えてやりたかった。
 エルネストもあの時、同じ気持ちだったのかもしれない。
 もう死んでしまうミカを、あんな檻の中ではなく、温かい場所で眠りにつかせたいと、そう思ってくれていたのかもしれない。



 死にかけていた菩提樹は、あっという間に元気になった。
 土が傷んでいたのかもしれない。植え替えて数日でしおれた葉も花も苞も潤い、見違えるほど生き生きとし始めていた。
 まだ若木で小さく、花期も終わりに近いが、少しくらいなら収穫ができそうだった。
 菩提樹の花や葉、苞で作るお茶は、安眠や鎮静の効果がある。なかなか寝付けず、眠りも浅いエルネストに、お茶を作りたかった。
 りんご草も同じように安眠の効果がある。できればりんご草も植えたいが、あの赤い屋根の可愛い家と薬草園のような庭は、誰かの持ち物だ。勝手に持っていくのは盗むことと同じだ。
 挿し木の為に少し折らせてもらうのと、種を取るくらいなら許されるだろうかと、ミカは通りかかる度に、生真面目に悩んでいた。
 今日もまた、空いた時間で手入れをしようと裏庭にやってきて、ミカは菩提樹を眺めながら考え込む。
 あの庭には、りんご草の他にも色々な香草や薬草が茂っていた。種が取れそうなものなら、キンセンカがあった。キンセンカをオイルに漬け込んで絞ったものとミツロウを混ぜれば、ひび割れやあかぎれの薬になる。ミカが作る薬の中で、最も街で評判がよかったのは、キンセンカの軟膏だった。
 もし誰かが住んでいるなら、株分けや種を分けてもらえないか、尋ねる事ができたかもしれないのに。
 そんな事を考えていると、不意に頭上から、ガサガサと葉をかき分ける音が聞こえた。何かいるのかと楡の木を見上げたミカの耳に、小さな鳴き声が届いた。
 にぃ……、と、か細い鳴き声だ。
 慌てて声の主を探すと、楡の枝先に、真っ白でふわふわの毛皮が見えた。



 今夜、寝しなに読む本を数冊選んで二階の寝室に置き、廊下に出たエルネストの目に飛び込んだのは、二階より少し高い楡の幹によじ登り、枝先に手を伸ばすミカの姿だった。ちょうど二階の廊下から、裏庭はよく見えた。
 一瞬、エルネストは何が起きているのか分からなかった。
 目の前でミカの乗った枝が、みし、と嫌な音を立て、やっと我に返る。
「ミカ、何をしてるんだ! 危ないだろう!」
 開け放たれていた窓からそう叫ぶと、エルネストに気付いたミカは、笑顔を見せた。
「あ! エルネスト様! 大丈夫です。僕、木登りは得意なんです!」
「いいから早く降りるんだ! 怪我をするぞ!」
「待って下さい。もう少しなんです」
 ミカは再び枝先に目を向け、手を伸ばす。
「おいで、おいで。大丈夫だよ。怖くないよ」
 楡の枝先に、小さな白い子猫の姿があった。降りられなくなったのか、枝先にしがみつき、ぶるぶる震えている。
「……いいこいいこ。おいで、助けに来たんだ」
 子猫はミカの言葉が分かったのか、震えながらも威嚇はしていなかった。ミカは右手で幹にしがみつきながら枝に身を乗り出し、更に手を伸ばす。あの枝はミカの体重を支えられるほど太くはない。
 いつミカが落ちるか分からない。エルネストは重い右足を引き摺りながら、階段を下りる。駆け下りたくともままならない右足に苛立ちながら、急いで裏庭へ続く廊下の扉を開く。
 エルネストが裏庭に辿り着いた時には、もうミカは子猫を抱いて無事に楡の木から下りていた。
「エルネスト様、この子が木から下りられなくなってたんです。こんなちっちゃいのに、よくあんなところまで登れましたよね!」
 ミカは両手で子猫を抱いて、エルネストに見せる。
「無事でよかったね。あんな高いところ、登ったらだめだよ。いくら猫でも、危ないからね」
 木の上で震えていた子猫は、すっかり元気を取り戻した。にゃあにゃあ鳴きながら暴れて、するっとミカの手から抜け出すと、一目散に逃げ出し、茂みの中に飛び込んでいった。
 大慌てで逃げていった子猫の姿に、ミカは明るい笑い声をあげていた。
 その元気な様子に、安堵のあまりエルネストは深いため息をつく。
 もしミカが落ちてケガをしたら、と気が気ではなかった。思わず厳しい言葉が口をついて出た。
「お前もだ、ミカ。あんなところに登って、落ちたら大ケガするぞ」
 怒気を含んだ声に、ミカは少しびくっとしたが、素直に謝った。
「ご、ごめんなさい。でも、可哀相で。今度からはロープか何かで落ちないように固定しながらやります」
 もうしません、とは言わない。
「次からは気をつけてやりますから、安心して下さい!」
 一瞬エルネストは押し黙り、それから耐えきれず、小さく吹き出してしまった。
 ミカは全く懲りていない。全く悪びれず、明るく言い切る姿に、エルネストは笑いが堪えられなかった。
 何故エルネストが笑ったのか、ミカは全く分からないようで、きょとんとしていた。
「エルネスト様がそんなに楽しそうに笑ってくださったの、初めて見ました。なんだかとっても嬉しいです」
「お前が全く懲りていないからだ」
 ミカも嬉しそうな笑顔を見せた。明るく屈託なく、まぶしいくらいの笑顔だった。
「せっかく裏庭に来て下さったんです。この前植えた菩提樹と、花壇を見ていって下さい。菩提樹はびっくりするくらい元気になったし、花壇にも小さい芽が出てきたんです」
 ミカは楽しそうに元気になった菩提樹を指し示す。
「菩提樹の花と葉っぱは、すごく香りのいいお茶になるんですよ」
 生き生きとしたミカの説明に耳を傾けながら、エルネストは初めて出会った時のミカを思い出していた。
 薄汚れて死にかけて、怯えた子供だった。あのまま生きて朝を迎えるなんて、思いもしなかった。
 今はこの子が生き長らえ、こうして元気になった事がとても嬉しいと思えた。
 落馬事故以来、他人の事など気にかけた事もなかった。ただ無気力に、なげやりに生きてきたエルネストにとって、生命力に溢れたミカは、あまりに目映い。
 暗闇にひとりぼっちだったエルネストに、ミカが明かりを灯してくれたと、エルネストは気付き始めていた。


2021/01/09 up

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