てのひらにひとひらの花

#09 降り積もる雪の花

 裏庭の菩提樹は、ミカの手厚い保護に感謝するかのように、夏の終わりまでたくさんの花をつけてくれた。
 たくさんといっても、まだ小さな若木だ。摘み取れた花たちは、お茶にしてしまえばすぐになくなってしまうくらいの量だ。それでもミカは嬉しかった。
 夕食が終わればメイドのアンナは帰ってしまうし、バルテルも早々に寝てしまうが、エルネストはしばらくの間、書庫で過ごし、それから二階の寝室へ向かう。
 この書庫で過ごす時に飲んでもうらおうと、ミカは菩提樹のお茶を毎日淹れていた。
 ミカたちロサ族は大陸中を移動している。夏の間は摘み立ての菩提樹の花や苞、葉をちぎってお茶にしていたが、それ以外の季節は、よく乾燥させたものを保存しておき、飲んでいた。
 ティーカップ一杯分の菩提樹のお茶に、少しのはちみつを垂らす。菩提樹の木が欲しかったのは、眠りの浅いエルネストに飲んで欲しかったからだった。
 トレイにティーカップを載せ、ミカは書庫へと向かう。この一杯で、菩提樹の花も苞も使い切った。最後の菩提樹のお茶だ。
「エルネスト様、お茶をお持ちしました」
 声をかけて返事を待ち、それから書庫に入る。
「これで菩提樹の花が終わってしまったので、次は来年になっちゃいます」
 そう伝えると、エルネストは読んでいた本を閉じ、ミカに向き直った。
「じゃあ、明日からはちゃんと早寝をするんだな」
 エルネストはミカが差し出したティーカップを取り、口をつける。ミカが勝手に毎晩お茶を持って書庫にやって来ていたが、エルネストは特に何も言わず、いつもお茶を飲んでくれていた。
「……あの、ぐっすり眠れるようになりましたか……?」
 黙々とお茶を飲むエルネストに、おずおずと尋ねてみる。思えば効果について、エルネストは何も言っていなかった。
「……眠れるような気がするな」
 そう聞いて、ミカはぱあっと笑顔になる。
「じゃあ、来年はたくさん花を収穫できるよう、頑張って育てます!」
「子供は早く寝るのが仕事だ。俺に構ってないで、バルテルみたいにさっさと寝ておけ」
 毎回、エルネストは『早く寝ろ』と口にするが、そう言いながら、ちゃんとミカのお茶を飲んでくれる。だからミカは全く懲りない。
「明日からは、牛乳を温めてきます。牛乳を温めて、少し甘くして飲むと、よく眠れるってアンナさんが言ってました」
 飲み終えたティーカップを下げながら、ミカはにこにこ笑顔だ。
 エルネストは椅子に座ったままミカを見上げ、からかうような笑みを見せた。
「ミカは何を言われても懲りないな」
 何を『懲りる』のか、ミカは全く分からなかった。不思議そうに首を傾げる。
「ぼくは子供じゃないです。もう十五歳だから、早く寝ないでも大丈夫なんです」
 そう言いながら、この時間のミカはだいぶ眠たそうだ。そもそもミカの言う『十五歳だ』というのを、エルネストは全く信じていない。
「いいから、もう寝ろ。眠そうな顔をしていたら、バルテルがまた気を揉むからな」
「はい。おやすみなさい、エルネスト様」
 ミカは大人しく書庫を出て、厨房に向かう。使った茶器を洗い、片付けをしてから眠るつもりだ。
 本当は、少しでも運動をした方がいいと思うが、人目を嫌うエルネストに勧めにくい。
 せめて散歩だけでも、とミカは思う。
 お日様を浴びるだけで、元気が出てくる。外の空気と明るい太陽が大好きなミカは、特にそう思っている。
 もし散歩に出てくれるなら一緒について行って、この住宅街にある素敵な庭を案内できるのに。
 明け方の誰もいない時間なら、一緒に来てくれるだろうか。
 エルネストに、ミカが素敵だと思う庭や家を見せたかった。もちろん、薬草園のある、あの赤い屋根の小さな家もだ。
 エルネストの健康のためだけではなかった。ミカもエルネストと一緒に、花咲く並木道や、風の吹き抜ける庭を見たかった。明け方の澄んだ空気に満ちた空を、一緒に見上げたかった。
 素敵なものは、誰かと一緒に見ると、もっと素敵になるのよ。
 ミカの母がいつも言っていた言葉だ。
 ミカもそう信じている。だからエルネストにも、素敵なものをたくさん見せたかった。



 ミカがルベール家での仕事にすっかり慣れ、バルテルの手伝いも随分できるようになった頃には、地方都市エリンにも冬が訪れていた。
 勉強も大分進んで、日常で使うような計算はほぼ問題なくできるようになった。物覚えがいいのもあるが、ミカは努力を決して怠らなかった。
 エルネストやバルテルの役に立ちたい気持ちもあったが、なにより、勉強が楽しかった。そうして楽しく面白く勉強できるようにしてくれたエルネストに感謝していた。
 毎日教えてもらったおかげで、ミカもエルネストに慣れ、エルネストもミカに慣れてきた。掃除やベッドメイク以外でエルネストの寝室に入れるのはバルテルだけだったが、今はミカがエルネストの朝の支度を手伝うようにまでなった。
 そして冬がやってきて、ミカの朝の仕事に、暖炉の管理が加わった。
 家中の暖炉や薪ストーブに火を入れ、部屋の中を暖めておく、大事な仕事だ。この屋敷は小さいので、それほどたくさんの暖炉はない。厨房と、エルネストの部屋と居間くらいで、他は必要に応じて用意すればよかった。この時期は寒さが厳しいので、エルネストもポーチには出ない。居間か自室か書庫のどこかで過ごすし、ミカたち使用人は、特に仕事がなければ厨房で暖を取っていた。
 今朝も、ミカはいつも通り早朝に起きた。素早く着替えて部屋を出て、いつものように暖炉に火を入れ、それから、廊下の鎧戸を開けて歩く。
 今朝はいつも通り、とは行かなかった。ひとつめの鎧戸を開けると、外は真っ白に雪が降り積もっていた。
 昨日、アンナやバルテルが、雪が降るかもしれないと言っていた。
 ミカは雪がどんなものなのか、話には聞いていたが、見た事がなかった。
 ロサ族は大陸中を旅しているが、常に暖かい場所を目指していた。いつでも野宿か馬車の中での暮らしだ。寒さを避け、暖かい地方を巡る。だからミカは雪を見た事がなく、これが正真正銘、初めての雪だった。
 木々にも庭にも、隣の屋敷との間にある柵にも、雪は降り積もっている。空からは粉砂糖のような白い雪が舞い落ちていた。
 ミカはいてもたってもいられず、厨房の裏口から裏庭へ飛び出した。
 今は何も植えられていないミカの花壇にも、あの菩提樹にも、いつか子猫が降りられなくなって鳴いていた楡の木にも、まるでベールを被ったように雪が積もっている。
 ミカはそっと手を伸ばし、菩提樹に降り積もった雪に触ってみた。ひんやり冷たく、ふわふわと柔らかい。触れただけで、さらさらと雪は零れ落ちた。
 ミカが歩けばさくさくと軽い音を立てて、真っ白な雪の上に靴の形が並んでいく。
 ミカは空を振り仰ぎ、降り注ぐ雪を頬に受ける。
 冷たくて、頬に触れるとすぐに冷たい雫になってしまう。この感触をなんと形容したらいいのだろう。ミカは言葉にできないくらいに、幸せな気持ちになっていた。
 前の主人の家にいた時は、外に出してもらえなかった。窓もない部屋に閉じ込められて、外を見る楽しみさえなかった。エリンで迎える二度目の冬で、初めての雪だった。
 去年の今の時期は、こんな未来を想像できなかった。
 ミカは雪をてのひらに受け止めながら、舞い落ちる雪を見つめる。
 雪がどんなものなのか、そう両親に尋ねた時に、母が教えてくれた。
『まるでりんごの花が舞い落ちるように、綺麗で、冷たくて、一瞬で溶けてしまうもの』
 本当にその通りだ。
 ミカは鈍色の空から舞い落ちる雪の花を見上げる。
 てのひらにとどめようとしても、雪の花は一瞬で消えてしまう。
 何度も何度も、てのひらに受け止め、そして溶けて雫になる雪を見送る。
 どんなにこの手にとどめたくとも、雪の花びらは溶けて消えてしまう。それでもミカは何度でも、てのひらに迎え続ける。



「どうしたんだ、ミカ。ずぶ濡れじゃないか」
 ミカがエルネストの朝の支度を手伝いに行った時、もうエルネストは起きて暖炉の前で温まっていた。
「エルネスト様、雪が降ったんです。外が真っ白です」
 もう朝一番の興奮はミカから消え去っていた。今は落ち着いて、少し悲しくなっているところだった。
「いいから暖炉の前に来い。俺の支度はあとで構わないから、そのずぶ濡れの頭を乾かせ」
 ミカはエルネストが勧めるままに、素直に暖炉の前に座った。確かに身体が冷え切って、凍えていた。
「雪が珍しかったのか? ロサ族はわざわざ降雪地に行かないだろうしな」
「初めて雪を見ました。りんごの花びらみたいなのに、触ると消えてしまいます。エルネスト様に見せたいから、てのひらに載せて来ようと思ったのに、溶けてしまってだめでした」
 ミカはしょんぼりと俯く。
「それはそうだろう。すぐに溶けてしまうものだ」
「エルネスト様に見せたかったんです。とても綺麗だったから」
 言ってから、ミカにとってとても珍しい、初めての雪でも、エルネストにとっては珍しいものではないのだと気付く。綺麗でふわふわで、きっとエルネストも喜ぶと勝手に思い込んでいた自分に、恥ずかしくなる。
「……ミカ、こっちに」
 エルネストは杖を取って立ち上がり、暖炉の前に座り込んだままのミカを促すと、そのままゆっくりと窓際へと歩いて行く。
 重いカーテンを開き、真っ白に曇った窓を開けて、ベランダへと踏みだした。
 ベランダにも雪は降り積もっていた。真っ白な雪に一歩踏みだし、ミカに手を差し伸べる。
「ここでも雪は見られる」
 差し伸べられた手に、ミカはすがるように触れた。エルネストの優美な手の温かさに、胸が微かに痛む。
 てのひらに雪の花を受け止めながら、雪の庭を見下ろすエルネストの横顔を見つめる。
「雪なんかに触れたのは、何年ぶりだろうな。こんな風に降るなんて、忘れていた」
 エルネストの真っ黒な髪に、真っ白な雪の花が降り積もる。
 その横顔はいつも少し寂しげに、ミカの瞳に映っていた。けれど、今はそう見えなかった。真っ白な雪の花をまとうエルネストは、この上なく穏やかに、心安らかに、微笑んでいるように思えた。
「……来年の冬も、雪は降るんでしょうか」
「降らない年もある。来年はどうだろうな」
「降ったらいいですね。……雪ってとっても綺麗です」
 また来年もエルネスト様と、こうして一緒に雪を見たいです。
 そう言いたかったのに、口に出す勇気がなかった。
 こうしていると、あまりに幸せで、嬉しくて、忘れてしまいそうになる。
 自分は奴隷だという事を。


2021/01/15 up

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