小雪の中帰って来たクアスは居間の暖炉の前で暖まりながら、いつもの帰宅後のお茶を飲みつつユーニの話を黙って聞いていた。聞き終わり、お茶を飲み干してから口を開く。
「ちょっと魔法が使えてちょっと力が強くてちょっと身体が大きくて空を飛べるだけの、単なる動物だ」
それに人の姿にもなれる。それだけでも普通の動物とは一線を画しているとユーニは思ったがクアスのカップにお茶を注ぎながら、大人しく話の続きを待つ。
「病気を治したり死人を蘇らせたり、ただの動物にそんな事できるはずがない。だから僕だけでなく竜に期待するな。万能じゃない。できない事の方が多いくらいだ。大きいカラスくらいに思っておけばいいよ」
それは絶対違うと思うが、『万能ではない』は少し分かる気がする。クアスはとても強くて美しい竜だけれど、人間とそう変わらないようにユーニには思えていた。
父親の作ったパンケーキが好きで、甘いお菓子でお茶を楽しむのが好きで、過保護な母親とケンカもして、そして人間のように、失恋もする。
「だからそのララとかいう女の頼みも、断るも何も、僕にどうする事もできないからな。なるようにしかならないんじゃないか。……ユーニ、もっとそのケーキ切って」
竜に捧げられるような財宝が村にはない、という以前の問題だった。クアスに催促されて、ユーニは急いでケーキを切る。
このケーキはメレディアが持ってきたものだ。クアスの父親が作った、ドライフルーツとナッツとバターがたっぷりのケーキ。お酒の効いたお菓子で、ユーニは匂いだけでクラクラしそうな気がするが、クアスだけでなくクーもこれが大好きなようで、皿から零れ落ちるケーキ屑やクアスが摘まんでくれる欠片をせっせとつついていた。
「……だいたい、なんでユーニはそんな頼みを聞いてやろうと思ったんだよ」
二つ目のケーキを食べながら、クアスは少々苛立っているように見えた。クアスの苛立ちの理由が分からないユーニは少々戸惑っていた。
「あの村でどんな目に遭っていたか考えたら、助けたいなんて思わないだろ。ろくに食べさせもせずにこき使って、挙げ句に生贄として差し出して竜に食わせようとした。だから逃げ出したんだろ。因果応報だよ。悪い事したら返ってくるものだ」
「で、でも、小さい子達は悪くないです。……子供達には大人がした事なんて関係ないし、それに、皆生活が苦しかったから。……少しでも多く自分の家族に食べさせたいって思うのは、仕方ない事だと思います……。……それに今は、こうしてクアス様のお屋敷でたくさん食べさせて貰って、働かせてもらって、幸せに暮らせてます……」
確かに村で過ごした日々は幸せではなかった。けれど、それでも身寄りのないユーニを苦しい生活の中で育ててくれたという感謝の気持ちはあった。
あの貧しい暮らしの中で綺麗事なんて言えない。もしも豊かな村であったなら、もっと違った暮らしをさせてくれたのではないかと思えていた。そう信じたかった。
暫くの沈黙があった。久し振りに、この屋敷に来たばかりの頃、ユーニが何か言う度にクアスが見せた何とも言い難いあの不思議な表情を、見る事になった。
暫く黙り込んだ後、クアスはケーキを食べかけのまま、椅子から立ち上がる。
「バカじゃないか。あいつらはどう考えても、ユーニをひとりの人間として扱ってない。家畜か何かと一緒だ。名前すら与えずにただこき使うだけだった。なんでそんな奴らの為に、ユーニが必死に頼み込まなきゃならないんだよ。おかしいだろ」
まるで怒鳴るような、荒々しい口調だった。クアスがとても腹を立てているのは、ユーニもよく分かった。
「……で、でも、だからって死んじゃえばいいなんて思えないです。苦しめばいいなんて、思わないです……」
クアスの怒りに動揺せずにいられなかった。それだけ言うのが精一杯だ。
「そんなに痩せこけて身体中爛れて、ろくに手当もされずにこき使われて、いつ死んでもおかしくないくらい、弱った状態だったんだぞ! 人間は平気で弱いものを傷付けて搾取する! 僕はそういう醜くて汚い生き物が大嫌いだ!」
こんなクアスを見た事がなかった。いつも落ち着いていて、時々メレディアにうっとうしそうに文句を言うくらいで、こんなに荒々しく怒鳴るなんて初めてだ。
ケーキ屑を幸せそうにつついていたクーも、この険悪な空気にユーニと同じように動揺しているようだった。テーブルの上からユーニとクアスの顔を見上げ、悲しそうに小さな細い鳴き声を洩らしていた。
「僕にそんな力があったとしても、絶対に助けない。そんな奴ら、苦しんで死ねばいい」
クアスは優しい。ユーニが村でどんな扱いをうけ、つらく厳しい暮らしをしていたか知っているから憤っている。優しいからこそ、村の人々を許せないのだ。
「……なんで助けたいと思うんだ。……あんな奴ら、見捨てればいいのに」
それだけ言い残して、クアスは居間を出て行った。
ひとり取り残され、耐えきれずにユーニは泣き出す。
いい子でいたいわけじゃない。自分がされた事を忘れたわけでもない。
それでも、苦しみ抜いて死ねばいいなんて思えなかった。小さな子供達が今も苦しんでいると思うと、胸が潰れそうだった。優しいクアスをあんなに怒らせるつもりもなかった。
しゃくり上げながら泣き続けるユーニの肩に、小さく鳴きながらクーがよじ登る。
涙で濡れた頬に、クーの柔らかな羽毛が触れる。まるで慰めるように、宥めるように、クーは小さな身体を擦り寄せ、涙をくちばしで拭おうとする。
「ごめんね、大丈夫だよ。……心配させて、ごめんね……」
嗚咽を堪えながら、クーの小さな身体を片手で撫でる。
けれど今、こうして生きてここにいるのは、村人が身寄りのないユーニを養ってくれたからだ。どこの誰かも分からないユーニを、貴重な食料を分け与え育ててくれたからだ。
赤子のユーニを連れていた男は、もしかしたら罪人かもしれない。追われて大怪我を負ったのかもしれない。そんな男が連れていたどこの誰かも分からない赤子を見捨てずに、捨て置かずに、苦しい生活の中養ってくれた。それを感謝せずにいられなかった。
だから今、ここにいる。
だから今、生きて、クアスに出会えた。