てのひらにひとひらの花

#10 ひとりの買い物

 エリンの冬が終わり、穏やかに季節は春へ、そして緑豊かな初夏へとうつろう。
 ミカがエルネストの屋敷にやって来て、もうすぐ一年が経とうとしていた。この頃はミカも仕事に慣れ、バルテルの代わりを全てとは言わないが、随分こなせるようになっていた。
「ミカが来てくれたおかげで、私も安心して首都に帰れるよ」
 いつものように厨房で朝食をとりながらバルテルにそう言われて、ミカは齧っていたパンを取り落としそうになった。
 そもそもミカは、バルテルの仕事を引き継ぐ為に買われたのだ。一年後にはバルテルが首都の娘夫婦のところへ帰ると知っていたが、いざとなると、言い尽くせないくらいショックを受けていた。
「来月、首都へ帰る予定なんだよ。そろそろ荷物の整理を始めないとね」
 バルテルがもうすぐいなくなってしまうと思うと、ミカは泣きだしそうになっていた。ぐっと涙を堪えるが、我慢できそうにない。
「ミカや、泣かないでおくれ。私はミカにならエルネスト様を任せられると、信じているんだよ」
 涙を必死に堪えるミカの頭に、バルテルの皺だらけの手が優しく触れる。
「ミカがいてくれるから、安心して帰れるんだ。どうか、私の代わりにエルネスト様にしっかりお仕えしておくれ」
 バルテルがどんな気持ちでミカに語りかけているか、まだ幼いミカには伝わらない。
 我が子のようにエルネストの行く末を思っていても、身体は老い、衰えていく。もう昔のようには働けない。そう遠くない未来に、エルネストを置いて先に死んでしまう。
 エルネストを支え、傍に仕え、そしていつか、立ち直らせてくれる誰かを、バルテルはずっと探していた。
 まだ小さいミカに重責を背負わせてしまうかもしれない。だが、エルネストが事故以来、バルテル以外の誰かを傍に置いた事はなかった。
 この小さなミカだけだったのだ。
 エルネストが心を許したのは、他の誰でもなく、死にかけた奴隷のミカだけだった。
「どうか、エルネスト様のお力になっておくれ」
 ミカはその言葉の重さを知らない。エルネストがこのエリンにやってくるまで、ミカに出会うまで、どれほど荒んでいたかも知らない。
 ミカの胸にあるのは、エルネストへの敬愛と感謝と、大好きだという気持ちだけだ。ただひたむきに慕う気持ちだけだ。
「僕は、エルネスト様に助けてもらいました。だから、僕もエルネスト様を少しでも助けられたらと思っています」
 バルテルは黙って何度も頷く。泣き出しそうなのは、ミカだけではなかった。
「バルテルさんに、手紙を書きます。エルネスト様の事を、たくさん書きます。だから、バルテルさんも安心して下さい」
 バルテルの涙に気付いたミカは、慌てて励ますかのようにバルテルの手を取る。
 いつまでもバルテルに甘えてはいられない。これからはバルテルの代わりに、エルネストを支えられるようにならなければ。
 バルテルのようにエルネストを支えられずとも、ミカにできる事はあるはずだ。
 バルテルが安心して首都で暮らせるように。バルテルが去った後も、エルネストが困る事がないように。
 ミカは眦を拭い、しっかりと決意する。



 来月には首都へ帰ってしまうバルテルに、何か贈り物をしたい。
 ミカは厨房の隅に置かれたテーブルの上に小銭入れの中身を並べて、考え込んでいた。
 エルネストから時々もらう小遣いをちまちまと貯めていたので、たくさんお金はある。たくさんと言っても、ミカから見れば、の話だが。
 最初に菩提樹の若木と日記帳、便箋を買ったくらいで、あの後はほとんど使っていない。便箋も、時々エルネストに手紙を書くくらいで、さほど使ってはいない。インクやペンはエルネストがまとめて買ったものを必要に応じて分けてくれるので、買う必要はなかった。
 そしてバルテルと街に出ると、露店の菓子やパンをバルテルが買い与えてくれるので、自分で買う事がなかった。そもそも普段からアンナが間食に色々用意してくれていたし、エルネストが実家から送られてきたものをしばしばミカに分け与えていて、自分で菓子を買う必要もない。ミカには特に欲しいものも、必要なものもなかった。
 服も靴も下着も、皆エルネストが買い揃えている。本も、書庫の本を自由に読んでいいと言われている。生活に必要なものを買う必要がなかった。
 ミカが欲しいのは、店で売っていない、野生の香草や薬草の種くらいだ。庭仕事の道具だって、この屋敷には用意されている。そもそも、裏庭の小さな花壇はミカのテリトリーだが、屋敷の庭の維持は、庭師の仕事だった。
 硬貨を数えながら、ミカは思い巡らす。
 バルテルについて商店や露店で買い物をするようになり、だいたいの物価は分かってきた。
 立派な靴や時計、お茶のセットなどは買えないけれど、ハンカチや靴下、小物くらいなら、今ある硬貨で買う事ができる。
「アンナ、お茶を淹れてく……ミカ、何をしているんだ?」
 小銭をしまおうとしたちょうどその時、珍しく、エルネストが厨房に顔を出した。
 ミカを買うまで、エルネストは書庫と自分の部屋と食堂くらいしか往復せず、厨房に来るどころか、時折廊下で会うアンナにさえ口を利かなかった。それが今では、こうして厨房に顔を出すようにまでになっていた。
 本当に用事を言いつけるだけで愛想も何もないが、大変な進歩だとバルテルが言っていた。
「アンナさんはアイロンをかけるので、リネン室にいます。お茶ですね、今、ご用意します。どちらにお持ちしますか」
 ミカは小銭入れを放り出して立ち上がる。
「何か欲しいものでもあるのか?」
 お茶の用意をするミカの背中にそうエルネストが問いかけた。
「バルテルさんが首都に帰るので、贈り物をしたいんです。今、お湯を沸かすので、少しお待ち下さい」
「ああ、もう来月だな……。何を贈るか決めたのか、ミカ」
「ハンカチか、何か小物を。あの、街に買い物に行ってもいいでしょうか。バルテルさんと一緒にお使いに行く時だと、内緒で買えないので、ひとりで行ってもいいでしょうか」
 エルネストはミカが並べた小銭を眺めながら、少し考えているようだった。茶葉の用意をするミカの背中に、思いも寄らないエルネストの言葉が投げかけられた。
「なら、俺と一緒に行くか」



 まさかエルネストとふたりで買い物に行くことになるとは、思ってもみなかった。
「俺もバルテルの退職祝いを買いたいから、ちょうどいい」
 ミカもひとりで行くのは心細かったので、エルネストの申し出はありがたかった。それに、エルネストと出掛けるのは、初めてだ。
 ごく稀に、エルネストが街へ出る事はあったが、そういう時はバルテルを連れて行く。ミカは留守番だ。そういうものだと思っていた。
 貸馬車の手配をひとりでするのも初めてで、ミカはどきどきしていた。そしてエルネストは足が不自由だ。エルネストが快適に買い物を楽しめるように、色々配慮しなければならない。
 緊張のあまり、ミカは手が少し震えるくらいになっていて、エルネストは少々呆れたようだった。
「そこまで緊張する事か?」
「は、はい、大丈夫です。エルネスト様、足元に気をつけて下さい」
 店に着くと、ミカは大急ぎで馬車から降り、エルネストに手を差し伸べた。その差し伸べた手も微かに震えている。
「取って食ったりしないから、もっと落ち着け」
 ミカの手を借りて降り、店の扉を開けながらエルネストは小さく笑っていた。エルネストが怒り出すとは思っていないが、ミカは少しでも役に立ちたいのだ。失敗して、エルネストに嫌な思いをさせたくないのだ。それでついつい、必死になってしまう。
「ルベール様、いらっしゃいませ。今日はどのようなものをお探しですか?」
 エルネストを迎え入れたのは、美しい中年の女性だった。エルネストはそう外出はしないが、この店の店主はエルネストをよく知っているようだ。
 ミカもこの店は初めてだ。バルテルとの買い物では、来た事がなかった。
「バルテルが隠居するので、何か贈ろうと思っている」
「まあ、バルテルさんが。……さみしくなりますわね」
 ミカはエルネストの後ろに控えながら、店の中をきょろきょろと見渡していた。
 店は、輸入の品を扱っているようだった。ミカが見た事ないような、不思議な趣向を凝らした品々が並んでいる。前に本の挿絵で見た、東洋の壺や置物のようなものもあった。
 添えられている値札をそっと覗き込んで、ミカは並んでいる数字の桁を数える。
 とてもミカの小遣いでは買えそうにないものばかりだ。
 露店や、いつもバルテルと行っている店なら、ミカでも買えそうなものがあるかもしれない。特に露店は手頃な値段のものが多かった。
 店主が何か商品を取りに離れている間に、ミカはエルネストに思い切って訊ねた。
「あの、エルネスト様。今、露店や他のお店を見に行ってきてもいいでしょうか」
「ああ、構わないが、迷子にならないか?」
「だ、大丈夫です! バルテルさんと何度も来ているから、この辺りの通りは覚えてます」
 エルネストはミカの左手を取り、革のバングルを確かめる。
「もし警備兵や街の人間に何か言われたら、このバングルを見せて、ルベール家の奴隷で、主人と買い物に来ていると言え。それから、もし迷子になったら、この店の場所を聞いて戻ってこい。雑貨商のメリルの店だと言えば通じる」
「はい! ありがとうございます! 急いで行ってきます!」
「別に慌てる必要はない。俺もゆっくり選んでいるから」
「はい! 行ってきます!」
 ミカは大喜びでメリルの店を飛び出した。
 ひとりで商店街を歩くのは初めてで、それも楽しみだった。見慣れた商店街も、なんだか不思議に新鮮に見える。
 ミカは商店の合間に行儀よく並ぶ露店を覗きながら、わくわくと歩き始めた。
 バルテルさんに何を贈ろう?
 手袋か、ハンカチか、それとも、手紙を開けるペーパーナイフや、ペーパーウェイトか。
 ミカの全財産で買える、素敵なものを探そう。
 初めてのひとりの買い物に、ミカは夢中になっていた。


2021/01/16 up

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