てのひらにひとひらの花

#15 秘密

 ミカは毎朝、夜明けと共に起きて、裏庭の花壇と庭木の手入れをしている。
 エルネストがミカを買い取って暫くした頃に、ミカに隣の屋敷との境界にある柵の辺りの土地を花壇用に与えたが、以来、ミカはまめまめしく手入れをしていた。
 初めての買い物で手に入れた枯れかけた菩提樹も、今では立派な木になった。花の時期には摘み立ての花と苞と葉でエルネストに毎晩お茶を作り、花の時期が終われば、乾燥させて保存しておいた花や苞や葉で、お茶を淹れる。
 そのお茶のおかげか、ここ数年、寝付きは昔ほど悪くはなく、寝覚めも大分改善された。
 エルネストは二階の窓から、せっせと花壇の雑草を毟るミカの後ろ姿を眺めているが、ミカは全く気付いていない。
 朝食の時間にはまだ早く、書庫から本でも持ってこようと二階の廊下に出た時に、手入れに励むミカの姿に気付き、つい眺めてしまっていた。
 小さく弱かったミカも、今では背が伸びて、健康になった。結局、本当の年齢を言わずに六年の月日が流れ、ミカは『もう二十一歳ですから、大人です』と言っているが、多分、いいところ十八歳前後だとエルネストは思っている。
 もう十八歳だ。
 エルネストは窓辺にもたれながら、考える。
 将来になんの希望も夢もなく、ただ無為に、厭世的に生きているエルネストと、未来のあるミカは違う。
 もっと広い世の中にミカを出してやった方がいい、と思う事もあった。
 ミカは聡い。賢く、教えられた事はよく学び、吸収している。
 ただ世間から目を背け引きこもるエルネストの世話をさせるのは、ミカの未来を潰すことになるのではないかと、迷う事があった。
 未来のないエルネストに仕えても、まだ若く聡いミカに、いいことなんてひとつもない。
 裏庭のミカは、手入れが終わったのか片付けて、屋敷の中へと戻っていく。エルネストの視線には気付かないまま、恐らくこれから朝食の支度をある程度済ませ、日課の散歩に行くのだろう。
 エルネストも窓辺を離れ、当初の目的だった書庫へと向かう。
 いずれ、ミカのために将来を考えなければならない。
 こんな閉鎖的なエリンよりも、もっと学べ、得るものが多くあるであろう首都で働く方が、ミカのためになるのではないか。そう思うものの、踏ん切りがつかなかった。
 ふと、エルネストは考える。
 この屋敷からバルテルが去ったように、ミカも去って行った後の事を。
 時が止まったままのこの屋敷に、今度こそ取り残されるであろう事を思う。



 エルネストの視線に全く気付いていないミカは、庭の手入れ道具を片付け、ポケットから懐中時計を取り出し、時間を確かめる。
 空は明るくなり始めているが、まだ朝の六時ちょっと過ぎだ。エルネストの朝食の時間までは時間がある。ミカはいつものように散歩に出る事にする。
 まだこの屋敷に来たばかりの頃に、地理を覚える為に散歩を勧められたが、今でもミカは時間が許す限り、散歩を続けていた。
 この住宅街は、ある程度豊かな資産を持つ軍人や商人の家ばかりで、どの家も大きな屋敷と広い庭があった。その手入れの行き届いた立派な庭や草花を眺めるのが、ミカの楽しみだった。
 ミカは草花や木々が大好きだ。両親や一族と流浪の生活をしている時も、薬草を集めてお茶やチンキを作るだけでなく、押し花を作り、標本のようなものも作っていた。そのミカが集めた草花の標本を買ってくれる、街の植物学者もいた。
 今ではそんな気軽に草花を摘めないが、見る事はできる。
 贅を尽くした庭には、ミカが見た事もないような、珍しい異国の植物も植えられていて、眺めているだけでも楽しかった。
 そして、例の赤い屋根の小さな家は、今でも鬱蒼とした庭のままだ。
 相変わらず、誰にも買われずに忘れ去られているようで、時々手入れされ、草花は刈り込まれている。道まで溢れ出しそうになると、誰かが刈り取っていくのだ。
 道まで溢れ出してしまえば、誰の物でもない。ミカもそっともらって帰れるのだが、いつもその前に綺麗に整頓されてしまう。
 少し残念な気もするが、この赤い屋根の家が忘れられずにちゃんと手入れされているのは、嬉しかった。この家の主が大事にしていたであろう薬草園も、手入れが行き届いているとは言い難いが、きちんと生きていた。
 今朝もミカは薬草園を見る為に、早朝の澄んだ空気に満ちた道を歩きながら、赤い屋根の家へやってきた。
 ミカの好きなりんご草の花はまだ時期が早く、咲いていないが、この時期はキンセンカがたくさん咲く。キンセンカはミカも自分の花壇で育てていたが、赤い屋根の家のキンセンカも、少々荒々しいが生き生きした花ぶりで大好きだった。
 いつものように早朝の人気の無い住宅街で、ミカは楽しく草花を巡る散歩を楽しんでいた。
 赤い屋根の家は次の四つ辻、という時に、ミカの耳に、微かだが争うような物音が聞こえた。思わず足を止め耳を澄ますと、空き家と空き家の間の路地から、確かに物音と話し声のようなものが聞こえる。
 エルネストに『絶対に路地裏に入るな』と言われているが、先ほどから聞こえる物音が、女性の悲鳴のように聞こえて仕方なかった。
 ミカは勇気を出し、路地裏へ歩み寄り、覗き込む。
 もみ合う人影があった。ミカは思わず声を上げる。男が組み敷いた女性らしき小さな影に拳を振り上げていた。
「そこで何をしているんですか!」
 男はミカの声に驚いたのか、振り返り、一瞥すると女性を突き放して逃げ出した。ミカは男を追うか女性を助けるか一瞬迷い、女性を助ける方を選んだ。こんな目にあった女性を置いてはいけない。
「無事ですか、どこかケガをしていませんか」
 横たわったままの女性に手を差し伸べようとして、気付く。
「……ミカ?」
 金色の巻き毛にも、この声にも覚えがあった。
「エレナ? 一体、なにが」
 エレナは差し伸べられたミカの手にすがりつきながら、よろよろと起き上がる。
「あなたこそ、どうして、ここに? なぜ、こんな早朝にここで、なにを?」
 エレナはひどく混乱しているようだった。ミカはエレナが隣家のロンメル中佐の奴隷だと分かっているが、エレナはミカが隣家のルベール家の奴隷だとは知らない。
「ぼくはいつもこのくらいの時間に散歩しているから」
 見上げたエレナの顔を見て、ミカは慌ててポケットを探り、ハンカチを取り出す。殴られたのか、頬は赤く腫れ、唇が切れていた。
「私も、散歩をしていたの。……そしたら、しらない男が」
 エレナの唇を拭ってやりながら、ミカは素早くエレナの身体を確かめる。膝や手に擦り傷があり、血が滲んでいる。
「ケガをしてるよ、エレナ。立てる? 歩けるかな……。また何かあったら大変だよ。送ろうか?」
 エレナは緩く首を振り、ふらつく足取りで立ち上がる。
「大丈夫よ。ひとりで帰れるわ。……もう路地には入らないから」
 この住宅街も治安が悪くなったものだ、とミカは考えていた。稀に泥棒が現れる事があっても、こんな風に誰かが襲われた話は聞いたことがなかった。
「ねえ、ミカ。お願いよ。今日、ここで起きた事も、私に会った事も、誰にも言わないで」
 唐突にそんな事を言われる。思ってもみなかった言葉に、ミカは面食らっていた。
「あ、でも、警備兵さんに届けた方が」
「いいの」
 エレナは視線を合わせないまま、きっぱりと拒絶した。
「お願い。誰にも言わないで。警備兵だけじゃないわ、あなたのご主人様にもよ。……誰かに知られたら、困るの」
 エレナのあまりに思い詰めた声に、ミカは気圧されていた。このまま放っておくのも不安だが、当事者のエレナが拒否しているのだ。
「ああ、うん……。分かったよ。誰にも言わないから」
「ありがとう、ミカ。助けてもらってばかりね。……ごめんなさい、急いで戻らなきゃならないから」
 エレナは痛むのか、身体を庇いながら歩き出した。
 ミカは戸惑いながらも、エレナの拒絶を感じ取り、しつこく追いすがれなかった。屋敷へ帰って行くエレナの後ろ姿を見送りながら、ミカは今あった出来事を考える。
 何故、エレナは口止めをしたのか。
 もしも彼女の言う通り、散歩に出て襲われたなら、警備兵や軍の詰め所に届け出なければならないし、彼女の主人であるロンメル中佐にも知らせなければならない。
 どうして知られたくないのか。
 色々な考えが頭をよぎる。
 エレナが逃亡を企てているのか、逃亡の途中であの男に襲われたのか、そもそも、あの男は最初からロンメル中佐の奴隷を狙っていたのか、エレナはあの男と面識があるのか。
 考えられる可能性は山ほどある。
 急にあんな暴漢が現れるのも、なんだかおかしい気がするが、ミカが男だから今まで誰かに襲われるような事がなかっただけで、奴隷の女性には、もしかしたらよくある事なのかもしれない。いや、ミカも以前に、ガルニエ通りで誘拐されかかった事があった。
 ミカも元いた店でだいたいの事情は分かっていた。
 ああいう店では商品価値が高いのは女性で、最も高く売れるのも女性で、ミカのような男は、女性ほど需要が高くはない。あの時男であるミカの価値が高かったのは、幼さに価値が見いだされていたからだ。
 女性は幼かろうが大人であろうが、価値が高い。それだけ女性の奴隷は、身の危険が多いとも言えるのだ。
 奴隷を人間だと思っていない人々がいるのは、エルネストからも聞いていた。
 ミカはエレナが歩いて行った道を辿りながら、考える。
 エレナが何かを隠している事だけは、確かだ。
 それはきっと、誰にも知られるわけにはいかない、大きな秘密だ。


2021/03/13 up

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