王子様とぼく

#18 真実

「やはりラーン国境は陽動か。……くそが」
ルーヴは苛々と吐き捨てる。
 ルーヴは北の大国ラーンとの国境そばの駐屯地に足止めを食らっていた。
 ラーンの国境に駐留しているラーン王国軍に不審な動きがあり、ここに待機せざるを得なかったのだ。
「……申し訳ございません。賊は討ち洩らしました」
 アレクシスはルーヴの目の前に片膝をつく。
「……もういい。被害の状況は」
「レトナ兄弟につけていた監視二名、シアン兄弟につけていた監視二名、合計四名の死体がルシル郊外で発見されました。……拉致されたレトナ家の三兄弟を追って、エヴァン湿原で接触、戦闘になりましたが、こちらに死者はありませんでした。負傷者は若干名です」
 淀みなく報告を続けるアレクシスの目の前に、サイドテーブルの上にあった花瓶が叩き付けられる。割れた破片は、勢いよく四散した。
「続けろ」
「……はい。リュカルド・レトナ、ニノン・レトナを救出後、ジャコー・ジェイラスとノーマ・バートラムがルトラース家の王子と接触、戦闘になりましたが逃げられました。この時、セニ・レトナの奪還に成功しましたが、セニ・レトナはルトラース家の秘薬を飲まされたようです」
 飛び散った破片は、アレクシスの頬を掠め、傷付けたが、薄く血が滲んだ頬を拭いもしない。
「……ルトラース家の秘薬?」
「未確認ですが、一定時間、仮死状態になる秘薬のようです。なにぶん、噂だけのもので実在するとは思いもよりませんでした。他の二人は、菓子に仕込まれていた眠り薬でしたが……後遺症や再襲撃など不測の事態に備えるために、レトナ家の三兄弟は王都に滞在させております」
 ルーヴは無言のままだった。
 暫くの沈黙があった。
「……見せしめに、ラーンの南街道付近の村か街を焼き討ちしろ。警備兵の首は街道に並べておけ」
「ルーヴ様それは」
「証拠は残すな。……どうせ奴らも報復だと悟るだろうがな」
 ここ暫くの間は落ち着いていたが、久し振りに荒れ狂っている。これだけの屈辱を受けてルーヴが黙っているはずがない。
 こうなったら従うしかない事を、アレクシスは身を持って、知っている。
「舐められたものだ。ルトラースの王子が堂々と乗り込んでくるとはな。……俺を見くびった事を、死ぬほど後悔させてやる」







 王都に連れて来られたという事は、セニも覚えている。
 この見覚えのない豪奢な部屋は、アレクシスの所有するの別邸で、静養と調査の名目で、セニは軟禁状態になっているのも、認識している。
 未だに深い眠りはセニを捕らえて離さない。
 あれから何日経ったのかすらわからない。日に数時間起きているのがやっとだ。
 別邸に通ってくる軍医が言うには、薬が抜け切るまで一週間程度、それまではこの朦朧とした状態が続くらしい。
 今はこの状態の方がいい、とセニは思っていた。
 考えなくてはいけない事、考えたくない事。
 目を開けている間はずっと責め苛まれる。
 この逆らう術もないほどの睡魔は、それを全部忘れさせてくれていた。



「結論で言えば、ノイシュ・シアンとティーオ・シアンという人物は実在しません。工作員に与える身分のようなもので、諜報用に綿密に作られた架空の人物です。偽装されていました」
 バートラムは静かに調査書を読み上げる。
 セニは大人しくベッドに横たわったまま、聞いている。
「……ノイシュと名乗っていたのは、ラーン王の甥です。王位継承権第七位の、いわば傍流の王子ですね。本名はルシヨン・ショナ・ルトラース。年齢は二十歳。ティーオと名乗っていたのは、ショナ王子の乳兄弟です。父親が遥か東方の国出身の傭兵上がりの騎士で、本名はテオドア・クラカライン。年齢は十四歳」
 全部嘘だった、と言われても、実感が沸かなかった。どこか他人事のように、静かにセニは耳を傾けるだけだった。
 考える事を全てが拒否している。
 バートラムはここまでは淡々と読み上げていたが、ここで少し躊躇を見せた。
 一瞬躊躇してから、報告書をめくる。
「……これから先は、ご両親……レトナ夫妻の話になります。多分、あなた方は何も知らされていないのではないですか」
 バートラムは何を言っているのか。
 セニの表情で察したのか、バートラムは緩く頷く。
「あなた方を救出したあの湿原……エヴァン湿原で十数年前に起きた事を、ご存知ですか」
 エヴェンジェリン姫の事? と尋ねようとした。
 言葉は声にならず、微かにうめいただけに終わったが、バートラムには伝わったようだ。
「あなた方の養母、ジェラルディン・レトナは……。本名を、ジャスティナ・ガーラントといいます。エシル王妃エヴァンジェリンの護衛騎士でした」



 エシル王は大変に嫉妬深く、まだ幼く美しいエヴァンジェリン姫に若い男が近づくのを極端に恐れていた。
 そこでエシル王国では珍しい、女性騎士が王妃の護衛騎士を拝命する事となる。
 ジャスティナ・ガーラントはエシル初の女性騎士で、エシル王の信頼も厚かった。
 姫よりも年上の彼女は、時に姉のように、時に母のように、常にエヴァンジェリン姫に寄り添い、護った。
 姫も彼女に絶大な信頼を置き、姉妹のように慕っていた。
 王子が生まれてからもそれは変わらず、あの日も、姫と王子の里帰りに同行し、エヴァン湿原のほとりのあの城で過ごしていた。
 その後は今もひっそりと囁かれている噂通りに、エシルに侵攻したノイマール軍によって、湿原に火を放たれ、ほとりの城を業火が包み、絶望したエヴァンジェリン姫と王子が塔から身を投げた。
 誰もが、エシル王国を完全に滅ぼし、エシル王家を根絶やしにしたと思っていた。
 このエシル侵攻の指揮を執ったのは、ミステル・レトナ将軍で、ベルラン王もミステルの報告を何の疑いもなく、信じていた。
 ベルラン王とミステルもまた、エヴァンジェリン姫とジャスティナ・ガーラントのように、兄弟のように信頼しあっていた。
 孤独な少年王時代を支えたのは、ミステルだった。その後もミステルに心を許し、常に重用していた。
 だからこそ、許せなかった。
 ミステルが密かにジャスティナ・ガーラントを匿っていた事を。



「……ベルラン王はミステル殿の裏切りが許せなかった。けれど、ミステル殿を殺す事も出来なかったのです」
 バートラムは淡々と語り続ける。
 私情を挟まぬよう、ありのままに伝えようとしているのだと、セニにも分かっていた。
「重い火傷を負った瀕死のジャスティナ・ガーラントを捕らえたミステル殿は、それをベルラン王に報告する事が出来ませんでした。……それは恐らく、姫と王子のために最後まで戦い抜いたジャスティナ・ガーラントへの敬意だったのではないか、と私は考えております」
 真相を知りたいと思っていた。そして真相を知る事に、ためらいもあった。
 いつか軍の中枢まで上り詰めた時に、知る事が出来るかもしれないと考えていた。
 こんなかたちで知る事になるとは、思ってもみなかった。
 セニはただただ、悲しかった。
 あの優しかった両親の笑顔の影に、こんな悲しみと苦痛の歴史があった事が、ただただ、悲しかった。
 どれだけ傷つき、苦しみ、そしてそれを乗り越えて、笑顔を見せてくれていたのか。
 それを考えると胸が引き裂かれそうだった。
「匿っていた事実が王に知れ、ミステル殿は全てを失う事を引き換えに、ジャスティナ・ガーラントの命乞いをしました。……ベルラン王はそれを受け入れ、追放騎士、裏切り者の汚名を背負い、生きていく事を罰として与えました。……それは温情だった、と私は認識しております」
 セニは弱々しく両手で顔を覆った。
 涙が溢れて止まらない。ただ嗚咽を堪えるのが精一杯だった。
「ジャスティナ・ガーラントは名前を捨て、過去を捨て、ジェラルディン・レトナとして生きる道を選びました。王都を追われた二人は、それから戦地を巡り、親を失った子供たちの保護を始め……その後の人生は、あなた方ご兄弟がよく知っていますね……」
 セニは頷く。頷くのが精一杯だった。
「……ラーンがあなた方を拉致しようとした理由は不明です。ただ考えられるのは、ラーンはエヴァン湿原一帯、旧エシル王国領を欲しているようで、攻め入る大義名分を探しています。……恐らく、ジェラルディン・レトナがジャスティナ・ガーラントであると、何らかの事情で知ったのではないかと思われます」
 ふと、セニはノイシュの言っていた事を思い出す。

『セニ。……もしエヴァンジェリン姫の王子が、戦火から逃れて生きていたとしたら……って考えないか?』

「……ジャスティナ・ガーラントが王子を逃した、と思っているのかもしれません、あるいは」
 セニは顔を覆っていた両手を離して、バートラムを見上げる。
「あなた方ご兄弟の、どちらかが、エシルの最後の王子である可能性も捨て切れません」

『俺が王子なら、間違いなく、この湿原を取り戻すために戦うかな』

「エシルの正当な統治者を擁立して宣戦布告ならば、立派な大義名分になりえますね」



 夢を見ていた。
 焔の湿原を、狂ったように駆け抜ける一頭の馬がいる。
 幼子を護るように抱きかかえながら、泡を吹き暴れ狂う馬の背中にしがみついている女騎士は、泣いていた。
 舞い上がる火の粉を纏いながら、業火に背を焦がしながら、熱風に咽喉を焼かれながら、女騎士はひた走る。
 嗚咽をあげながら走り続けるその横顔は、優しかったジェラルディンの横顔だった。
 変わらずに異常な睡魔はセニの身体を蝕んで、悪夢を何度も繰り返し、見せ付ける。
 時折浅くなる眠りは、セニを痛めつけるかのように、湿原の夢を見せ続けた。
 息苦しさに低く声を漏らすと、誰かが汗ばんだ額に触れた。
 今、この唇に触れている指は、誰の指だろう。
 指先はなめらかにセニの唇を辿り、くすぐる。
 重い瞼の上に、その誰かの唇が触れる。
 この唇を、この指を、知っている。
 これも夢だろうか。
 会いたいと願っていた。だからこんな風に、何度も夢に見ていた。
 大きくて無骨な手。
 涙が溢れる。
 悲しかった。胸が引き裂かれそうなくらいに切なくて、苦しかった。
 何が悲しいのか、何か苦しいのか、もうわからないくらいに、セニは混乱していた。
「……セニ」
 その声は低く優しく囁く。
 セニは夢中で両手を伸ばす。
 しがみつき、声をあげて泣く。子供のようにただひたすらに、声をあげて泣きじゃくる。
 会いたかった。
 何が起こっても、何が真実でも、どんな事が待ち構えていても。

 この気持ちだけは、真実だった。



 ルーヴの胸にもたれながら、静かに夜明けを迎えた。
 ただ寄り添ったまま、互いに一言も喋らない。
 ルーヴはセニの柔らかな栗色の髪に頬を埋めながら、時折優しく撫で、髪やこめかみに唇を押し当てる。
 ただ静かに一夜が明けた。
 睡魔に抗えずに眠りに落ち、そしてうなされて目を覚ますセニを、ただ一晩、抱きしめ続けた。
「……セニ、夜明けだ」
 声をかけると、セニは再びまどろんでいた。
「セニ」
 抗えずに眠りに落ちようとしているセニの唇に、唇で触れる。
「…………ルー…ヴ……」
 意識は途切れ途切れだった。眠りに蝕まれたセニの、伝えたい言葉はもう声にならなかった。
「……眠れ」
 あの低く響く何よりも聞きたかった声を聞きながら、セニは静かに眠りに落ちる。


2016/01/13 up

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