竜の棲み処

#36 竜と過ごす夜の為に

 顔の傷はすっかり消えた。
 これが人間だったら人生が変わってしまうくらいの大怪我だったと思うが、番人の治癒力なら、綺麗に何事もなかったかのように、治る。
 ただ、タキアが怪我をした時もそうだったが、傷を治すために体力を消耗する。
 体力を消耗した上に、まだ傷跡が残っているうちにタキアと交尾しまくってしまったものだから、傷跡が消えるのも体力を取り戻すのも時間がかかってしまった。
 レシェがいてくれた間は家事を一手に引き受けてくれたので、食事も掃除も洗濯も心配はなかったが、タキアと二人きりに戻ってからは、破綻状態だ。
 多少の家事はタキアも出来る。
 出来るが、決してうまくはないし、特に料理はひどい。
 魚を焼こうが肉を焼こうが野菜を煮ようが味付けは塩のみ。
 それ以外の味付けを知らないんじゃないか、というくらい、なんでも塩のみ。しかも焼きすぎる。茹ですぎる。加減を知らない調理っぷりだ。タキアが問題なく出来るのは切る、盛るくらいだ。
 結局、タキアが不在にしていた間に作り置いた食料を切り崩したので、傷が治って体力を取り戻した今、また繁殖期に備えて減った分を備蓄をしなければならなくなった。
「今度こそ、繁殖期まで交尾しないから。……タキアも、すぐに触ったりしないでよ。お互いそういう気にならないよう自重しないと」
 いつものように寝椅子に転がっていたタキアは、そうきつくルサカにいい聞かされて、露骨に不満げな顔を見せる。
「ちょっとキスするくらい、いいじゃないか。それもダメだっていうの?」
「うーん……」
 日当たりのいい居間の絨毯の上に座っていたルサカは、膝を抱えて考え込む。
 リーンが言っていた通り、竜の情緒安定のために交尾は出来るだけしておいた方がいい、というのはよく分かっている。
 よく分かるが、ルサカの場合、命が掛かっている。もうすぐであろう繁殖期前に、消耗したくはない。
 前回の秋の繁殖期をそれなりになんとか乗り切れたのは、繁殖期前に交尾をした事がなかったからで、それゆえに体力は温存出来ていた。
 あの時タキアは、交尾の準備に濃厚なスキンシップをしていたけれど、考えてみれば、あの時はそのスキンシップだけでその先を我慢出来ていた。
 今、出来ないのは何故なのか。
「……そりゃ、気持ちいいって知っちゃったからね」
 さすが羞恥を知らない竜。サラリと言い放つ。
 聞いたルサカの方が羞恥で耳まで赤くなっている。
「人間との交尾があんなに気持ちいいって知らなかったし。……番人になって、ルサカの匂いが強くなったし……。一応僕だって我慢する努力はしてるんだよ」
 タキアが一応は自重しようとしていた事は、ルサカも分かっていた。
 ただそんな濃密なスキンシップを好きな人としていたら、いくらタキアが自重していたとしても、ルサカもその気になってしまう。
「でもルサカがいい匂いぷんぷんさせてたりすると……ねー」
 言っている内容はひどいが、タキアは甘えた素振りでルサカの様子を窺っている。こんな時のタキアが可愛く見えるのはルサカの気のせいではない。タキアは甘え上手すぎる。
「……やっぱりそういうのも控えよう」
 思わず羞恥でタキアから目を逸らす。
「いやだ。そんなの我慢出来ない!」
 完全に駄々っ子だ。
 他の事なら譲歩があるのに、とにかくスキンシップと交尾に関しては譲る気がないらしい。
 そこでルサカは気付いた。
 竜は何歳から、繁殖期が来るのだろうか。
 巣を持ってルサカを番人に迎えるまで、竜以外と交尾をした事がないと言っていた。では、巣立つ前まで繁殖期をどう過ごしていたのか。
「……あんまり言いたくないけど……」
 ルサカに突っ込まれて、タキアは珍しく、少し言いにくそうに口ごもった。
「発情期が来るようになったから独り立ちしようと思った。……姉さんのところの番人としても良かったんだけど、子供の頃から知ってる顔ばかりだったから、そんな気になれなかった。……人間から見たら、絶対軽蔑されそうなんだけど……知り合いの発情期が来てる竜と済ませた」
 タキアの口ぶりから察するに、『しょうがないから手近の知り合いと済ませた』というような、色気も何もあったもんじゃない過ごし方だったようだ。なかなか複雑な事情だ。
 享楽的で見境なしと思える竜も、色々と考えるところがあるらしい。
「別に軽蔑なんかしないよ。……竜と人間は色々違うって分かってきたし。……セツさんみたいに百歳まで同居の場合は?」
「セツはすっごく変わってるんだよ。……あいつは自分のそういう話、絶対しない。だから分からないけど……普通の竜なら、同居の親の番人と交尾してるんじゃないかなあ。……姉さんとこは人数少なかったけど、普通の巣なら十人くらいはいるだろうし」
 さすがゆるゆるモラルの竜だ。ちょっと人のモラルでは色々と理解出来ない。
 そういえばエルーに、ライアネルとは血が繋がっていないんだから交尾しても問題ないじゃないか、くらいの事を言われた事を思い出した。
 要するに独立前は親の巣にいる血縁でない番人で、済ませていると言う事か。
 同居=家族のイメージがある人間には、なかなか理解しにくい世界だ。
 考えてみれば番人の重要な三つの仕事のうちのひとつが交尾だ。だからこれも当たり前といえば当たり前なのかもしれない。
 複雑な竜の生態に色々思い巡らせていたルサカは油断していた。
 いつの間にかタキアは寝椅子から起き上がって、近寄っていた。絨毯の上に膝を抱えて座っていたルサカを素早く引き倒し、組み敷く。
 そのあまりの素早さにほぼ無抵抗だったルサカを抱え込むと、すぐさま髪に顔を埋めている。
「……うん。いい匂い……」
 仰向けのルサカに伸し掛かって、心行くまでその砂棗の花に似た香りを吸い込む。
「タキア……、ちょっと……」
 ルサカより体格も良くて力もあるタキアにこんな風に押さえ込まれたら、絶対に逃げられない。ルサカは何とか逃げ出そうともがくが、いとも簡単にタキアはその抵抗を封じ込めてくる。
「少し触るだけ。……交尾はしないから」
「しなくったって、触られたら……!」
 タキアはルサカの左の瞼に唇を寄せる。
 左の瞼に口付け、それからその眉上に口付け、瞼を再び辿りながら、頬に触れる。
 傷が消えても、そこに傷があった事をタキアは忘れられないのだ。そう気付くと、抵抗する気が失せてしまう。
 口付けて、甘く食んで、柔らかく吸い付く。タキアはこういうキスをよくする。
 巣に連れてこられたばかりの時に、ルサカはこれは竜の毛繕い的なものかと思ったものだが、多分感覚的には近い。
 よくよく考えてみれば、これも交尾ほどの効果はないが、間違いなく竜というか、タキアの情緒安定になっている。
 ルサカの左の頬に口付けを繰り返すタキアの背中に両手を回して、軽く撫でると、タキアは顔をあげ、ルサカの唇を軽く啄む。
「……これで終わりにするから」
 ルサカの唇を軽く舌先で舐め、甘く吸い、食み、それから、名残惜しそうに、唇を離す。
 正直これだけで、ルサカはとろん、と蕩けてしまう。むしろこんな蕩けそうなキスだけされまくって終わる方が、ルサカにとってはものすごくつらい。
 タキアが気を使ってくれても、ぼくがだめなんだよ。
 唇を震わせ、困り果てながらルサカは心の中で呟く。



 ルサカは意を決した。
 タキアはここ数日、繁殖期前に一稼ぎ、とばかりに張り切って財宝集めをしている。
 今がチャンスだった。
 例の『僕に内緒で欲しいものとかもあるだろうから』とタキアがくれた珊瑚色の呼び出し紙を使う時が、とうとう来てしまった。
 恥を忍んで、珊瑚色の紙に切々と今欲しいものの概要を書き込んで、送っておいた。
 都合がつけばそろそろ来てくれるはずだ。
 そわそわとルサカは珊瑚の来訪を待つ。
 タキアが帰ってくる前に珊瑚に来てもらわないと、色々困る。ここはタキアに知られずに色々済ませてしまいたい。
 タキアがいたとしても、珊瑚はソツなく器用に悟られないように立ち回ってくれるとは思うが、もういつ繁殖期が来るかわからない。
 確実に今日、色々済ませて準備しておかなければならない。
 タキアに居てもらっては色々珊瑚に質問出来ない。それは困る。
 珊瑚はルサカからの注文内容で察したのか、素早くいい時間に来てくれた。
「……ルサカさんのご注文に添えそうなものを何点かご用意致しましたが、そうですね……私のおすすめはまずこちらですね」
 いつもの居間のソファに座って、いつもの大きな黒いトランクから、珊瑚は一冊の本を取り出す。
 表紙には『竜と過ごす夜の為に』と人間の言葉で書かれている。
 これは詩的に見せかけてものすごくストレートなタイトルではないだろうか。
「これはオーソドックスなベストセラー本なのでハズレがないと思います。私がお伺いしている竜の番人の方には、まずこの本をお勧めしていますね」
 受け取って、パラパラとページをめくってみる。
 非常に詳しく図解されている……。ルサカは思わず本を閉じた。
 例え人間の文字が読めなくとも、中身がよく理解出来るレベルの詳しさで図解されている。
 これは厳重に保管しなければ。タキアに見られたら、ルサカは生き恥を晒す事になるし、見られたらどんな事になるか、色々な意味で想像出来ない。
 はっきりこれは確実に、ルサカが死ぬほど恥ずかしい思いをするのだけは間違いない。
「もう一冊、そんな感じの本がございますが、ルサカさんにはちょっとまだ早いかな、とも……」
 年齢を考えたらこの歳でこんな本が必要になるなんて、とんでもなく早熟でふしだらな生活をしている、という事なのだが、実際番人の重要な仕事のひとつなのだから仕方がない。
『竜と過ごす夜の為に』をぱらぱら捲っただけで、顔から火が出そうなほどの刺激だった。
 もうこれで十分だ、とルサカも納得する。
「……本はこれでいいです……。あと、例の……」
「はい。ご用意してまいりました。少々お待ちを」
 再び大きな黒いトランクを開き、珊瑚は綺麗な瓶に詰まった金平糖のようなものを取り出した。
「即時体力回復出来るようなもの、というのは残念ながらありませんが、こちらならば、ご希望の効果を得られるのではないかと」
 金平糖のようなものが詰まった瓶をテーブルに置く。
「速やかに失った体力を補うもの、というのはやはり難しいです。……それで、こちらの金平糖のようなものなんですが、これは番人用に弱めに作ってあります。それでもルサカさんのような小さ……失礼致しました、小柄な方には効き過ぎる可能性がございます」
 ルサカは瓶を手にとって、眺める。ラベルには『滋養飴』と書かれている。何のひねりもなくそのままだ。
「説明が非常に難しいのですが、この滋養飴は、『体力を失うような事』をする前に飲みます。一回一錠で宜しいかと。通常大人は二錠ですが、ルサカさんは小柄なので……」
 先ほどは失言したが、今回は巧妙に回避した。
 小さい、はもうイヤというほど言われ慣れているので、ルサカはそれほどは気にしていない。
 いや小さい事は気にしているが、言われても気分は害さない、という意味で気にしていない。
「体力を失う前……」
 繁殖期に入ったら、交尾の前……というより合間に飲めばいいという事か。
「既に体力を失っている場合、効果は期待出来ません。体力がある状態で、飲んでいただいて、それから体力を失くすような事をしますと、その時の体力の減り加減が軽減されます」
 珊瑚が『交尾』を婉曲に置き換えてくれているのだが、余計にわかりにくい。
「あくまで軽減されるだけです。そして既に減っている体力は取り戻せません。弱っていると、効果は期待出来ませんので、栄養補助食品的なお気持ちで使って頂けると宜しいかと思います」
 やはりそんな都合のいい薬なんてないのか。
 それでも、『これから消費するであろう体力』を軽減してくれるなら、確かに補助的な意味で価値がある。
「……これも下さい。お試しで、とりあえず一瓶だけ。……もしかして結構高いのかな」
「そうですね……。……こちらになります」
 さらさらと紙に値段を書いて、ルサカの前に差し出す。
「……結構しますね……」
 並んだ数字の桁に、ルサカは目が飛び出るかと思った。
「タキア様がお得意様ですし、少しおまけさせて頂きますよ。……本を少しお安めにしましょう」
 これで足りるだろうか。
 以前タキアから『内緒で買い物したい時の支払いに使うといいよ』といわれて貰った、宝石を散りばめた悪趣味な黄金の青年像を握り締める。
 片手で握って持ち歩けるくらいの大きさの、この悪趣味な像は、やはりタキアがどこからか強奪してきたお宝の中に入っていたものだ。
『こんな悪趣味な像飾ってたら、僕の品位を疑われる』とマジギレしていたタキアが、支払いに使ってしまえ、とルサカに押し付けたのだが、これは支払いで受け付けてもらえるのだろうか、とルサカは不安になってきた。
「珊瑚さん、これで足りる?」
 件の悪趣味な青年像を差し出す。
 珊瑚はそれを受け取り、じっと見つめ、頷く。
「十分すぎるものですよ。……残高を領収書に書き添えておきますので、また次回の清算に当てさせて頂きますね。是非また、ご贔屓にお願い致します」
 ダーダネルス百貨店は、貴金属の価値のみ求めて、その芸術性や美しさは問わないのかもしれない。
 だからしばしばタキアは、趣味にあわないものをこうして支払いに充てているのかと納得する。
「ああ、そうでした。……過剰摂取にはご注意下さい。この滋養飴は安全性は高いのですが、どんな薬にも必ず、副作用はございますから」
「どんな副作用が?」
「まず、連続して使用しすぎると、吐き気や頭痛、胃痛などが起こります。なので、そうですね……二連続くらいまでが安全でしょうか。それと、もうひとつの副作用は、服用するとほぼ必ず出ますが、それほど深刻なものではございません。……そうですね、むしろ、良い効果といえなくもないかと」
 良い効果。一体どんな効果だろう。
「それはどんな効果なんですか?」
「一言でいうなら、ぞ」
 珊瑚が最後まで言い終わる前に、居間の扉が勢いよく開かれた。
「ルサカ、ただいまー!」
 まさかのタキアの帰宅だった。帰ってきた気配すらしなかった。いつもより早すぎる。
 ルサカは領収書と本を慌てて、自分の服の中に突っ込んで隠す。
「これはタキア様。お邪魔させていただいております」
 珊瑚は何事もなかったかのように、いつもと変わりなく挨拶をする。
「おかえり、タキア」
 ルサカも冷や汗をかきつつも勤めて平静を装う。
「珊瑚さん来てたんだ。丁度良かった。……この間言ってたやつ、やっぱり買おうと思ってるんだけど……」
 タキアが珊瑚を捕まえてカタログを開いている間に、ルサカはお茶の準備をするような素振りで、本と薬の瓶を持ち出し、居間を後にする。
 最後まで説明を聞けなかったけれど、重要な副作用の説明は終わったし、使い方も教わった。
 問題ないだろう、とルサカはこの時、気軽に考えていた。
 素早く自分の部屋に戻り、首尾良く本と薬を隠す。
 これでいつ、タキアに繁殖期が来ても大丈夫だ。
 ルサカは足取り軽く、お茶の準備のために厨房へ向かう。
 鼻歌を歌う余裕があるくらい、この時ルサカは、気楽に考えていた。


2016/03/09 up

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