てのひらにひとひらの花

#16 キンセンカ

 エレナの秘密よりも、エレナのケガの方が気になっていた。
 ミカは昼食を終え、庭の見回りをしながら、あの朝の事件を考えていた。
 エレナと約束した通り、エルネストには一言も漏らしていない。ミカもエレナの秘密が全く気にならないわけではなかったが、エレナが誰にも知られたくないと言うなら、ミカがその秘密に踏み込むわけにはいかない。
 庭木や雑草だけでなく、屋敷を守る柵や塀、そして屋敷の外観の痛み具合を確かめながら、ミカはメモをとりつつ庭を巡る。こうして庭を定期的にチェックし、庭師や大工に手入れを依頼するのもミカの仕事だ。
 痛んだ柵をかがみ込んで調べながら、ミカは思い巡らす。エレナのケガは大丈夫か、それが気がかりだった。
 ロンメル中佐は、エレナのケガの手当をしてくれるだろうか。見たところ、エレナは身なりもよく、きちんと教育を受けている。きっとロンメル中佐は悪い人ではないのだろう。それなら、エレナのケガも手当してもらえているだろう。
 もしエレナが、主人の命令に従わずに外出し、ケガを負った場合は別だ。エレナは厳しく罰せられるかもしれない。
 そこだけは気になっていた。エレナは初めて出会った、同じように奴隷の友達で、他人には思えなかった。
 ここ数日、エレナの姿を探して庭の見回りをしながら、隣家の庭先をうかがっているが、人影らしいものをさえ見掛けなかった。
 以前の佐官の時は、使用人が多かった。賑やかに庭でパーティを開いている事もあった。
 その息子のロンメル中佐は、父親のように社交的ではないのかもしれない。屋敷はいつもとても静かだった。
 ミカはポケットを探り、バルテルにもらった懐中時計を取り出す。そろそろ屋敷に戻らなければならない。今日もエレナに会えなかったと諦めて歩き始めると、背後から大声で呼び止められた。
「ミカ! ミカ、ここの家の子だったのね!」
 ミカの名を呼ぶエレナの声は、聞いた事もないくらい、明るく弾んだ声だった。
「エレナ! ケガは大丈夫?」
 ミカは慌てて駆け出し、隣の敷地との間に立てられた柵から身を乗り出すエレナに駆け寄る。
「大丈夫、たいした事ないわ。あんなの、慣れてるもの」
 エレナの言葉に胸が痛くなる。慣れている、という言葉はあまりに重い。ミカの表情が曇った事に気付いたエレナは、慌てて付け足す。
「い、今はこんな事ないわ。ロンメル中佐が引き取ってくれてから、痛い事も怖い事もないもの」
 ミカもそうだった。エルネストがミカを買い取ってくれるまで、怖くて痛くて、つらい事ばかりだった。エレナもそうだったのかと思うと、涙がこみ上げそうになる。
「そう、ミカはルベール様の家の子だったのね……」
 エレナは少し考え込むような素振りをみせた。ミカはそんなエレナに気付かずに、ポケットを探っていた。
「エレナにまた会えたら、渡そうと思って……これ」
 ミカは小さな陶器の薬入れと、小瓶を差し出した。小瓶は茶色の遮光瓶だ。
「これ、キンセンカのチンキと軟膏なんだ。ぼくが育てたキンセンカで作ったんだけれど、傷口の消毒に使えて、それから、ひびやあかぎれにも効いて、ヤケドにも効くんだ。この前、エレナがケガをしていたから……」
「キンセンカって、あれ?」
 エレナはロンメル中佐の庭に咲く、鮮やかなオレンジ色の花を指し示す。
「うん。あの、ぼくはロサ族なんだ。ロサ族では、キンセンカで塗り薬を作っていたんだよ。あの、よかったら」
 そこまで話してから、ロサ族を嫌う人たちもいる事を、ミカは思い出していた。エレナは気分を悪くしないだろうかと不安になる。
 そんなミカの不安は杞憂だった。エレナはミカの掌の薬入れを受け取り、蓋を開いた。
「綺麗な黄色ね。どうやって作るの? いい香り」
「あ、あの、キンセンカの花びらをオイル漬けにして、ミツロウと混ぜるんだ。……これは、ひびやあかぎれに塗ると、とてもよく効くよ。こっちの小瓶は、キンセンカのオイルで、傷やヤケドに塗ると、痛み止めにも化膿止めにもなるから、使って欲しいなって……」
「ありがとう、ミカ。……私、何度もミカに助けてもらってばかりね」
 エレナはてのひらの小瓶と薬入れをじっと見つめる。
「たいした事はしていないよ。この前だって、あの男を捕まえられなかったし」
「ミカ」
 エレナはてのひらを見つめたまま、囁くように続ける。
「もしミカが困った時は、私が必ず助けるわ。……ルルシャ人は、絶対に恩を返すの。忘れないで。困ったら、私のところに来てね」
 そんな困るような事があるだろうか。ミカはてのひらを見つめたまま俯くエレナの、まるでキンセンカを思わせるお日様色の巻き毛を見つめる。
「エルネスト様のところにいる限り、困る事はなさそうだけれど、そうだね。困ったら、エレナにお願いするよ」
 エレナは顔を上げ、笑顔を見せた。
「ありがとう、ミカ。助けてくれて、心配してくれて、何度お礼を言っても足りない。私に優しくしてくれたのは、ノルベルト様……ロンメル中佐と、あなただけだわ」
 エレナはロンメル中佐に引き取られるまで、どんな目に遭っていたのか。ミカは自分の事を思い出していた。
 エルネストに出会うまでの日々は、思い出したくない過去だった。今もそれは、ミカの心に重くのし掛かっている。エレナも同じような目に遭っていたのだろうか。
 サクロナ人と、ロサ族と、ルルシャ人と、何が違うのだろう。同じ人間のはずなのに、ミカですら、そうだと思えなくなっていた。
「またね、ミカ。きっと私たち、友達になれるわね」
 歩き出したエレナの背中に、ミカは咄嗟に呼びかける。
「もう、友達だよ。……エレナ、そう思ってる」
 エレナは振り返り、屈託ない笑顔を見せた。



 エレナを見送ったミカを、エルネストはいつもの木陰のポーチで出迎えた。
「あの娘が、ロンメル中佐の奴隷か」
「そうです。ルルシャ人だと言ってました」
 ミカは頷いて答える。
「とても優しい人です。困った事があったら助けるから、声をかけてって言ってくれました」
 ふと、エレナに口止めされていた朝の一件を思い出す。ミカは律儀にエルネストにも話していないが、エルネストに秘密を持つのは初めてで、なんとなく、落ち着かなかった。
「……ああ、ルルシャ人なのか。道理で綺麗な娘だと思った。ルルシャ人は美貌が多いな」
 何気ないエルネストの言葉だったが、ミカの心にほんの少し、棘を残した。
 やはりエルネストも綺麗な娘に興味があるのかと、ミカは考えてしまう。人目を嫌っているが、エルネストも年頃の男性で、当たり前の事だ。ごく自然な事だ。
 ミカも薄々は気付いている。エルネストが買うべきだったのは、エルネストの『身の回りの世話をする奴隷』だ。それがどういう意味なのか、もう分からないような子供ではなかった。
 エルネストは何も言わず重用してくれているが、本当なら、あの時エルネストは女性の奴隷を買いに来たはずだ。
 それなのに、明日処分されるような、死にかけた奴隷のミカに、大金を払ってくれた。
 ミカの胸を黒く染める卑屈な気持ちを振り払いながら、ミカは明るい声で話し掛ける。
「お待たせしました、エルネスト様。お茶のご用意をいたしますね!」
「ああ、そうだ」
 エルネストにしては珍しい声音だった。なんとも形容しがたい、重い口調だ。
「首都のルベール商会からうちに届けられる荷物を載せた馬車が、エリン郊外の山道で襲われた。積み荷を奪われ、運んでいた三人の従者も殺された。さっき王立軍の役人が連絡に来た」
 庭にいたミカは気付かなかった。この時間はアンナがいるので、アンナがエルネストに取り次いだのだろう。予想だにしなかった凄惨な事件に、ミカは言葉がすぐに出てこなかった。
「去年の凶作で、大分治安が悪くなっているとは思っていたが……。多少の悪政でも、食べられている間はまだいい。食べられなくなると、誰もが殺気立つ」
「戸締まりに気をつけます。……この住宅街も、安全ではなくなってしまいそうですね」
「そうかもしれないな。……エリンは荒れているが、首都はどうだろうか。まあ、今から首都に引っ越すとしても、安全に移動するのは難しそうだな」
 思わずミカも押し黙ってしまう。もしかしたら内乱が起こるのだろうか。悪い考えばかり浮かんでしまう。
「さっき王立軍の役人と話したが、警備兵を増やすと言っていた。商店街やこの辺りの住宅地は、税金を多く払っている富裕層が多い。国もここを荒らされるのは色々困るだろうから、警備は厳重になるだろうから、そう怖がるな」
「こ、怖がっていません……っ」
 エルネストは珍しく声を上げて笑っている。
「今年は豊作になるという話だし、輸入も増やすと言っていた。すぐ落ち着くさ」
「それならいいんですけれど……でも、注意はしておきます」
「ミカは心配性だな」
「それくらいでちょうどいいんです」
 首都のバルテルも心配だ。ミカは手紙を出してみようと考えるが、この手紙も無事、首都まで運べるかどうか。積み荷が金目のものでなければ見逃してもらえそうだ。
 何にせよ、以前のように安全に、静かには暮らせそうにない気はしていた。


2021/03/15 up

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