竜の棲み処 君が僕の永遠(とわ)なる希望

#29 あなたに会いたかった

 翠玉の鱗を纏う風竜に変化したクアスの、鋭い爪を持つ両前脚に護られるように抱えられていたユーニが降り立ったのは、レダ王国とクラジェ君主国の国境だった。
 夕暮れの鬱蒼とした針葉樹の深い森を抜けると、石畳に覆われた街道が目の前に広がった。その街道のすぐ傍の平原に、馬車と数頭の馬、それにこれは騎士であろう。質素なクロークを纏っているが、その立ち姿は軍人そのものだ。数名の騎士が無言で佇んでいた。
 人の姿に戻り、道案内をしていたクアスはユーニの手を取り、馬車の前に立つひとりの女騎士に声をかける。
「……待たせた。この子がそうだ」
 赤毛の女騎士は、じっとユーニを見つめる。言葉をなくしたように暫く無言のまま、呆然と、ユーニを凝視していた。
「ギネヴィア殿」
 クアスにそう呼びかけられて、女騎士はやっと我に返ったようだ。慌てて口を開く。
「失礼した。……私はギネヴィアと申します」
 赤毛に灰色の目をした、歳は三十後半くらいだろうか。長身で洗練された立ち居振る舞いだ。恐らくは身分の高い騎士であろう。
「きっと詳しい話を聞く時間もなかったと思います。……ユーニ様、決して我々は怪しい者ではございません。もうあまり、時間が残されていません。お話は、馬車の中で」
 これから何が起きるのか、ユーニには想像もできなかった。手の中で小さく震えるユーニの指先に気付いたのか、クアスはしっかりとユーニの手を握りしめる。
「何があっても離れないと約束した。必ず護るから、信じて欲しい」
 ユーニはクアスを見つめ、黙って頷く。
 この手よりも信じられるものなんて、何もない。クアスが全てなのだと、強く思う。



「……我々はクラジェ君主国の女王に仕える女王騎士です。私は筆頭騎士のひとりで、女王に最も近い騎士でもあります」
 宵闇の街道をひたすら走り続ける馬車に揺られながら、クアスとユーニに向かい合って座る女騎士ギネヴィアはゆっくりと口を開く。
 ずっと以前に、メレディアが教えてくれた事をユーニは思い出していた。大抵の国の王が男性だが、クラジェ君主国は代々女性が王位に就く珍しい国だと言っていた。
 馬車はもう小一時間走り続けている。どこまで行くのかは分からないが、とても急いでいるようだった。そして、あの場にいた他の騎士達は護衛なのか、ずっと馬車を囲んで走り続けている。
「現国王のジェラルダイン女王が即位なさる前、王女時代から仕えております。ジェラルダイン女王はわずか十六歳にして即位なさり、以来クラジェの平和と繁栄の為にその身を捧げておられます。……それこそ、ご自分の幸せをも犠牲になさりながら」
 クラジェの女王は、一生を国家に捧げる。女王は国の妻であり母であり、国家は女王の夫である。生涯配偶者を持たず、子も残さない。女王の後継者は、女王の姉妹、もしくは姪から選ばれる。
 文字通り、女王はクラジェに全てを捧げる。故に処女王とも呼ばれる。
 ギネヴィアの説明を聞いても、どこか知らない世界の話のようで、ユーニには遠く感じられる。けれどこのクラジェ君主国と女王、女王騎士が、ユーニの過去に大きく関わっているのだ。
「どこからお話したらいいのか。……今日、ユーニ様をお連れするのは、女王の離宮です。王都から少し離れた街にあります」
「……ぼくは女王様に関わりがある生まれだと言う事ですか」
 それだけ尋ねるのがやっとだった。ギネヴィアは慎重に頷く。
「今日お目に掛かるまで、私は半信半疑でした。……ユーニ様はお父上に生き写しですよ。その黒髪も、鳶色の瞳も、穏やかな面差しも。……ユーニ様のお父上は、無冠ではありましたがとても誠実で優秀な学者でした。……女王はお父上を大変に信頼なさって、心の支えにしていらっしゃいました」
 あの大雪の朝に、小さな赤子を抱いて大怪我を負いながらあの村まで辿り着いたのが誰だったのか。全てが繋がった。
 処女王と、無冠の学者。その間に生まれた子が誰なのか、聞くまでもない。
「……どうか、ご両親を責めないで下さい。もしも前女王が暗殺されなければ、ジェラルダイン様は女王に即位する事はなかったのです。……策略と陰謀が渦巻く世界で、十六歳の少女がたったひとりで戦い続けるのが、どれほど辛く厳しく、心細く、恐ろしい事か……。お父上はそのジェラルダイン様に寄り添い勇気づけ、支え続けていたのです」



 馬車が女王の離宮に着いたのは、夜更け過ぎになっていた。女王騎士達が全てを秘密裏に行動したいのは、ユーニも察していた。もしもこれが真実なら、処女王に隠し子がいる事になる。政敵には絶対に知られてはならない事だ。
 湖のほとりにある女王の離宮は、極めて質素だ。王族の為の静養地であるとギネヴィアは言っていたが、華やかさからあまりにかけ離れた、うら寂しい佇まいだった。大国の女王の離宮とは思えないくらいに古く、静かな屋敷だった。
「……幼かったあなたを護る方法は、これしかありませんでした」
 ランプを掲げて廊下を歩くギネヴィアとクアスの後を歩きながら、ユーニは何を言えばいいのか、混乱していた。何もかもが突然で予想だにしなかった事で、考えが追いつかなかった。
「政情不安定なこの国を護る為に、ジェラルダイン様は女王であり続けなければなりませんでした。……女王の失脚を狙う者からも、女王を護る者からも、あなたをは命を狙われていました。……あなたとお父上の為に国を捨てなかったと言われたら、返す言葉もありません。……ジェラルダイン様は、国民を守る為に王であり続ける道を選びました」
 冷静に見えていたギネヴィアの声が、震えているようにユーニには感じられていた。泣き出しそうなのを堪えているように思えるのは、気のせいではないはずだ。
「お父上は、あなたを護る為に女王の元を去りました。……追っ手を振り切って、どういう最後だったかは……ユーニ様もご存知の事ですね」
 重々しい樫の扉の前で、ギネヴィアは立ち止まる。
「ユーニ様。……あまりに突然の事で、きっと何の心の準備も出来ていらっしゃらないでしょう。……我々も、もっと早くにあなたを見つけ出したかった。……もうジェラルダイン様には、残された時間がありません。……どうか最後に、ジェラルダイン様に会って差し上げて下さい」
 その樫の扉を開き、中に案内される。質素な調度品と、今は火の気のない暖炉。ギネヴィアとクアスはここで待つようだ。その奥にある扉へと、ユーニは促される。
 寄り添うクアスを迷うようにユーニが見上げると、クアスはいつものように、穏やかな笑みを見せた。
「……行っておいで。後悔しない為にも、自分自身の為にも。僕はここにいるから」



 部屋の窓は開け放たれていた。穏やかな月明かりが、女王の寝所とは思えないくらい簡素な部屋を照らしている。
 ヘッドボードにピローを重ねもたれるように横たわる人影は、乳白色の月光に照らされ、仄白く浮かび上がる。戸惑い立ち竦んだままのユーニに、白い人影は声をかけた。
「ごめんなさい。だいぶ悪いみたいで、もう起き上がれないのよ。……こちらに来て頂いても、よろしいかしら」
 ひどく弱った、細い声だった。呼ばれるままに、ユーニは寝台へ歩み寄る。
 大きな寝台の大きなピローに埋まるように横たわる女性は、病み衰え、やつれていたけれど、きっと健康だった頃はとても美しい人だっただろう。クアスの蜂蜜色の髪に似た金色の髪に、とても綺麗な青い瞳を持っていた。
 一目で分かる。重い病に蝕まれているのだろう。その頬も手も、痩せ細り、蒼白だった。
「ギネヴィアに聞いたかしら。……私、あなたにとても会いたかったの。私が誰か、名乗ってもよろしくて?」
 その細い声は、とても優しく穏やかに、ユーニの耳に響いた。その声を初めて聞いたはずなのに、とても懐かしく恋しく、切なく感じられる。何故、こんなにも胸を締め付けられるのか、分からない。その声を聞いているだけで、胸を焦がすような切なさに、泣き出したくなった。この声を、ユーニは知っている。覚えている。
「ジェラルダインというの。それから……雪の日にあなたを抱いて、あの村へ行った若い男性は、エリアスというの。……エリアスはあなたのお父様よ。まだ若かったけれど、とても優秀な学者だった。とても優しくて、あなたが生まれた時、泣いて笑って喜んでくれたのよ」
 大国クラジェの女王とは思えないくらい、頼りなげな、弱々しい微笑みだった。きっと年齢は、ギネヴィアより少し若いくらいだ。
「……手に触れてもよろしくて?」
 ユーニは頷いて歩み寄り、ジェラルダインの手を取る。病み衰えた手はとても冷えていて、ユーニは思わず両手で暖めるように包み込む。
「エリアスにそっくりね。エリアスもそんな黒檀みたいな髪をしていたわ。……この優しい手も、エリアスによく似ている」
 ユーニの優しい手の温もりに、ジェラルダインは目を細める。
「……名前を教えて下さる?」
「ユーニです。……遠い国の言葉で、『夜明け』という意味だそうです」
 ジェラルダインは目を伏せ、ユーニ、と小さく呟く。
「とても素敵な名前ね。……ユーニ、今、幸せに暮らせていて?」
 ユーニはゆっくりと頷く。
「はい。……とても幸せです。辛い事や悲しい事は、誰にでもある事だと思うけれど……今はとても幸せに暮らせています」
 ジェラルダインは再び目を開いてユーニを見上げ、嬉しそうに頷く。
「よかった。……それだけが気がかりだったの。あなたが幸せなら、私はもう、何も思い残す事はないわ……」
 母親だと、名乗ろうとしなかった。ギネヴィアが言っていたように、『夫と子供の為に国を捨てられなかった』からなのか。ユーニは恐る恐る、口を開く。
「……ジェラルダイン様はぼくのお母さんだと、ギネヴィア様から聞きました」
 ジェラルダインは微かに頷く。
「ええ、十五年前にあなたを産んだのは私。……でも、私は女王である事を捨てられなかった。あなたとエリアスの為に、国を捨てる事ができなかった。……だから母親だと名乗る資格がないのよ」
 そうは思えなかった。国の為に生きる道を選ぶのが悪い事だなんて、思えなかった。
 ユーニに女王の宿命の重さなんて、分からない。それでも、たった十六歳で即位し、国と共に生きていこうと決意した女王を責めようとは思えなかった。自分の幸せよりも国を護り続ける事を選んだ、それを誰が責められるだろう。
「ただ、あなたに会いたかった。……ごめんなさい、あなたに会いたかったのよ。この十五年ずっと、エリアスとあなたに一目会う事だけが、私の願いだった……」
 どんな人が母親なのか、父親なのか、ユーニは何度も想像し、いつか会える日が来るかもしれないと、ずっと夢見ていた。
 弱々しいジェラルダインの手を握りしめながら、ユーニは祈る。
 もう少し、時間を下さい。もしも会えたなら、話したい事はたくさんあったのに。


2017/12/26 up

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