騎士の贖罪

#27 贖罪

 ジーナの怪我は左腕だけではなかった。脇腹や背中も切り裂かれていて、深刻な命の心配はないものの、暫くは絶対安静の重傷だった。
 ポーチで争った男達の他に、もうひとりの男の遺体がアンネットの部屋に転がっていた。ジーナはたったひとりでアンネットを守りながら、三人もの侵入者と戦っていた。
「……まあ、ああ見えてジーナは君より年上だよ。サファ族は小柄で童顔な者が多いので、勘違いする人は多いな」
 アンネットの手当をしながら、クラーツは天蓋の絹越しに話し続ける。アンネットはジーナが必死に守り続けた為、怪我らしい怪我はなかった。かすり傷が少しあるのと、無理に動いた為に両手の捻挫や疲労と心労からの発熱があった。
 ずっとジーナは年下だと思い込んでいたリュシオンには、ちょっとした衝撃だった。しかし言われてみれば思い当たる節はあった。少女にしてはあまりにジーナはしっかりしすぎていた上に、リュシオンの部屋で行われる情事にも動じていなかった。
 一夜明けて屋敷の被害がはっきり分かったが、侵入者はサファ族を含むバジリカ人の一団で、交戦した警備兵に数名の死傷者を出し、侵入を許してしまった。彼らの狙いは聞くまでもない。バジリカを、サファを滅ぼしたレクセンテール家への復讐だろう。
「バジリカ人、特にサファ族は夜襲が得意だからね。夜目も利き、小柄で身が軽く、そして耳もいい。同じサファの人間だからこそ、ジーナは異変に気付けたんだろう。……つくづくサファは敵に回せば恐ろしい一族だ」
 いつかユリエルが言っていた『バジリカの屈強な山岳民族』というのは、サファ族の事だ。間違いない。サファの娘であるジーナのこの強さからも、納得がいく。ジーナがアンネットとリュシオンに付けられたのは普通のメイドにはない能力があるからだ。明るく真面目なだけではない。戦う能力と冷静さと判断力を持っているサファの戦士だからだ。
 診察を終えたクラーツは絹の天蓋を開け放ち、片付けを始める。
「アンネット様、怪我も熱も心配はいりません。すぐに治りますよ。……それから、ジーナも心配いりません。怪我がひどいので少しお休みしますが、すぐまたアンネット様のお傍にあがれます。ジーナが安心できるように、まずご自分のお身体を大事にして下さい」
 アンネットは寝台に横たわったまま、大人しく頷く。片手には、いつかリュシオンが描いた子犬のクルトの絵が抱かれていた。
「それでは私はジーナのところへ行きます。……リュシオン殿」
 歩み寄ったクラーツは声を潜めた。
「アンネット様はひどく衰弱している。あんな事があって、ジーナが大怪我を負い、情緒も不安定だ。私に言われるまでもないだろうが……ジーナや将軍の代わりに、傍にいてやってほしい」
 言われなくてもそうしていた。リュシオンは頷いてみせる。
 クラーツとは色々な因縁があるが、この男が決して冷血な男ではないと思っている。ジーナやアンネットには、考えられないくらいに優しく慈悲深い目を向けている。だからこそ、嫌えずにいた。
 再びジーナの様子を見に向かったクラーツを見送って、アンネットの寝台に歩み寄ると、アンネットは弱々しくリュシオンの手を掴み、引き寄せた。
「……おにいさん……。わたしのお願いを、聞いてくれる……?」
 寝台に跪き、アンネットの手を握り返すと、アンネットは弱々しく微笑む。
「いいよ。なんだろう、僕にできる事なら何でも」
 アンネットは片手で抱いていた絵をぎゅっと抱きしめ、リュシオンを見上げていた。
「わたし、きっとそんなに生きられないの。 もうすぐおかあさまのところに行かなきゃいけないの」
「アンネット、そんな事はない。そんな風に言ったらだめだ!」
 この娘は自分の死期が近い事を知っているのだ。こんな励ましが無意味だと思っても、リュシオンは認めたくなかった。アンネットが死んでしまうなんて、考えたくなかった。
 アンネットはじっとリュシオンを見つめたまま、瞬きもしない。
「おかあさまはわたしが傍にいてあげられるわ。だからさみしくなくなるわ。……でも、おとうさまがひとりぼっちになっちゃう。わたし、それが悲しくて」
 こんな小さな娘が、自分の事よりも父親を案じている。自分の死よりも、残される父親を思っているのだ。泣きそうになるのを必死で堪えながら、リュシオンはアンネットの言葉に頷き続ける。
「おとうさまは、おにいさんは友達だって言っていたの。遠い国から来たお客様で、大事な人なんだって。……だから、わたしがいなくなってしまったら、代わりに、おとうさまの傍にいてくれる……? おとうさまがさみしくないように、悲しくないように、元気づけてくれる……? 遠い国に帰らないで、ここにいてくれる……?」
 耐えきれなかった。抑えようとした嗚咽は、唇から溢れ、零れ落ちた。アンネットの手を握りしめたまま、リュシオンは寝台に顔を伏せる。
「わたしにたくさん絵を見せてくれたように、おとうさまにも、絵を見せてあげてね。……おとうさまも、おにいさんの絵が大好きなの。だから、私がいなくなっても、わたしに描いてくれたように、おとうさまに描いてあげてね……。約束よ。おにいさん、できることなら、何でもしてくれるって、言ってくれたもの」
 絵の子犬を抱いていた幼い小さな手が、伏せたリュシオンの金色の髪に触れた。小さな手は、優しく穏やかに、リュシオンの髪を撫で続ける。
「わたし、おにいさんの絵を見ると元気になれたの。だからきっと、おとうさまも、なれると思うの」
 何も言葉が浮かばなかった。アンネットの切なる願いに、どう答えたらいいのか、答えたいのか、分からなかった。ただやるせなく、悲しいだけではなかった。感情が爆発したように、身体中を吹き荒れていた。
 あどけない手に慰められながら、リュシオンは子供のように声を上げ泣き続ける。



 いつものように中庭の石壁のアーチをくぐり自分の部屋に戻ったリュシオンは、画架の前に座り、ぼんやりと描きかけの絵を眺めていた。
 記憶に眠るクレティアは、いつでも光に溢れ、豊かな水と緑に恵まれた美しい国だ。絵の中の故郷は、まるで時も距離も超えて、リュシオンを見つめているかのようにも思えた。
 それでも時間は流れ続ける。描きかけの絵と向き合ったまま、気付けば夕暮れに差し掛かっていた。黄昏始めた部屋の中で、未だリュシオンは動く事さえできなかった。
 沈みゆく夕日の落ちる中庭に背を向けたままのリュシオンの耳に、下草を踏み分ける重い足音が届いた。これが誰の足音なのか、振り返り確かめるまでもない。
 アンネットを見舞い、それからこの部屋を訪れたのだろう。
「ありがとう。アンネットとジーナを救い守ってくれた事を、とても感謝している」
 リュシオンは立ち上がり、窓辺の男を振り返る。グレイアスはポーチに佇んだまま、中へ入ろうとはしなかった。
「普段からのアンネットへの厚情も、感謝している。私の娘であってもアンネットを憎む事なく、守りさえしてくれた事に、どれだけ感謝を述べても伝えきれないと感じている」
 夕暮れの窓辺は強く西日が差し、逆光の中に立つグレイアスがどんな表情をしているのか、分からない。無意識にリュシオンは近付くように歩き出し、左足の鋭い痛みによろけ、倒れ込んだ。
 動かない足を忘れて、ジーナを守る為に駆けた。あの時は痛みも感じないくらいに張り詰めていたが、朝を迎え安堵した途端に、ひどい激痛に見舞われた。手当はなされたが、今も腫れ上がったままだった。
 それまでリュシオンに近寄ろうとしなかったグレイアスは、驚くほど素早く動き、倒れ込んだリュシオンを抱き起こした。
「不自由な足を痛めたのか」
 リュシオンが痛みに小さく呻いてグレイアスを見上げると、グレイアスははっとしたように目を背けた。目を背けたまま、リュシオンを抱き上げ、寝台へと運ぶ。
「何もしない。……信じられないだろうが、もう君を傷付けるつもりはない」
 絹のシーツの上にリュシオンを下ろし、リュシオンの腫れた左足をブーツから引き抜くと、痛む足首に響かないよう、そっと寝台に足を載せさせる。
「アンネットとジーナを守ってもらった。私にできるせめてもの償いだ。クラーツには話をつける」
 クラーツに話をつける、というのは王への報告を偽らせるという事だろうか。そんな事を考えながら、リュシオンは引こうとするグレイアスの手を、無意識に掴んだ。
 この男はアンネット亡き後に、生き続けるつもりがない。今まで築き上げた地位も、王の信頼も、何もかもいらないと、そう思っている。
 嘘偽りなく、本気で命を持って償うつもりでいる。それはリュシオンへの償いだけではなく、守れなかった妻と娘への償いでもあるのかもしれない。
 リュシオンに引き留められ、今まで目を合わせようとしなかったグレイアスが、リュシオンへ初めて視線を向けた。
 黄金に赤銅を混ぜた狼の瞳が、目の前で数度瞬く。
 決して許してはいけない。憎み続けなければいけない男だ。祖国を滅ぼし、両親を、小さな王子や王女達まで吊した、この残酷な略奪者を許してはならない。
 それなのに、何故この金色の瞳はこんなにも、胸を締め付けるのか。
 もう何も考えられなかった。
 この憎まなければならない略奪者を、抱きしめたかった。この世に引き留めたかった。
 リュシオンは両手を伸ばし、焼け爛れた頬の傷に触れ、引き寄せる。まるで犯した罪を隠すように巻かれた黒いショールを引き剥がし、晒された火傷の痕に唇を押し当てる。
 何度もこの男と身体を繋げた。何度も犯された。心も身体も踏みにじられたと思っていた。
 それなのに、この男が欲しかった。何も考えられないくらいに、気が狂いそうなくらいに、この男が欲しかった。



 今まで何度もこの身体にこの男を迎え入れた。薬のもたらす眩むような快楽も、こじ開けられる苦痛も知っている。
 今感じているのは、そのどれとも違っていた。あれほど幾度も身体を繋げていたのに、こんな事は初めてだった。
 背をしならせ咽頭を仰け反らせ、身体の奥深くまで貫く熱く硬い肉の楔に身体も声も震わせながら、リュシオンは高く甘い声を上げ続ける。
 胸を占めるのは、今までに感じた事がない感情だった。これが愛しさだというなら、あまりに切なくやるせなく、身も心も滅ぼされるような、甘美な苦痛だ。
 目の前の男を引き寄せ、荒れた唇に唇を押し当てる。ためらうような舌先を捕らえ、粘膜の擦れる淫らな音を立てて男を迎え入れている場所を押しつけるように、足を絡める。
 どんなに深く繋がっても、足りないと思えた。もっともっと奥深くまで、この男が欲しかった。
こうしている時だけは、何もかも忘れられるような気がしていた。今だけは、この男を抱きしめる事が許されるように思えていた。
 この男がクレティアを襲わなければきっと出会う事すらなく、こんな苦しさもやるせなさも、知らずにいられただろう。
 目の前に、あの惨い火傷の痕があった。グレイアスの頬から首、肩にかけて、焼け爛れ、攣れた傷跡だ。この傷は、死ぬまで消えない。
 死ぬまでグレイアスの身体にこの傷があり続けるように、今もこの男の中には深い傷跡が残り続けている。誰に目にも触れない場所で、癒える事のない傷が今も刻み込まれている。その傷も、同じように一生あり続けるというのか。
 その生々しい火傷の痕に頬を押し当てながら、リュシオンは溢れ出しそうになる涙を堪える。
 こんな気持ちを知ってしまったなら、どう生きていけばいいというのだろう。



2018/07/07 up

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