竜の棲み処

#18 嵐の予感

 久し振りの我が家の居間で、ライネルと差し向かいで夕食後のお茶を飲んでいるが、さっきからライアネルは無言だ。
 マギーは気を使って家族水入らずに、と、洗い物を口実に厨房に引き篭もってしまった。
 ルサカは帰ってくる前に、何度も説明する内容を考えに考えてきたが、いざとなると何とも説明しにくかった。
 つっかえつっかえしどろもどろに説明するものの、どうにもタキアとの関係と竜のしるしの話を説明するのに抵抗があった。
 ライアネルは兄でもあり父でもある、そんな存在なのだ。
 まさかまだ十四歳なのに竜と交わって竜のしるしをつけられて、人でなくなったとか、どうしたって言いにくい。
 こう、婉曲に遠回りに、ぼかしてそれらしい話をして、それからルサカは口を噤んだが、ライアネルは難しい顔をして腕を組んだまま、黙り込んでいた。
 ライアネルはライアネルで、ある程度想定していた通りの事ではあったのでそれほどの衝撃はない。
 ただ、ルサカが『竜に純潔を奪われた』のを認めたくないというか考えたくないというか。
 ライアネルにとってもルサカはわが子のような弟のような存在で、その大事な家族が、拉致されてそんな目にあった訳だ。
 ルサカの性格的にも、経緯的にも、間違いなく合意の上での行為ではない。
 それを考えるとライアネルは正気を失いそうな気がしている。
 相手は人ではないし、言うなれば神にも近い存在ではあるが、それでも色々思うところがある。
 まだ未成年でほんの子供なのに。
 ライアネルのような生真面目な人間には耐え難い事実だ。
 ルサカも、ライアネルの性格的に、この事実を語るのが非常に躊躇われた。
 ルサカが唯一、ライアネルの情に訴える方法は、その竜が好きで一緒にいたいのだ、とそれを強くアピールするくらいしかない。
 黙り込んだライアネルの前で、恐る恐る、ルサカは口を開く。
「……ええと…そもそも出会ったのも、人攫いに攫われて売られそうな時で、助けてもらった訳だし……。だから攫われたわけじゃないんです」
 嘘は言っていない。概ねその通りの結果になったのだから、これは嘘じゃない。
 ルサカは自分に言い聞かせる。
 ライアネルしてみれば、それは詭弁だ。
 助けたかもしれないが、巣に連れ去っているわけだ。
 本当に助けたなら、家に帰すはずだ。
「人間じゃないけれど、人間とそんなに変わらないし、さみしがりやで、決して悪い人というか悪い竜じゃないんです。今まで育ててもらって、ぼくは恩知らずかもしれません。……でも、一緒に生きていきたいんです……」
 ルサカももう正直、限界だ。
 緊張のあまり、胃に鋭い痛みがあるくらいだ。
「ライアネル様に会って、ぼくの事を聞いて、ぼくをこうして家に帰してくれました。決して人の気持ちがわからないような、そんな悪い竜じゃないんです……」
 ライアネルもそれは分かっている。
 竜に懇願したのは他でもないライアネルだ。
 それを聞き入れて、こうしてルサカに会わせてくれたわけだから、ルサカの言うとおり、その竜の気持ちを反故にしてはいけない。
 ライアネルもそれくらいわかっている。それでも保護者は色々と複雑なのだ。
 未成年、拉致、監禁、ともう犯罪の要素しかない。
 幾ら竜でも、いくら大切にされていても、わが子のように慈しみ育て、一緒に暮らしていたルサカがそんな目にあった、という事実を受け入れがたいし、許しがたいのだ。
 ライアネルはやっと、重い口を開いた。
「……ルサカは決して、浅慮な子供じゃない。俺もそれは分かっている。きっと、離れている間に色々な事があって、よく考えた末の結論なのだろう、というのは、俺も分かってはいるんだ……」
 ルサカも胃痛が限界かもしれないが、ライアネルだって色々なものが限界だった。
「まあ、ルサカも長旅で疲れているだろうし、今日は早めに寝たほうがいいだろう。……ルサカの部屋は勿論そのままになってる。……ゆっくり休みなさい」
 お互い、十分疲弊した。
 素直に二人は今夜は早々寝てしまう事にする。
 ルサカは数ヶ月ぶりに自分の部屋の、自分のベッドに潜り込んで、ひとつ言い出せなかった事を思い返す。
 これが最後で、多分、もう二度と会えないという事を、どうしても言い出せなかった。
 懐かしい自分のベッドの寝具は、いつものように薄荷の匂いがしていた。
 マギーは、薄荷の茂みにシーツを干す事をルサカにも教えてくれた。
 こうすると薄荷の香りが自然に移る。
 ルサカもマギーに習って薄荷の茂みに干すようにしていた。
 ルサカがいなくなった後も、こうしていつルサカが帰ってきてもいいように、薄荷の茂みでこのシーツを干していてくれたのだと思うと、また泣きたいくらいに切なくなった。
 この匂いが、とても恋しく、懐かしく、ルサカを眠りに誘う。
 うとうとしながら、ルサカは、古城の巣に薄荷を少し持ち帰って植えてみよう、と考える。
 タキアにもこの、大好きな懐かしい香りを知って欲しい。
 無事に育つといい、そう思いながら、静かに眠りに落ちる。



 ルサカは植木鋏を握り締めて、庭のバラの茂みにしゃがみこんでいた。
 剪定するには時期が丁度いい。一年で一番、しっかりと、いわゆる強剪定が出来るのはこの時期だけだ。
 ここに帰って来られるのはこれが最後かもしれないけれど、ここできちんと手入れしておきたい。
 そう思いながら、ルサカは容赦なく枝を切り落とす。
 この三日で、やれる事はやった。
 ライアネルは終始渋い顔をしていたし、納得をしてくれたとは言い難いけれど、認めてはくれた。
 あとは、今日迎えに来るタキアをどう紹介するか、だ。
 バラは冬を越えて太い枝ぶりになっていて、切るのが面倒な事になっていた。
 ルサカは丁寧に、棘を避けながら摘んで、切っていく。
 タキアにソツのない挨拶なんて期待していないが、ライアネルに好印象を与えて欲しい。
 本当に結婚相手や恋人を紹介するようなものだな、とルサカは思う。
 タキアもライアネルも、ルサカにとってはどちらも大切だ。
 だからタキアにライアネルを好いてもらいたいし、ライアネルにもタキアを認めて欲しい。
 タキアはライアネルにとっては性犯罪者みたいなものだから、印象がいいはずない。
 タキア本人は子供のように無邪気で穏やかで、嫌いになんてなれないとは思うが、まずもう既に印象が悪い。
 だからこそ、うまく紹介しないとならない、とルサカは真剣に考えている。
 いやもう紹介なんてしないで、ライアネルに挨拶だけして帰るべきか、などと逃げ腰に考え始めたその時、うっかり手を滑らせて、園芸用の手袋の上から、指先を鋏で切ってしまった。
 激痛と、肉を切る嫌な手応えがあった。
「痛っ……! やば、深く切っちゃったな……」
 手袋の指先は見る間に赤く染まった。
 慌ててルサカは手袋を外し、血まみれの指先を確認する。
 持っていたタオルで指先を染める血を拭い、驚愕する。

 傷が、ない。

 鋏で肉を切る、確かな手応えがあった。
 それになにより、この指先を染める鮮血はどこから出たというのだ。
 もう一度指先を拭って確かめる。
 何度見ても、傷口がない。
 まさか、番人は竜の強靭な生命力も分け与えられているのか。
 竜のしるしがついてから、怪我をする事がなかった。
 もし調理中に包丁やナイフで傷付ける事があったなら、もっと早く気付いたかもしれない。
 そんな事もなかった。だから気付かなかった。
 番人は、怪我を負ってもすぐに治癒するのか?
 竜の生命力を分け与えられているから、竜のように治癒能力が高く、多少の傷ならすぐに塞がるようになっているのか。
 そうでなければ辻褄が合わない。
 深く切ったはずだし、出血もひどかった。それなのに傷がない。
 エルーが『番人を人の世界に帰してはいけない』と言っていたけれど、これなら納得だ。
 長い命、不老、傷つかない身体。
 こんな身体で、人の世で生きられるはずがない。
 完全に人でないものなのに、人と暮らせるはずがない。
 ルサカは思い切って、素手の掌で、いばらの枝を握り締める。
 痛みは確かにあった。握った掌を開くと、確かに血が滲んでいるのに、傷口は見る間に塞がっていく。
 皮膚に残った棘がある部分だけ、塞がらない。ルサカが棘を引き抜くと、すぐに傷は塞がり始めた。
 もう何があっても驚かないと思っていたルサカだが、さすがに言葉がない。
 今更ながらに、本当に人ではないものになってしまったんだ、と強く実感する。
 不老や長命は、身近に感じられなかった。
 これほど、自分が人ではないのだと思い知らされた事はなかった。
 呆然と立ち竦んでいたその時、のんきな大声が聞こえた。
「ルサカくーん! おかえりー!」
 誰かと思うまでもない、ジルドアが門扉のところで笑顔で手を振っていた。
「ジルドアさん、ただいま!」
 ルサカも笑顔で応え、門に駆け寄る。
 この人を食ったような、飄々とした書記官はルサカをとても可愛がっていた。
 ルサカもこの、とぼけた兄のようなジルドアが大好きで、よく二人でおもちゃを作っては、川や草原で遊んでいたものだった。
「無事でよかった。……もう、竜のところに帰らないでいいのかい?」
 門扉の鍵を開けて、ジルドアを招き入れる。
「うーん……その辺りの話は、ライアネル様と一緒にお昼でも食べながら話しましょう。……今、剪定してたんです。ちょっと片付けてから戻るので、ジルドアさんは先にライアネル様とお茶でも飲んでてください」
「はいはい。……そうそう、ルサカくんの好きな、銀の森の野うさぎ亭のキルシュトルテ、お土産に買ってきましたよ。お茶の時にでも食べましょう」
「キルシュトルテなんて、すごく久し振りだ……! ジルドアさんありがとう、楽しみにしてる!」
 ジルドアを見送って、ルサカはバラの茂みに戻る。
 この時、門扉の鍵を閉め忘れた事を、ルサカは激しく後悔する事になる。
 ジルドアを見送ってそのまま、忘れずに門の鍵を閉めておけば。

 こんな事にはならなかった。



「……ジルドア、ルサカはまだ庭か?」
 ジルドアを客間に通してお茶を出してから、そこそこの時間が経っていた。
「私が来た時は、バラの剪定をしていましたけど。片付けてから戻るって言ってましたが、遅いですね」
「すまないが、ルサカを呼んできてくれないか。……マギーが張り切ってて、そりゃもうでかい七面鳥を焼いたんだよ。あんなでかいの、マギーじゃ運べないだろうから、俺はマギーの手伝いをしてくる」
「お安い御用ですよ」
 ジルドアは客間のテラスから、庭へ出る。
「ルサカくーん! もうお昼ですよ。マギーさんがでっかい七面鳥焼いたって……」
 ジルドアが最後に見た時、ルサカはこのバラの茂みの前にいた。
 そのバラの茂みの前に、血の付いた園芸用の手袋と、血塗れの植木鋏が落ちていた。
「……ルサカくん…?」
 ジルドアは門に向かって駆け出す。
 開け放たれた鉄の門扉は、軋んだ音を立て、冬の風に揺れていた。


2016/02/13 up

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