てのひらにひとひらの花

#19 てのひらの闇

 ミカの花壇は、日に日に豊かになっていった。
 今では薬草園のように様々な草花が植えられ、ミカは日々の手入れに余念がなかった。
 エルネストは二階の窓枠に寄りかかりながら、階下の花壇にしゃがみこむミカの栗色の髪をぼんやりと眺めていた。
『りんご草も菩提樹と同じように、よく眠れるお茶になるんですよ。初めてエルネスト様に飲んで頂いたお茶も、このりんご草でしたね』
 そう言いながらミカが入れてくれたりんご草のお茶の味は、エルネストも覚えている味だ。小さかったミカがおずおずと差し出したカップの温かさを、今も忘れていない。
 花壇のミカは、相変わらずエルネストの視線に全く気付かない。せっせと雑草をむしり、枯れた花や葉を取り除き、水を撒いている。
 草花に詳しくないエルネストが見ても分かるくらい、種類は増えた。どの草も、お茶やチンキのような薬や、香辛料の代わりに料理に使えるものだとミカは言っていた。
 草花を集める為に、ミカはせっせとエレナのいる赤い屋根の家に通い詰め、庭の手入れを手伝い、裏庭を薬草園へと変えていった。
 花壇に草花が植えられるたびに、ミカの笑顔は増えていく。
 ミカが仕事を終え立ち上がったちょうどその時、隣家の敷地から駆けてくる少女の姿が見えた。ミカに手を振りながら、金色の髪をなびかせて駆け寄るのは、ミカと同じ奴隷のエレナだ。
 駆け寄ったエレナは、柵ごしにミカと話し込んでいる。
 歳も同じくらいか。
 ふたりはエルネストに気付かず、楽しそうに談笑し、草花を覗き込み、親しげだ。
 彼らが奴隷という身分でなく、雇われた使用人同士だったなら、いつか結婚し家庭を持つようになっただろうか。
 奴隷という身分では結婚なぞ許されない。子供ができたとしても、奴隷の子は奴隷だ。たとえ主人との子でも、片親が奴隷なら子の身分は奴隷で、奴隷同士なら言うまでもない。
 ミカはポケットから何かを取り出し、エレナに手渡した。きらきら輝かんばかりの笑顔で、エレナに何かを囁いている。
 息が苦しい。
 エルネストは杖をつきながら、窓辺から離れ、歩き出す。
 未だかつて感じた事がないような、鋭く重い胸の痛みだ。
 今までミカの笑顔は、全てエルネストに向けられていた。バルテルやアンナにも見せた事がないような、あんな笑顔を他の誰かに見せる事は、今までなかった事だ。
 六年前のあの日、死にかけたミカと出会ってから今日まで、一度も考えた事がなかった。
 自分はミカをどう思っているのか。
 落馬事故以来、暗闇にひとり取り残されていたエルネストの心に、ささやかな灯りを灯したのは、痩せこけて死にかけた奴隷の子供だった。
 今日まで、その小さな灯りにずっと慰められていた。傍にいてくれるだけで、孤独が癒やされていたと、今、はっきり思い知らされていた。
 自由な身体を失ってから、エルネストはずっと闇の中にいた。ひとり闇の中に留まっていたが、心まで闇に侵された事はなかった。
 事故は不運な出来事だった。
 あの日、いつもと同じように騎乗し、遠乗りに出掛けたが、何もおかしな事はなかった。子供の頃からの愛馬は、気性の穏やかな牝馬で、一度も暴れた事はなかった。
 馬は繊細で臆病な生き物だ。どんなに慎重に乗っていても、事故が起きる事はままある。
 大人しい牝馬は何に驚いたのか、突然、前脚を振り上げ、暴れ出した。馬は決して安全な乗り物ではない。エルネストはしがみつきながら、愛馬を必死で宥めようとした。エルネストの声さえ届かない馬は泡を吹き、狂乱状態になった。狂ったように暴れる馬の背から、エルネストは投げ出され、地面に叩き付けられた。
 踏みつけられなかっただけ、マシだったのかもしれない。踏みつけられたら死んでいただろう。
 事故を知り激怒したエルネストの父親は、牝馬を殺処分した。意識を取り戻したエルネストは、暫くしてから彼女の死を知った。
 エルネストは愛馬と共に、自由な足を失った。
 誰も恨む気にはなれなかった。暴れ狂い、エルネストに重症を負わせた愛馬でさえ、憎もうとは思わなかった。子供の頃から一緒に過ごした馬だ。よく気性も知っている。大人しい彼女が何に怯えて暴れ出したのか分からないが、憎む気にはなれなかった。
 もしも誰かのせいにして恨み、憎めたなら、こんな何もかも諦めた人生にならなかったかもしれない。
 いっそ誰かに仕組まれた事故なら、復讐の為に生きる意欲を持てただろう。
 自由に歩ける足を失い、夢だった海洋貿易商にもなれず、跡継ぎから外され、こうして地方都市にまで追いやられ、それでもエルネストの心に闇は生まれなかった。
 闇にさえ侵されない虚無だった。
 生きていく目的さえなく、希望もなく、夢もなく、未来もなかった。
 何もかも諦めていたエルネストの虚無に、小さな灯りを携えて現れたのが、ミカだった。
 ただ無為に過ぎ去っていくだけの日常が、ミカがいるだけで色鮮やかに変わっていった。
 ミカを守り育て、教育を与えるのは、ミカの為だけではなかった。
 エルネストが得られない未来を、夢を、ミカが見せてくれた。
 ミカが健やかに育ち、学び、生き生きと育っていく姿は、エルネストにはない未来と、希望を与えてくれていた。
 ミカの事をどう思っているか、一度たりとも考えた事はない。
 それくらい自然に、当たり前のように、ミカは失えない、かけがえのない存在になっていた。
 今初めて、エルネストの胸に、小さなしみのような闇が生まれた。
 ミカに出会い、虚無だった胸の中に小さな灯りがもたらされたように、小さな闇が生まれ、穏やかだった心の中を侵食しようとしていた。



「これは?」
 エレナは受け取った瓶をてのひらに載せ、ミカに尋ねた。
「エルダーフラワーのシロップだよ。この前、ロンメル中佐が風邪っぽいってエレナが言っていたから。咳や鼻水、喉が痛い、風邪っぽい時に効くんだ。お茶やワインやお湯に入れて飲むといいよ」
「わぁ、ありがとう! 中佐はお薬が嫌いだから、助かるわ。シロップなら飲んでもらえる」
「エルネスト様も、これはおいしいって。少し調子が悪そうな時は、温めたワインに入れてお出ししてるんだ。とても喜んでくれるから、ロンメル中佐もお酒が苦手でなかったら、ワインに入れるといいかも」
「そうしてみるわ。中佐のお庭にも、エルダーフラワーを植えてもらおうかな。季節の変わり目は皆調子を悪くするものね」
「エルネスト様もやっぱり季節の変わり目が苦手みたいだったから、エルダーフラワーを植えさせてもらったんだ」
 エレナはじっとミカの顔を見つめながら、にんまりと笑顔を見せた。
「本当にミカはエルネスト様の事ばかりね。この花壇だって、その菩提樹だって、皆エルネスト様に召し上がって頂く為のものだものね」
 その通りだ。ミカはかーっと項まで赤くなってしまった。
「う、うん。エルネスト様のお役に立ちたいんだ……」
 エレナはミカの気持ちに気付いているのだろう。決して茶化したりはしない。いつも穏やかにミカの話を聞いてくれる。お互いの過去を多くは語らないふたりだが、同じような経験をして、同じように今の主人に仕えていると、察していた。
「あ、あのね、エルダーフラワーのシロップは、お菓子に入れてもおいしいから。試してみてね」
「ハチミツ漬けなのかしら。おいしそう」
「そうそう、ハチミツにエルダーフラワーを漬けて湯煎して作るんだ。お菓子に入れる時は、砂糖を少し減らして、代わりに入れるといいよ」
 ミカはこの話題から話をそらしたかった。真っ直ぐ向き合うには、つらい感情だった。
 エルネストへ抱く気持ちは、喜びだけではなかった。主人に対して抱いてはならない気持ちでもある。
 エルネストが大好きだと思うたびに、胸がぎゅっと締め付けられ、切ないくらいに痛む。
 いつでも胸を張って中佐への愛を口にする無邪気なエレナは、ミカの葛藤に気付いていない。
 エレナのように自信と誇りを持って、エルネストが好きだと口にする勇気はなかった。
 痩せこけて死にかけた最底辺の奴隷だったミカに、教育を与え、仕事を与え、育ててくれたのは、憐れんだからだ。
 エルネストの厚意を勘違いしてはならない。ミカがやるべき事は、エルネストが深い慈愛でミカを守り育ててくれたように、エルネストを守る事だ。
「……ミカ?」
 エレナに呼びかけられ、ミカは我に返った。
「あ、ああ、ごめんなさい。ぼんやりしちゃってたね」
「風が強くなってきたわ。そろそろ戻った方がいいわね。今日もありがとう。今度はこのシロップの作り方も教えてね」
 明るく手を振るエレナを見送って、ミカは庭仕事の道具を片付けはじめた。
 自分は奴隷で、身分が違うんだ。
 そう言い聞かせても、どこか心の片隅で、エルネストに好意を持ってもらえたら、ミカと同じ気持ちを持ってもらえたらと、願わずにいられなかった。
 手が届かないと諦めていても、好きだという気持ちは、誰にもとめられない。消してしまえるものではなかった。


2021/03/31 up

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