てのひらにひとひらの花

#12 別れ

「そんな事が……」
 ティーカップにお茶を注ぎながら、バルテルは蒼白になっていた。
 エルネストは商店街から帰ってくるなり銃の手入れを始め、出掛ける時は真夏の太陽のようにきらきらした笑顔だったミカは泣きはらした顔で俯いていた。一体何があったのかとバルテルは狼狽していたが、事の顛末を聞き、衝撃を受けているようだった。
「申し訳ございません。私の不注意と調査不足でした。もっと詳しくエリン市の状況を調べておくべきでした。……ミカにも悲しい思いをさせてしまったね。すまなかったね」
 バルテルにそう詫びられて、傍で給仕の手伝いをしていたミカは、慌てて首を振った。
「バルテルさんのせいじゃないです。ぼくが知らない人についていってしまったから」
「治安もだが、奴隷に関しては俺もバルテルも今まで関わりがなく、認識が浅かった。エリンは古い都市だから、特に排他的でもおかしくはない」
 後に分かる事だが、エリンでは奴隷と言えば郊外の農場や牧場、鉱山などで使われるもので、市内中心部にいるのは貴族や商人、軍人などの富裕層が家事使用人としてか、『趣味』で持つものか、風俗業に使われる者だけだった。サクロナ首都のように、執事や従者、従僕として用いるのは、まずありえない事だった。
 首都でも下働きや船員、風俗業に従事する奴隷がいたが、先に述べたように、執事や従僕にまでなる者もいた。能力があれば重用される事はあった。ただ、エルネストやバルテルが『目にしない』だけで、エリンと同じように郊外や港で酷使される下層の奴隷もいたのだ。
 エリンではその首都以上に身分が低く、蔑まれている。
「よく使うガルニエ通りの露店だけでも、ミカを連れて私が挨拶をしておきます。あの辺りの露店の入れ替わりはあまりありませんから、今挨拶をしておけば、今後の買い物に数年は困る事がなくなるはずです。私が隠居した後は、アンナかエルネスト様にご同行して頂くしかありませんが、今できる限りはすませておきます」
「忙しいのに、ごめんなさい。バルテルさん」
「それくらい、たいした仕事ではないよ。それにミカのせいではないからね」
 バルテルもミカに可哀相な事をしてしまったと、激しく後悔していた。もう少し誰かに話を聞いていれば、ミカがこんなに傷付く事も、怖い目に遭う事もなかった。
「バルテル、役所と軍の詰め所に通報しておいてくれ。奴隷だろうと市民だろうと、昼間の商店街で子供を攫おうとするのは明らかに犯罪だ」
 お茶を飲み終えたエルネストは、変わらずに不機嫌なままだ。
「まさかガルニエ通りで銃を抜く羽目になるとは思わなかった」
 エルネストの足では、万が一、強盗に襲われても逃げる事ができない。それで父親に、普段から銃は手許に置き、外出時には必ず銃を携帯するよう言いつけられていたが、今まで一度も必要になった事はなかった。
「俺は滅多に外出しないせいで世情に疎いが、最近は治安が悪くなるような政治不安でもあるのか」
「ここ数年、多少不作の傾向ですが、それほど深刻ではないと捉えておりました。首都の旦那様や本家の家令から、話を聞いてみようと思います」
 銃はまだまだ高価な物だ。王立軍の上層部や上流貴族、そしてルベール家のような海路で交易する豊かな貿易商が所持しているくらいだ。最近は首都の警備兵も携帯しはじめたと噂を聞くに、なんらかの理由で治安は悪くなっているのかもしれない。
 エルネストは首都から離れたエリンにいる上に、滅多に街には出ない。隠居暮らしのようなものだ。そういった世事や政情には疎かった。
「ミカ」
 急に名を呼ばれ、ミカは慌てて顔をあげた。
「は、はい!」
「今後、路地には一切立ち入るな。何があってもだ。それから明るいうちに帰ってこい。この分じゃ、日が落ちればもっと治安が悪くなるだろう」
「はい。気をつけます。ごめんなさい」
 ミカは再び、しょんぼりと俯く。
 迷惑ばかりをかけて、エルネストはもう一緒に買い物に連れて行ってくれないかもしれない。実際、何の役にもたたないばかりか、エルネストに通りを歩いて帰ってこないミカを探させてしまった。
「バルテルと露店の挨拶回りが終わったら、また買い物の手伝いをしてもらおう」
 杖を取り、エルネストは立ち上がった。ゆっくりとミカの隣を通り抜けると時に、バルテルに聞こえないよう、小声で囁いた。
「バルテルへの贈り物は、また次に連れて行く時に買えばいい。今度こそ、売ってもらえるさ」



 転居の準備で忙しいバルテルは、二週間かけてガルニエ通りの露店と、主要な商店へミカを連れて挨拶回りをしてくれた。
 ミカは申し訳なくて仕方なかった。自分のせいで忙しいバルテルに、無理をさせてしまったと思っていた。
「そんな事はないんだよ。これも仕事の引き継ぎだからね。私がいなくなった後、エルネスト様のお使いをミカがしなければならないんだから、必要な挨拶だよ」
 バルテルは露店を一軒一軒巡りながら、ミカがルベール家の奴隷である事、ルベール家は国一番の海洋貿易商で、エリンのルベール家の主はその息子である事、身元はこれ以上ないほど保証されており、万が一にも代金の不払いや問題など起こさないし、仮に起きたとしても、エリンのルベール家か、首都の本家ルベール家のどちらかが必ず保証する事、ミカは奴隷だが首都ルベール家に習って執事候補の従者である事を、丁寧にきっちりと説明してくれた。
 この地方都市でもサクロナ最大の貿易商の名は知られているようで、大抵の店主は納得してくれた。渋い顔をしていた店主も、最終的には納得してミカに立ち寄る許可を与えてくれた。
 そしてバルテルが帰る月になって、ようやくミカはバルテルへの餞別を買う事ができた。買ったのは、小さなハリネズミのペーパーウェイトだ。初めて立ち寄った時には断られた、青い天幕に白いリボンを飾った陶器の店の商品だ。あの熊のような店主は相変わらず無愛想だが、ミカが尋ねればきちんと商品の説明をしてくれた。
 明日首都へ旅立つという日の夕方に、ミカはバルテルの部屋を訪れた。
「……これを私に?」
 バルテルにミカが贈ったのは、小さなハリネズミのペーパーウェイトだった。
「可愛らしいペーパーウェイトだねえ。ありがとう、ミカ。大事にするよ」
「ハリネズミは、幸運の象徴だってお店のおじさんが教えてくれました。害虫を食べてくれるから、庭の守護者とも言うんだそうです」
 バルテルはしみじみと掌のハリネズミを眺めている。
「バルテルさんにまた会えるか分からないから、バルテルさんをこのハリネズミが護ってくれたらいいなと思って」
 バルテルはミカの言葉に、ゆっくりと頷く。
「そうだねえ。もしかしたら、もうミカにも、エルネスト様にも会えないかもしれないね……」
 そして懐を探って懐中時計を取り出すと、ミカに差し出した。
「ミカや。この懐中時計は、私がまだ若い頃に大旦那様……エルネスト様のおじいさまから頂いたものなんだ。これをミカに持っていて欲しい」
「そ、そんな大事な物受け取れません」
 ミカは大慌てで首を横に振る。
「ミカに持っていて欲しいんだよ。私もこの懐中時計に随分励まされたものだ。……ミカや、短い間だったけれど、私はとても楽しかったんだよ」
 ミカの手を取り、懐中時計をてのひらに握らせながら、バルテルは話し続ける。
「エルネスト様の事だけではなく、私もミカがいてくれて、エリンで過ごす最後の一年がとても楽しかったんだ。だからこれは私から感謝と、友情のしるしなんだよ。……どうか受け取っておくれ」
 ミカはまだ懐中時計とバルテルの顔を見比べ、迷っていた。繊細な細工を施されたプラチナの懐中時計は、文字盤に小さなサファイアが埋め込まれている。宝飾品の価値なぞ知らないミカでも、これが大変高価なものだと分かるくらいだ
「それから、ミカ」
 まだ迷っているミカに、バルテルは穏やかに語りかける。
「もしかしたらこれからミカは、とても大変な目に遭うかもしれない。……悲しい事や、辛い事があるかもしれない。……どうか、私の代わりにこの時計を傍に置いてやってくれ。どこにいても、私はミカとエルネスト様の幸せを願っているよ。それを忘れないでおくれ」
 ミカはこれからつらい事が起こるとは、思っていなかった。
 エルネストに出会う前よりもつらい事はないと思っていた。一族を、両親を殺され、最底辺の奴隷として虐げられ、死にかけていたあの時よりつらい事があるだろうか。
 対して、バルテルは様々な予感があったのかもしれない。
 奴隷が置かれている厳しい立場を、いつかミカは身をもって知るかもしれない。まだ幼いミカにエルネストを託すのは、あまりに酷なことかもしれない。
 そして、いつかこの身分差が、ふたりをひどく傷付ける日が来るかもしれない。
 ふたりを残し去らなければならないのは、バルテルにとっても苦渋の決断だった。老いも衰えも、そして時の流れも、残酷なくらいに待ってはくれない。
「ぼくは……ぼくは、何があっても、エルネスト様の傍を離れません」
 ミカはバルテルの不安を感じ取っていた。そしてミカも、言い知れない不安はあった。それでもバルテルに、自分に誓う。
「エルネスト様がぼくを守って下さったように、ぼくは、何があっても、エルネスト様をお助けします。お守りします。……ぼくは、エルネスト様が大好きなんです。バルテルさんも、大好きなんです」
 最後は涙声だった。
「バルテルさん。どうかお元気でいてください。ぼくはずっと忘れないです。バルテルさんのようになれなくても、全力を尽くします。バルテルさんの代わりに、エルネスト様をお守りします」


2021/02/04 up

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