てのひらにひとひらの花

#13 切り取られたような世界

 早朝、七時ちょうどだ。
 ミカは懐中時計で時間を確認しポケットにしまうと、朝食のテーブルセッティングを終え、ポーチから居間を通り抜けて二階にあるエルネストの寝室に向かった。
「おはようございます、エルネスト様。朝食の準備ができています」
 ノックは二回。返事がなかったのは過去五年の間、エルネストが高熱を出した朝の一回限りで、必ずすぐ返事がある。
「おはよう、ミカ」
 ドアを開くと、大抵エルネストは起きて暖炉前の椅子に、少々眠そうな顔で座っている。今朝もいつも通りだ。
「今日はとてもいいお天気なので、気温が上がりそうです。春らしい服装でも寒さは感じないと思いますよ」
 ミカは手早く衣類を用意し、エルネストの着替えを手伝う。
 バルテルが去ってから五年、毎朝繰り返してきた。すっかり慣れたもので、今のミカなら気難しいエルネストの機嫌をとりながら、うまく朝の支度を済ませられる。
「今朝はポーチに朝食をご用意しました。大旦那様が首都から送って下さった珍しい果物も、お出ししておきましたよ。早くいらしてくださいね」
 ミカは支度の手伝いを終えると、先に寝室を出た。
 エルネストが朝食のテーブルに着くときに、ちょうどいいお茶を出さなければならない。厨房に寄ってティーポットを用意し、ポーチへと向かう。
 朝はまだアンナが出勤していない。朝食の準備はミカの仕事だが、さして用意しなければならないものはない。大抵のものはアンナが作り置きしているので、ミカの仕事はテーブルをセットし、パンとスープを温め、スプレッドやゆで卵を用意し、ハムやチーズ、果物を切るくらいだ。
 ミカがティーポットをテーブルにセットした時に、エルネストがポーチにやって来た。
「また俺の分だけか」
 ポーチのテーブルには、いつものように一人分の朝食だけが並んでいる。エルネストは深いため息をついて、席につく。
「どうせミカもあとから朝食をとるんだろう。ここで俺と一緒に済ませてしまえばいいのに」
 もう何度もエルネストに言われている事だった。エルネストもひとりで食べる朝食が味気ないのだろう。
「アンナさんが来る前にやっておく仕事があるんです。それにバルテルさんだって別だったのに、ぼくが一緒に食べるわけにはいきません」
 使用人が、それも奴隷の従者が主人と同じテーブルにつくわけにはいかない。
 エルネストの優しさに勘違いして、甘えてはならないのだ。ミカは自分の立場を忘れず、わきまえなければならない。それくらいの分別はミカにもある。
「エルネスト様、今日のご予定はありますか」
「ちょっと欲しいものがある。今日の午後、メリルの店に行ってみようと思っている」」
「分かりました。貸馬車を手配しておきます。昼食は少し早めに、その後おでかけでよろしいですか?」
「そうしてくれ。ああ、ミカも用意しておくんだ。一緒に来てもらおうか」
「分かりました。それまでに仕事は片付けておきますね」
 この五年で、少しは変化もあった。あれほど外を嫌っていたエルネストが、庭くらいなら散歩するようになり、時々はこうして商店に自分で出向くようになった。バルテルがいた頃よりは街にも出るようになったが、やはり好んで外出する事はあまりない。それでも十分な進歩だ。
 普段は朝食後に散歩をし、それから帳簿つけや読書で過ごす。そしてミカに、今でも勉強を教えていた。これはこの五年間、変わらずに続けられている。
 今では他国の言語までミカに教えていた。エルネストはルベール商会を継ぐために、並々ならぬ努力をしていた。それで他国の言語もよく知っており、ミカにも学ばせていた。
 今ではミカは立派に執事見習いだ。エルネストはどこに出しても恥ずかしくない執事にすると言って、ミカの教育を怠らなかった。
 最底辺の奴隷から、今や執事見習いだ。
 ミカもいつまでも子供ではなかった。この五年で、随分背も伸びた。痩せこけて小さかった身体も、年相応になってきた。そして、大人になればなるほど、自分がかつて置かれていた立場や、身分を思い知るようになった。
 自分が前の主人の下で、どんな『仕事』をしていたのか。それも大人になりつつあるミカに、重くのし掛かる。子供の頃には分からなかったことが、大人になれば分かるようになってくる。今まで分からなかった残酷な事実を、ミカも理解できる年頃になっていた。
 エルネストは、恐らくそれを知っていて、それでも死にかけたミカを買い取ってくれた。そして教育を与え、執事として重用しようとまでしてくれている。
 だからこそ、エルネストの慈悲に甘えてはならない。
 ミカにとって、エルネストは何よりも大切な人だ。ミカを守り、育ててくれた恩だけではなかった。
 ミカの中にある感情は、決して主人に抱いてはならない感情だ。
 気付いてもどうにもならない、どこにも行き場のない気持ちだ。その許されない感情に、ミカは目を背け続けている。
「ああ、そういえば、エルネスト様。お隣の佐官様は、首都に戻られたそうです」
 ミカはいつものように明るく話を続けた。
「いい歳だったようだから、首都に帰って隠居か。隣は空き家になるのか」
「昨日、佐官様の執事が挨拶に来ました。入れ替わりで、佐官様の息子さんが引っ越してくるそうです。息子さんも王立軍の中佐さんなんだそうです」
 エルネストはポーチから隣の敷地を眺める。庭木と茂みで綺麗に囲まれている屋敷は、いつもと変わりなく静かだ。エルネストはまず人前に出ないので、今まで隣人を見かけた事はあっても、会った事はない。隣人との挨拶や付き合いは、ミカやバルテルの仕事だ。
「空き家になるより、軍人が住んでいた方が安全だな。ここ数年続いた不作のせいで、エリンも随分治安が悪くなった。……ミカも外出する時は気をつけるんだ。大金は持ち歩かず、必要な場合は商店主に配達させて、屋敷で払うようにするといい」
「分かりました。……そうですね、外出時だけでなく、戸締まりも今以上に気をつけるようにします」
 朝食を済ませたエルネストは席を立ち、いつもと同じように、庭の散歩に出た。それを見送って、ミカはテーブルを片付け始める。
 世界から切り取られたかのように、屋敷の中では穏やかに、静かに時間が流れていた。自由に歩ける足と一緒に将来の夢を失い、何の希望も見いだせないエルネストの全てを諦めた生き方は、変化も進歩もない、時が澱んだような世界かもしれない。



 予定通りに午後にメリルの店にやってくると、ミカの手を借りて馬車を降りたエルネストは、店のドアを開ける前に、ミカを振り返った。
「今日の買い物は長引きそうだから、ミカ。ガルニエ通りで買い物があるなら、行っていいぞ」
「ありがとうございます。じゃあ、のんびり露店を巡ってきます」
 ひとりで仕事の買い物に来ても、ミカは用事を済ませるとすぐに帰宅してしまう。それにエルネストは薄々気付いているようで、こうして連れてきては、ミカに自由時間を与えてくれていた。
 エルネストに勧められるまま、ガルニエ通りの石畳を歩き出したが、相変わらず、ミカに欲しいものはない。
 身の回りのものはいつもエルネストが買い与えてくれる。せいぜい、今も大事に育てている、裏庭のミカの花壇に植えるものくらいか。
 ミカが欲しい薬草や香草は、そもそも首都では売られていなかった。ごく稀に、行商人が加工済みのものを持ち込むくらいだ。
 例の赤い屋根の小さな家は、実は未だに買い手がつかず、放置されたままだ。もちろん、荒れ果てた薬草園も庭も、そのままになっている。管理を任されている人がいるのか、ごく稀に、道にまではみ出しそうな草花や木々が刈り取られて始末されている事はあったが、ミカはどうしても、草花をこっそり持ち出す気にはなれなかった。
 黙って持ち去るのは、泥棒だ。
 小さい頃から生真面目だったミカは、大人になっても変わらなかった。
 今でも香草や薬草の苗や種を露店で探しているが、見つかりそうな気がしない。そうやって、ないであろう種を探しながら、色々な商品が並ぶ露店を眺めるのも楽しい。ミカはエルネストの気遣いに感謝しながら、露店巡りを楽しんでいた。
「ミカ、いらっしゃい! 今日はすっごくいいオダマキがあるわよ、見ていって!」
 明るく声をかけてきたのは、ミカが初めて買い物した花屋の店主だ。
「こんにちは! ホントだ、すごく立派なオダマキですね。花がすごく大きい」
 バルテルがこの店で屋敷に飾る花を買っていたように、ミカもそうしていた。
「でしょう。このピンクのと、白がおすすめよ。今朝刈り取ったばかりだから、すごく元気がいいでしょ」
「そろそろ居間の花が終わりそうなので、一束作ってもらおうかな……あとは何が」
 ミカが他の花を選ぼうとかがみ込んだ時、背後で言い争うような声が聞こえた。
「な……、どうしてですか? ちゃんとお金もあります。それに、身分証だって」
 ミカは背後を振り返る。すぐ傍の、絹織物の露店の前で、若い娘と店主がもめているようだった。
「あの子、奴隷じゃないかな……」
 花屋の店主はそっとミカに囁く。若い娘は、確かにサクロナ人ではなさそうだった。ルルシャ人かもしれない。


2021/02/13 up

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