てのひらにひとひらの花

#20 仮初めの恋

 ミカは真剣な表情で、パントリーの中の在庫を調べていた。
 扉は開け放ったままだった。続き部屋の厨房では、通いのメイドのアンナが下ごしらえをしながら、思案気に首を傾げていた。
「肉ならまだ塩漬けの豚の後ろ足があるけど、玉子やバターがねえ……」
「やっぱり、ぼくがちょっと商店街に出て買ってきます」
 ミカはメモを取り終えるとパントリーから出て、粉をふるうアンナに歩み寄る。
「明日はエルネスト様の誕生日なのに、ケーキが作れません」
「ひとりで行くの? エルネスト様もひとりで買い物はだめだって言ってたじゃない。危ないよ」
 エルネストに言われるまでもなく、アンナもひとりでの買い物は行かせたくないようだ。最近の治安の悪化を考えれば、仕方がない。
「大丈夫ですよ。すぐに帰ってきますから。なんとかケーキの分だけでも、玉子とバターを買ってきます」
 好き嫌いがあまりないエルネストは、好物も嫌いなものもない。そのエルネストが唯一、好んで食べるのはパステル・デ・ナタと呼ばれる、カスタードクリームとパイ生地のタルトだ。高温でカリッと焼き上げたこのタルトだけは、時々アンナに作らせるくらいの好物だが、ここしばらくの凶作で玉子もバターもなかなか手に入らず、しばらく作る事ができなかった。
 だからこそ、明日のエルネストの誕生日には、どうしても添えたかった。
「そう? 危なそうだったら、すぐ引き返してきてね」
 アンナは心配そうだ。アンナを安心させるために、ミカは買い物籠に荷物を詰めながら、笑顔を見せる。
「はい! 行ってきます!」
 買い物籠を下げ、勝手口から外に出ると、夏の日差しが目に痛いくらい、眩しい。湿気は感じられない。からっと乾いた暑さだが、これは雨が降らないせいだ。
 屋敷の裏庭から通りに出たミカは日陰を選んで歩きながら、一番近い商店街を目指す。そこはガルニエ通りのような富裕層向けではなく、庶民が多く通う商店街だ。今ではそちらの方が食料品を買える可能性が高い。
 相変わらず、雨が少ない。輸入品に頼ろうにも、近隣の国も同じような状況になっている。
 こういう時こそ海洋貿易を行っているルベール商会の稼ぎ時だが、物価の上昇と共に、足許を見た商売は憎悪の対象にもなる。首都でも何かと暴動が起き、ルベール家もその対応などで大変な状況らしい。
 それは時々首都から送られてくる、バルテルの手紙から知る事ができた。
 バルテルの事も心配だった。首都の治安悪化だけではない。手紙の文字は目に見えて震え、弱っているように思えたからだ。
 そんな震える文字でも、バルテルは常にミカとエルネストの身の上を案じていた。
 ミカはこめかみを伝い落ちる汗をハンカチで拭いながら、考える。
 エリンも治安が悪化している上、食糧事情も日に日に悪化している。どこか安全なところに移住を、と考えるが、首都もこの有様だ。エリンよりも悪い状態になっているかもしれない。近隣諸国もこの天候のせいで、食糧事情も治安も悪化しているだろう。
 今は雨が降ることを祈り、耐えるしかないのかもしれない。
 屋敷がある住宅地を抜けると、商店街へ続く道には、露店が立ち並んでいる。どこもあまり景気は良さそうでなく、店主にも元気がない。
 露店を眺めながら歩くミカの耳に、店主たちの話し声が聞こえる。
「鉱山に送られる奴隷の隊列が襲われたって……」
「鉱山送りなんて口実で、口減らしだろ。俺たちだって食うに困ってるのに、奴隷に食わせるものなんか」
「逃がしたってこんな状態じゃ食う物すらないだろうに。鉱山で死ぬか、餓死するかだろ」
 最近、こんな話をたまに聞くようになった。
 鉱山に行く奴隷は生きて出られないと、噂で聞いたことがあった。逃げられたならよかった、とミカは一瞬思ったが、この過酷な状況だ。食糧の心配がある。
 ミカは小さく首を振る。ミカが守るべきは、エルネストだ。他の誰でもない。それに、ミカの力ではどうする事もできない。
 露店を抜け、商店街へと入る。何度かこの商店街に来た事があるが、ここはそれほど治安が悪くなかった。庶民の為の商店街だが、比較的安全だった。この辺りの住人ばかりが利用するからかもしれない。
 通りを歩きながら店の品揃えを覗き込むが、農産物は少ない。元気のない野菜や、しなびた果物が並んでいて、新鮮なものを入手するのは難しい。玉子やバターはもっと手に入れにくかった。動物を養うエサも足りていないだろう。生産される数が少ないので、奪い合いなのかもしれない。
 ミカは以前に何度か利用したことがある、農場の直営の店に立ち寄った。店の扉は開け放たれ、商品は思っていたよりも豊富に並んでいた。
「いらっしゃい。何を探してるんだい?」
 声をかけてきたのは、やはり何度か顔をあわせた事がある男だ。以前に、この農場の跡取り息子だと誰かが話しているのを聞いた事があった。年齢はエルネストと変わらないくらいで、日に焼けた背の高い、気さくな人だった。
「あの、玉子とバターが欲しいんです。ありますか? おいくらですか?」
 ミカが見上げるくらい、背が高い。
「ああ、あるよ。少しだけど」
「おいくらですか? 買えるかな……」
 ミカが買い物籠から財布を出し、開くと、男は少し考え込んでいた。
「今はもう金じゃ売っていないんだ。物々交換だな。金じゃ腹は膨れないし」
 以前に、エルネストがそんな事を言っていた。ミカもその可能性を考えて、ほんの少しだが、茶葉を買い物籠に入れてきた。首都のルベール商会から送られてきた、輸入物の高級な茶葉だ。
「あ、あの、じゃあ、お茶の葉と交換できませんか?」
 男はじろじろとミカを眺めていた。頭の天辺からつま先まで、じっと見つめて、それから男は口を開いた。
「きみ、可愛いね。何歳?」
 唐突に尋ねられ、ミカは困惑しながらも、素直に答えた。
「え? え、えーと、に、二十一歳です……」
「へえ、見えないね。随分童顔だなあ。まだ十六か十七くらいかと思った」
 ミカはあくまで『二十一歳』と押し通しているが、やはり無理があるのか、時々こう言われてしまう事がある。そんなに見えないだろうか。無理があるだろうか。ミカは恥ずかしくなって、俯いてしまった。
「きみみたいな子、好みのタイプなんだよね」
 ミカは何を言われたのか、意味が分からなかった。俯いたまま、固まる。
「お代はいらないから、ちょっと俺と遊ぼうよ」
 遊ぶ? ミカは意味が分からず、戸惑うばかりだ。
「優しくするから、安心して。俺、うまいって言われてるから。奴隷なら経験あるかと思ったんだけど、もしかして初めてかな。主人とはしてないの? 俺ならこんな可愛い子、ほっとかないのになあ」
 肩を抱かれて引き寄せられて、ミカは驚いて顔を上げる。
「本当に可愛いなー。手も肩も華奢で綺麗だなあ。ね、前も店に来てくれたよね。あんまり可愛かったから、覚えてたんだ。……今、店を閉めてくるから」
「え、あの、待って下さい!」
 鈍いミカもやっと気付いた。このままでは大変な事になってしまう、と青ざめたその時だった。
 激しい怒号と銃声が響いた。
「な、なんだ!?」
 男の手が緩んだ隙に、ミカは店の外に飛び出す。
「あ、きみ! ちょっと!」
「ご、ごめんなさい!」
 買い物籠を抱えて飛び出したミカの目の前に、混乱した人々の群れと叫び声が聞こえた。
「逃げろ! 早く!」
 そう叫ぶ男と、両手を縛られたままの半裸の奴隷たちが通りに走り出てきた。
 さっきの露店でも噂話があった。鉱山に送られる奴隷を解放した人たちがいると。逃げる奴隷と、追いかけようとする奴隷商を威嚇する銃を持った男たち。一目で分かる。奴隷を解放する為に奴隷商が襲われたのだ。
 怒号の響く通りの片隅に立ち竦むミカの肩を、誰かが叩いた。振り返ると小柄な少年が立っており、ミカの肩を掴み、詰め寄ってくる。
「……っ!?」
 ミカの肩を掴んだ少年の顔を覗き込んで、ミカは思わず小さな声を上げてしまう。
「私よ!」
 目深に帽子を被った少年は、エレナだった。いつか雑穀商が襲われた時に見掛けた、あの時と同じ格好だ。やはりあの時の少年は、エレナだった。
「ここは危ないから、早く逃げて! 騒ぎはもっと大きくなるわ!」
 言うなり、エレナは駆け出そうと踵を返した。
「待って、エレナ! きみは何を」
 エレナは振り返り、いつものように笑顔を見せた。
「言ったでしょ。中佐の為なら命だっていらないって。私、中佐の理想と共に戦ってるの。ううん、中佐だけじゃない。私のために戦うの」
 エレナはミカに手を振り、駆け出す。逃げた奴隷たちの中に潜むように紛れ込む消えるエレナの後ろ姿を見送り、ミカは我に返る。
 通りはますます混乱していく。逃げ惑う人たちと叫び声、銃声に背を向けて、ミカも駆け出す。
 エレナが何をしているのか、やっと分かった。
 明け方に出歩いていたのも、ガルニエ通りの雑穀商襲撃騒ぎに紛れていたのも、今、あの騒ぎに身を投じているのも。
 全て、奴隷解放のための事だったんだ。



 なんとか屋敷まで無事に帰り着いたミカは、騒ぎの事はエルネストにもアンナにも伝えたが、エレナとロンメル中佐の事は、口にしなかった。玉子もバターも買えなかったが、この騒ぎでは仕方がない。
「せっかくの誕生日なのに、ケーキをご用意できなくて申し訳ないです」
 エルネストに午後のお茶を給仕しながら、ミカはしょんぼりと詫びる。
「……いや。こんな情勢では仕方ないだろう」
 エルネストはここしばらく、あまり機嫌が良さそうには見えなかった。苛立っているわけではないが、どちらかといえば、物思いに耽るように、沈んで見えた。
 それもあって、誕生日には是非ともカスタードのタルトを用意して、食べて欲しかったのだ。
 昨日あの時、玉子とバターが買えたなら。
 店主とのやりとりを思い出してしまう。
『奴隷なら経験あるかと思ったんだけど、もしかして初めてかな。主人とはしてないの? 俺ならこんな可愛い子、ほっとかないのになあ』
 ミカの身体と引き換えに、バターや玉子を売ると言われたのだ。
 怒りは感じなかった。屈辱だとも思わない。エルネストに引き取られるまでは、ミカはそういう最底辺の奴隷だった。今も忘れてはいない。
 あの男に悪気があったとは思っていない。奴隷として見下され、差別されたとも思わない。彼は無邪気にミカと仮初めの恋を楽しもうとしただけだろう。
『もしかして初めてかな。主人とはしてないの?』
 エルネストはそんな事を要求しなかった。たとえ病気で働けなくとも、食事を与え、医者にまで診せてくれた。そしてこうして、教育も与えてくれた。
「あるものでやりくりすればいい。贅沢できずとも人は死なない」
 エルネストに笑みはない。ミカの顔さえ見ずに、素っ気なく返すだけだった。
「はい。……お誕生日おめでとうございます、エルネスト様」
「ああ、ありがとう」
 ミカもうっすらと気付いていた。
 エルネストとの間に、いいようのない溝を感じていた。まるでガラスのような、目に見えない何かに隔たれているような気がしていた。それはいつのまにか、ふたりの間に生まれていた。
 何故、こんな風になってしまったのか、ミカは分からなかった。
 エルネストがひどく疲れ、傷付いているようにみえるのに、かける言葉が浮かばなかった。何がエルネストを苦しめているのかも分からない。
 子供の頃のように、無邪気に、何のためらいもなく、エルネスト様が大好きです、と言えたなら。
 時折、そんな事を思う。
 今こんな風に、何かに隔てられている時にこそ、伝えたかった。
 けれどもうそんな、何も知らなかった子供の頃には戻れないとも、よく分かっていた。


2021/04/07 up

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