その数人は滅多に現れないが、庭や部屋の手入れをする者だ。
クラーツやグレイアスはまず中庭には出ない。ジーナは時々、ポーチにティーテーブルを出してお茶の用意をする事があるが、庭の中までは歩かない。
気をつけなければならないのは、庭の手入れに時々現れる庭師だ。
リュシオンは筆洗油の残りを確認しながら考える。
ジーナは絵に詳しくないので筆洗油の減りが早くても気付かないだろうが、画材商は気付くかもしれない。気付いてもジーナや屋敷の人間に何か言うとは限らないが、気をつけなければならない。
「クラーツ様は今日から王宮に戻られるそうです。リュシオン様のお身体もずいぶんよくなりましたし、あとは必要な時に通うそうです。お薬は一週間分用意してありますが、一週間に一回か二回は来られるはずです」
クラーツが帰るなら、あの『薬』はどうやって飲まされるのか分からないが、もしかしたら毎日飲むようなものではないのかもしれない。どのみちリュシオンに分かるようには処方されていない。毎日の食事か飲み物に混ぜ込まれているだろうものは避けようがない。諦めはついていた。
ジーナに背中を向けたまま、リュシオンはポーチに座って絵を描き続ける。平静を装っているが、錆びた扉をどうにかしようと、その事で頭がいっぱいだ。
ジーナは食事の時間と、朝の掃除、午後のお茶、湯浴みの時間にやってくる。そのジーナに見つからないように、扉の錆を落としたい。その事を考えていて、気もそぞろだった。
「……そういえばジーナ。学校はいいのかい? 僕の身体も問題ないだろうし、今のところ自分で身の回りの事はできているし、やる事といえば絵を描くくらいしかないしね」
できるだけさりげなく、ジーナに話を持ちかける。ジーナは学校を楽しみにしている様子だった。水を向ければきっと学校の話をするだろう。
分かりやすく、ジーナはぱぁっと笑顔になった。この純朴な少女はいつでも素直で、正直だ。
「い、いいんですか? リュシオン様がお困りにならないなら、行きたいです。……週に三日くらいだけれど、その三日間のリュシオン様のお昼はお弁当をご用意するか、誰か他の者がお給仕してもよろしいでしょうか。ええと、お茶の時間までには帰るので、お茶はちゃんと温かいのご用意できます」
「お弁当を用意してもらえるなら、それでいいよ。誰も来ない方が絵に集中できるし、それに給仕してもらうならジーナがいい。他の人では寛げない」
普段無口なリュシオンが、ジーナの仕事ぶりを褒めているのが、とても嬉しかったようだった。
「じゃ、じゃあ、様子を見ながらで。まずは明後日学校に行ってきます。もしもそれでリュシオン様がお困りにならないようでしたら、週に何回か通わせて下さい」
ジーナは疑う事を知らない。いつかジーナに頼んだ銀筆がどんな事に使われようとしたのかも知らない。ジーナを遠ざけて何をしようとしているのか、何を企んでいるのかなどという邪推すらしない。
例えリュシオンが何かを企てても、おそらくグレイアスはジーナを罰しないだろう。そう予想できた。
言葉通りにジーナは朝食の給仕を終え、昼食のバスケットをリュシオンの部屋に置くと、意気揚々と学校へと出掛けていった。
リュシオンはポーチにしつらえたテーブルに、さも作業途中かのように紙や画材を散らかしてから、筆洗油と筆、布きれを持ち、蔦に覆われた例の錆び付いた扉へと向かう。
筆にたっぷりと筆洗油をしみこませ、赤く錆びた蝶番に塗りつける。
もう何十年も使われていなかっただろうこの鉄の扉を試しに開いてみようとしたが、びくともしなかった。石壁に埋め込まれた鉄枠もろとも硬く錆び付いて固まっている。
こうして油を塗り込んで浸透させて、錆を落とし、滑らせるしかない。
筆洗油をたっぷりと使えればいいが、そう消費が激しいと気付かれるかもしれない。できるだけ無駄にしないよう、丁寧に筆で塗り込んでいく。
こんな作業をした事がないので、これで開くかどうか分からないが、試すしかない。
作業を続けながら耳を澄ませ、扉の向こう側の様子を窺うが、時折小鳥の声と、風に揺られて軋む枝の音くらいで、人の気配はほとんど感じられない。
この二ヶ月で外の気配を感じるような事といえば、時折聞こえる馬車の音くらいか。それは壁の向こうよりもっと離れているように思われた。
そもそも、この屋敷がどこにあるのかも分からない。
おそらくは街の中ではない。あまりに静かすぎる。
大国の将軍だ。地方や郊外に広大な領地を持ち屋敷を建てていても不思議ではない。この屋敷も、そうして郊外の広い丘や平野に建てられた領主館のようなものかもしれない。
カルナスのロデリック王と会った場所が王宮かどうすら、リュシオンは分からない。王宮のように豪華に見えたが、カルナスはクレティアのような小国とは違う。離宮があの規模であってもおかしくはない。
それにあそこからこの屋敷に連れてこられる間、疲労と痛みで何度か気を失っていて、記憶もおぼろげだ。目が覚めたらこの部屋の寝台の上で、外の様子を探る事はできなかった。
油を吸い溶けた錆の匂いは、血の匂いによく似ている。
生々しい落城の夜を思い出し、胸が悪くなってくるが、それでも筆を休めず、続ける。
この扉の外が屋敷の外ではなかったとしても、屋敷のどこかに繋がっているなら、まだ活路が見いだせる。裏庭でもどこでもいい。何か武器になるものや道具が手に入るなら、決して無駄ではない。
この狭い箱庭から逃れられるなら、それだけでも救いだ。
「ジーナに学校を薦めたそうだな」
アトリーン保護領から戻ったグレイアスは、週の何日かをリュシオンの部屋で過ごすようになった。
その度にまたあの屈辱的な行為を強いられるのかとリュシオンは身構えていたが、大抵はこの部屋で酒を嗜んだだけで帰っていく。一週間に一度程度、クラーツを連れてやってきた時だけ、この男に身体を『使われ』なければならなかったが、普段は一言二言、ぽつぽつと話し酒を飲むだけで終わる。
大抵が遅い時間にやってくる。そんな時に給仕するのは、やはり時々現れる数人のうちの一人、年配の女中だ。ジーナはおそらくもう下がって眠っているのだろう。
「僕の為に勉強する機会を逃すのが正しいとは思えないから、そうしただけだ」
リュシオンは差し向かいに座って、その酒に付き合うが、飲むのはお茶だ。この男の前で酔うような、無防備な真似ができるはずがない。
そう答えると、ほんの少し、グレイアスが唇の端をあげ、笑みを見せたような気がした。この男もクラーツとは別の意味で、表情に乏しかった。何を考えているのか、本当に分からない。
「それに、絵を描くのに集中できる。ひとりの方がいい」
グレイアスは他愛のない会話の合間に、部屋の隅に立てかけられている幾つかの絵を眺めていた。クレティアの郊外で出会った時と同じように、飽きもせず見つめている。
「あれは菫の花か?」
グレイアスが指し示したのは、小さめの絵だ。まだ描きかけだか、油彩で丁寧に仕上げているものだ。
「……そうです。ジーナが欲しいと言っていたので」
銀筆で描いた菫の絵を、ジーナもまた、飽きもせず眺めていた。『綺麗で素敵なものや、可愛いものを毎日見ていられたら嬉しい』と彼女は言っていた。
ジーナの厚意を利用している罪悪感もあった。彼女がグレイアスを敬愛しているからこそのリュシオンへの献身だが、それを自分の都合のいいように利用している自覚があった。
せめてもの気持ちだった。彼女が毎日眺めていられるように、彼女の好きな菫の花を描いていた。
グレイアスの瞳は菫の絵を見つめたままだった。彼の瞳は琥珀のような金色だ。よく『狼の瞳』と例えられる、少し珍しい色味の瞳。あの野性味のある風貌と相まって、『狼』という言葉がよくあうと、リュシオンも思う。
「歳も近い。ジーナは素直で優しい娘だ。……お前も、本当ならあんな娘と恋をして家庭を持っただろうな」
予想もしない話を振られて、リュシオンは戸惑う。
ジーナにそんな感情を持った事がなかった。確かに素朴で愛らしい娘だとは思う。それ以前に、ジーナは知っている。
リュシオンを彼女が尊信する主が抱いている事を、彼女はよく知っている。ただあまりに生々しいその事実に触れずにいるだけだ。
不意にリュシオンの細い顎を、大きな手が掴んだ。ぐっと顎を引き上げられ、薄く開いた唇に、荒れた唇が押しつけられた。
唇に口付けられたのは初めてだった。今まで数度、この男に抱かれたが、指先や背中、項に唇が触れる事はあっても、唇だけはなかった。
突然すぎて、リュシオンは何が起きたのか理解できずにされるがままだった。歯列を割って荒々しく入り込んで来た舌に喉奥をくすぐられて、やっと我に返る。
「……なっ……、やめ」
唇を引き離そうとするが、それは叶わなかった。いつものように簡単に身体を押さえつけられ、椅子から引き摺り落とされ、絨毯の上に引き倒された。