竜の棲み処 焔の魔女の森

#06 きっと、愛し続ける

『運命の女を探してるんだよ。命を捧げてもいいくらいの女を』
 そう言った時、カインは笑っていたけれど、それはアベルの真意に微塵も気付いていないからだ。
 その探している運命の女は、カインに相応しい女だという意味だとは、夢にも思っていないだろう。
 アベルは魔法騎士団宿舎の詰め所の、日当たりのいい窓辺で魔術書を読んでいるが、読んでいるふりのようなものだ。一行も頭には入っていない。
 ランアークの魔法騎士の妻になりたい女なんて、掃いて捨てるほどいる。
 ランドール王国での魔法騎士の地位は高い。身分も収入も、女達にとっては有り余るほど魅力がある。
 そしてその魔法騎士の血を色濃く受け継いだ魔力の高い子を産めば、国からも国民からも、英雄並みの扱いを受ける。
 そんなものに目が眩んだ馬鹿な女がカインに言い寄る事だけは許せない。
 そういう馬鹿な女は、魔法騎士を捕まえられれば誰だっていい、そんな穢らわしい女ばかりだ。
 アベルはカインに近付く女を、冷静に値踏みしていた。
 値踏みし、見極め、そして、甘い言葉をかけて誘い、惑わす。
 アベルに言い寄られて掌を返すような女なんか、カインに近付けるのも穢らわしい。
 試し、ふるいにかけ、追い払う。
 カインは気付きもしない。カインに近付く女をそうやってアベルが奪い、追い払っているなんて、考えもしないだろう。
 カインにとって、アベルはいつまでも、明るく陽気な、可愛い弟だ。
 それでいい。
 アベルは爪を噛みながら、魔術書のページを捲る。
 今までずっとそうだった。これからも、そのつもりだった。
 なのにあの赤毛の魔女のせいで、何かが狂い始めている。
「カインはどうした?」
 不意に声を掛けられ、座ったまま振り仰ぐ。
 声を掛けたのは、魔法騎士団の団長だった。いつものように、休憩がてらに世間話をしに来たのだろう。
「カインは今日は休日なので、出掛けています」
 またカインはルズの蒼い森に行っているに違いない。それはアベルもよく分かっている。
「おや。今までずっとお前にかかりきりだったカインが、ここ暫くは別行動だな。……やっと子離れしたか」
 ずっとこの兄弟を見守っていた団長にしてみれば、カインがようやく弟から離れて、自分の時間を持つようになったのは喜ばしい事なのかもしれない。カインは少々、アベルに過保護すぎた。
 いつも団長に付き従う秘書官は、お茶の用意をしていたようだ。
 茶器と茶菓子を載せた盆を持ってアベルと団長のテーブルまで歩み寄り、茶の準備を始める。
「これから暫くは忙しくなりそうだ。今のうちにアベルも羽を伸ばしておくといい」
「何かきな臭い話でも?」
 アベルは読み止しの本を閉じ、団長に向き直る。
「ああ……。ランドール王の悪い病気だ」
 予測されていた事だが、事態は悪い方に動き始めているのか。アベルはそっとこめかみを押さえる。
「例のルズの蒼い森の妖しい薬屋を連れて来いと仰せだ。……名目上は王の為に、薬を作らせるという事になっているが、まあ、いつもの通りの、悪い病気だ」
 どうせ無理難題の薬作りを命じて、出来なければ……という下衆な思惑があるのは見え透いている。
 本当にこれさえなければ名君なのに、とアベルもため息をつく。
「そういうわけで、来週からルズの蒼い森で、妖しい薬屋を捜索する事になった。……気の進まない仕事だが、名目上は王の健康のために薬を作らせるという立派な大義名分があるからな。いやな仕事だが、仕方がない」
 壮年のこの団長は、こんな下らない手伝いを散々やらされてきている。うんざりだ、という顔で、秘書官の淹れた茶に手を伸ばす。
「我が魔法騎士団もそのうちかり出されるだろう。妖しい薬屋の娘は魔女だという噂があるからな。魔法を使われたら、魔力のかけらもない騎士団では見つけ出せまい。……こんな事に主力の魔法騎士団が駆り出されるのも恥ずかしい話だが、仕方がない。……お年を召されて、悪い癖も収まったと思っていたが、甘かった」
 ますます気が滅入る話だ。こうなったらもう、エルーを国外に逃がすしか方法はない。
 そうなったら、カインはどうするだろう。
 カインは馬鹿が付くほど生真面目だ。愛した女のために、国を裏切れるだろうか。
 秘書官が勧めるお茶のカップを見つめながら、アベルは静かに考える。
 カインは、何もかも捨てて、あの魔女を選んでこの国を出て行くかもしれない。
 あの魔女のために、国を捨て、アベルを捨て、魔法騎士の名誉も捨てて、出て行くかもしれない。
 不思議と、焦りも絶望も感じなかった。
 カインがアベルよりもエルーを選ぶだろう事を、とっくに感じ取っていたからかもしれない。
 生真面目で不器用な兄が、国を裏切り女を選ぶような大それた事が出来るのか、それが出来るなら、エルーこそがアベルの探していた『命を賭けられる運命の女』なのかもしれない。
 ただ、漠然と不安はあった。
 あの魔女は本当に、カインを愛し慈しみ、添い遂げる覚悟はあるのか。
 カインを想いながら囁く、あのエルーの甘くとろけそうな微笑みを思い返す。
 美しかった。
 魂を奪われるほどに、綺麗だった。
 言葉にし尽くせないほど、美しく、儚げで、可憐で、そして、禍々しさを隠しきれないあの魔女は、何かを隠し、何かを企んでいる。
 それはアベルに伝わっていた。
 エルーが何を思い、何を考えて、このルズの蒼い森に留まっているのか。
 そして、思う。
 本当に、カインを奪われても後悔はないのか。
 カインがエルーのものになる事に、エルーがカインのものになる事に、本当に、後悔はないのか。
 答えなんか出せなかった。



「……綺麗! こんな素敵なレース、見た事がない。綺麗……。まるで、樹氷みたい……」
 ルズの蒼い森の仄暗い店の中で、カインが異国のショールを広げると、エルーは子供のように歓声をあげた。
「こんな綺麗なもの……本当に私に? ……嬉しい。ありがとう、カイン」
 銀糸を織り込んだそのレースのショールをエルーの巻き毛の上から肩に羽織らせる。エルーは少し恥ずかしそうに微笑みながら、カインのその手を見守る。
「ねえ、似合う? ……おかしくない?」
 両手でショールを抱いて、エルーはくるくると回ってみせる。赤褐色の長い巻き毛とショールはふわりと翻り、エルーを焔の妖精のように見せていた。
「似合うよ。……とても綺麗だ」
 きっと今までのカインなら、こんな言葉を言えなかった。いや、言おうとすら思わなかったかもしれない。
 今までどんな女にも心を動かされなかったのに、エルーだけは違った。
「すごいなあ……。街にはこんな素敵なものがたくさんあるんだ。……いいなあ、行ってみたいな……」
 踊るような足取りで、エルーは店の隅の姿見に歩み寄る。そしてショールを羽織った自分を見つめ、無邪気に微笑む。
「……俺が一緒に行こう。不安なら、一緒に街を巡ればいい」
 不器用なカインにとって、これが精一杯の誘い文句だ。これ以上気の利いたことを言えるようなら苦労はない。エルーは肩越しにカインを振り返り、目を細める。
「だめだよ。……街に行ったら、私の本当の姿が見える人がいるかもしれない」
 そのエルーの言葉にふと、カインは思い出す。
 いつか、鏡越しに見たエルーの瞳が、異形の瞳に見えた事があった。猫や蜥蜴のような、細い瞳孔。あれは見間違いだったはずだ。
 エルーは再び、姿見に顔を向ける。
「カイン……。私が本当は、醜い化け物だったら、どうする? ……嫌いになる?」
 何気ない声音に聞こえた。いつものように、無邪気につまらない冗談を言っているのだと、カインは思っていた。
 姿見に映る、エルーの、迷子の子供のような悲しげな瞳を見るまでは、そう、思っていた。
「気味の悪い鱗に覆われた、大蜥蜴だったら、私を嫌いになる? ……醜い化け物だったら、きっと、魔法騎士は退治しなきゃならなくなるよ。……人は、異形の生き物を嫌うもの」
 何故、そんな泣きそうな声なのか。
 いつでも明るく陽気で、子供のように無邪気なエルーが、今、何故そんな泣きそうな声なのか。
「エルー……!」
 耐えられなかった。その震える細い肩を抱いて、引き寄せる。
 これは焔の魔女の罠なのかもしれない。
 逃れられないように、魂を奪い取ろうとする、罠なのかもしれない。
 それでも良かった。
 エルーが例え化け物でも、醜い鱗に覆われた大蜥蜴であっても、きっと、エルーを愛し続ける。
 抱き寄せたエルーは、カインの腕の中で震えながら、見上げてくる。
 その濃い紅色の睫に縁取られた、不思議なすみれ色の瞳が静かに、瞬く。
「ねえ。カイン。……私が化け物でも、好きでいてくれる? ……私、あなたが好きだわ。……大好きだわ」
 エルーの美しさだけを愛したわけではない。カインは改めて気付く。
 この、百年生きた魔女のような娘が時折見せる無邪気さが、愛おしかった。
 彼女が禍々しく醜い生き物だったとしても、この、童女のように無邪気で素直な気持ちのままでいてくれるなら、それはカインにとっての、エルーだ。
 この美しさだけがエルーではなかった。
 時折見せるこのあどけなさこそが、カインが愛したエルーそのものだ。
 もしかしたら、何もかも罠なのかもしれない。
 焔の魔女が、カインの魂を手に入れる為に張り巡らせた罠なのかもしれない。
 それでも、良かった。
 見上げるすみれ色の瞳を見つめながら、エルーの唇に指先で触れ、辿る。
 例えエルーが醜い化け物だったとしても。人の魂を食らう魔女だったとしても。この、子供のように無邪気な化け物に、身も心も食い尽くされてもいいと思えた。
 紅色の睫が、静かに伏せられる。
 触れたいと願っていたその柔らかな唇に、初めて、触れた。
 小さな吐息が聞こえる。
 触れただけで離れた唇に、エルーが小さく甘い吐息を漏らす。
 再びそのすみれ色の瞳を開き、カインを真っ直ぐに見上げ、微笑む。
 きっと、この女の為に、身を滅ぼす。
 それはきっと遠くない先行きに、そんな未来がある。
 カインは再びエルーに唇を寄せ、目を閉じる。
 誰を不幸にしても、エルーが欲しかった。
 この、童女の目をした化け物が、何よりも愛しかった。




2016/10/31 up

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