※ルサカがライアネルに引き取られて二年目の話です。
石造りの屋敷に続く白樺並木の向こうの森には、暗雲が立ち込めていた。
雷雨が来るのは時間の問題だろう。
ルサカは庭に通じるテラスの窓から、その今にも暴れ出しそうな空を見上げていた。
「ルサカちゃん、じゃあ私は帰りますけど……ライアネル様がお帰りになるまで、お留守番お願いしますよ」
マギーは大急ぎで帰り支度をしていた。
マギーの家はライアネルの屋敷から、歩いて十五分ほどだ。急いで帰れば降られずに済むかもしれない。
「はい。……マギーさんも気をつけて」
大抵、マギーはライアネルが帰るまではいてくれるのだが、今日はこの天候だ。
荒れ出す前に帰宅しないと、大変な事になる。
馬丁ももう帰ってしまったし、ルサカはライアネルが帰ってくるまで、ひとりで留守番しなければならない。
大慌てのマギーを見送って門の鍵を閉め、玄関の扉もしっかり戸締まりを確認し、居間に戻る。
いつもならそろそろライアネルが帰宅する時間だが、なかなか帰ってこない。
このいつ土砂降りの雷雨が来るか分からない空を見上げながら、ルサカはマギーとライアネル、どちらの帰路も心配をしていた。
ライアネルの屋敷に引き取られて一年ちょっとだが、ひとりで留守番するのは初めてだ。
大抵はマギーがいてくれた。
ルサカは雨が降り出す前に、屋敷中の窓の点検をして歩く。
雨が吹き込んだら大変だ。全部の窓が閉まっている事を確認して、それから、再び居間に戻ってくる。
そろそろマギーは家に着いた頃だろうけれど、ライアネルがまだだ。
振り出す前に帰ってこれるか、ルサカは心配で仕方なかった。
門が見える居間の窓辺の長椅子に座って、本を開く。
その本は数日前にライアネルがお土産に買ってきてくれた植物の本だった。ルサカはこれがお気に入りで、ずっと読み耽っていたが、今はそれどころではなかった。
ライアネルが心配で、ちっとも本の内容なんか頭に入らなかった。
遠くで鳴っていた雷は、次第に近付いてきている。
居間の目の前のフロントポーチの石畳に、ぽつぽつと雨粒が落ち、小さなしみを作り始めると、ルサカは窓に飛びついて門の向こう、白樺の並木に目を凝らす。
ポーチにぽつぽつとしみを作っていた雨はすぐに勢いを増し、土砂降りの雨と共に雷の轟音が鳴り響いた。
地響きがするような雷鳴に、ルサカは竦みあがった。
読んでいた本を長椅子に投げ出して、逃げるように自分の部屋に駆け込み、ベッドに飛び込む。
落雷するのではないか、というくらいの激しい雷雨に、ルサカは心底震え上がっていた。
誰もいないこの屋敷に、いやにその雷鳴と振動が響く。
恐らくは家路の途中であろうライアネルが無事か、とても心配になる。こんな雷雨では、馬もきっと怯えている。
ライアネルが事故に巻き込まれないか、心配で仕方なかったし、そしてこの雷鳴と地鳴りのような振動も怖かった。
毛布を頭まですっぽりかぶって、ルサカはもう泣き出しそうだった。
ライアネル様、無事に帰ってきて下さい。早く帰ってきて下さい。
硬く目を瞑って震えながら、ルサカは必死に祈り続ける。
とても怖い夢を見た。
これは夢だ、とルサカも分かっていた。それなのに、夢の中のルサカはとても悲しくて、怖くて、途方に暮れていた。
ルサカの父親は、街の仕立屋で働いていた。
母はその仕立屋から刺繍仕事を貰って、ルサカに勉強を教えたり、家事をしながら、仕事をこなしていた。
夕方になると、母はルサカの手を引いて、市場を通り抜けながら、仕上がった刺繍仕事を納品するついでに、商店街の仕立屋まで父親を迎えに行く。
そして親子三人で、夕暮れの石畳を歩いて帰ってくるのが日課だった。
何の変哲もなく、幸せな日々だった。平凡で、満ち足りて、家族仲良く幸せに暮らしていた。
それがある日、あっさりと消え失せてしまうなんて、ルサカは夢にも思っていなかった。
文字通りの悪夢だった。
父親は既に荼毘に付されていた。その父親の看病をしていた母が倒れ、母は夫の臨終にも立ち会えないほど、重篤な症状に陥っていた。
すぐにルサカは町医者の元へ走ったが、既に医者も病に冒され、道端にも倒れ込む人々が溢れていた。
夢の中のルサカは、あの日の現実のルサカと全く同じ行動を取る。
ルサカは医者を、街の役人を、騎士団の人たちを探す。
探しても探しても、街の中には病に冒された人々で溢れ、母は高い熱に苦しみ続けた。
誰か、助けて。お母さんを助けて。
これは夢だと分かっていた。
それでも、夢の中の幼いルサカは叫び続ける。
ルサカは泣きながら目が覚めた。
目覚めた時には、もうあの激しい雷雨は通り過ぎたようで、屋敷はしんと静まり返っていた。
途端に、現実に引き戻される。ルサカは慌ててベッドから跳ね起き、部屋を飛び出す。
ライアネルが帰ってこれたのか、不安で仕方なかった。
慌ててライアネルを探そうと廊下の角を曲がると、厨房の扉から明かりが漏れている事に気付く。
大急ぎで厨房に飛び込むと、ちょうどライアネルが、マギーが用意しておいた夕食を食べ終えて片付けているところだった。
「ルサカ、起きたのか。……夕飯も食べずに寝てただろう、腹が減ってないか?」
振り返って、ライアネルは驚く。
どう見ても、ルサカは泣いている。
泣きながらライアネルに歩み寄り、その袖口を掴んで、しゃくり上げるのを押さえようとしていた。
「どうした、怖い夢でも見たのか?」
ライアネルの大きな手が、ルサカのココア色の髪をくしゃっと撫でる。
その優しい仕草に、ルサカは余計に胸が苦しくなった。なおの事、涙が止まらない。
「……ひどい雷に土砂降りだったしなあ。帰ってくるのが遅くなってすまなかったな。ひとりで怖くなかったか?」
耐え切れずに、ルサカは泣きながらライアネルにしがみつく。
ライアネルに引き取られてから、こんな風にしがみついたのは初めてだった。
気恥ずかしさもあった。
それ以上に、引き取って育ててもらっているのに、そこまで甘えるのは図々しくはないか、という遠慮もあった。
けれど今日は我慢出来なかった。
ライアネルが無事か心配でたまらなかった事、両親の夢、ひとりで過ごした雷雨の夕暮れ、幼いルサカにとって、どれもが耐え難いほどに不安な事だった。
「すまなかったな、騎士団の仕事がなかなか終わらなくて」
ライアネルはルサカが予想もしていない行動に出た。
ルサカを軽々と片手で抱き上げ、空いた手で涙を拭う。
こんな風に抱き上げられるなんて、初めてだった。思いも寄らなかったルサカは、思わず泣くのも忘れる。
ライアネルの、あの穏やかな緑の瞳が目の前にあった。
「これからもこんな寂しい思いをさせてしまうかもしれないな。……本当にすまない。至らない親代わりかもしれないが、俺も努力をするから」
「……ライアネル様はちっとも悪くないです。ぼくはライアネル様と一緒にいられて、とても嬉しいんです。……ただ、雷と雨がすごかったから……ライアネル様が無事に帰ってこられるか、ちょっと心配だっただけです……」
ルサカが気恥ずかしさに口ごもりながらも、一生懸命訴える。
ライアネルもその言葉を聴いて、笑みを浮かべる。
「俺も帰って来たらルサカがどこにもいないから、慌てたぞ。……部屋をのぞいたら、よく寝てたから起こさなかったんだが、ちょっと待って一緒に夕飯を食べればよかったなあ」
ルサカをぎゅっと抱きしめて軽く背中をあやすようにたたき、それから厨房の椅子にルサカを降ろす。
「夕飯は食べられそうか? ……俺も晩酌しながら付き合おう。春にマギーが作ったラムのチェリー酒がまだあったはずだ」
ルサカに温め直したスープを出してやると、ライアネルは戸棚を漁って紫がかった赤色のチェリー酒の瓶を取り出す。
瓶の中には、ラム漬けになったたくさんのさくらんぼが沈んでいて、それがとても綺麗だった。
「このラム漬けのチェリーで作った焼き菓子がうまいんだ。……ルサカに食べさせてやりたいな。明日、マギーが来たら作ってもらおう」
グラスにチェリー酒を注ぐと、ルサカの隣に座る。
「俺はルサカがうちに来てくれて、本当に楽しいんだよ。今まではこうして遅くに仕事を終えて帰ってくると、ひとりだったからなあ。……ルサカがいてくれて、本当に良かった。誰かが待っててくれるっていうのは、こんなに嬉しい事なんだな」
チェリー酒のグラスを傾けながら、そう、ライアネルは語る。
それは本当に心の底から、そう思ってくれているんだ、とルサカにも伝わった。
やっと涙が収まったのに、また泣きたくなるじゃないか、とルサカは思う。
「……ぼく、待ってます。だからライアネル様も、怪我したりしないで、ちゃんと帰ってきて下さい。……約束して下さい」
ライアネルはそれを聞いて、笑顔で頷いている。
「そうだな、出来るだけ怪我しないよう気をつけよう。……ルサカも早く大人になって、一緒に酒を飲もうな。俺は大人になったルサカと酒を飲むのが夢なんだよ。……楽しみにしてるからな」
そんな気の早い話をしている。
あと十年くらいかかるのに。そう思いながら、ルサカもニコニコしながらそのライアネルの夢を聞いている。
十年なんて、きっとあっという間だ。
まだ一年ちょっとを過ごしただけなのに、もうずっとライアネルと暮らしているような気がしていた。
父のように兄のように、ライアネルはいつでもこうして、ルサカを気にかけ、大切にしてくれている。
大人になったら、ライアネル様と離れ離れになってしまうのかな。
そう考えると、ルサカはなんだか少し悲しくなってくる。
ずっとライアネル様と一緒にいられたらいいのに、そう思わずにはいられなかったが、ライアネルのささやかな夢も叶えたかった。
「じゃあ、その頃にはきっと、ぼくもマギーさんみたいに、おいしいお酒作れるようになっておきます。……ぼくが作ったお酒を、ライアネル様と一緒に飲む日を楽しみにしてます」
それはきっと、そんなに遠い約束でも、難しい約束でもない。