第六騎士団の副団長室は南向きに大きな窓があり、天気がいいとこうしてぽかぽか暖かい。
ライアネルも、そのぽかぽかな窓際の執務机に座ったまま思わずうとうとしかけていた。
「……何が?」
半分寝ていたようなものだが、ジルドアのおかげで目が覚めた。
ジルドアは午前中にまとめておいたであろう書類を、ライアネルの執務机に置く。
「ライアネル様のお屋敷に、赤毛のえっらいイケメンが出入りしてる、と。ライアネル様が独身なのは、もしや……という噂です」
「あー……。そうなのか。……そうか、リーンはそんなに男前なのか」
ライアネルから見たらリーンもタキアもエルーも、みんな同じような人っぽい異形の生き物だが、世間一般では彼らは美形と呼ばれる部類らしい。
異形だが、綺麗か綺麗じゃないかと言われれば、あの紅く煌めく鱗と青白い焔は綺麗なんじゃないか、とライアネルは考える。
ジルドアや他の人間には、人に見えている。だが残念ながらライアネルの目には、人っぽい竜、にしか見えていない。
マギーですら、リーンが来ると浮き足立ってご馳走を用意するくらいだ。ご婦人を熱狂させるような美貌なのだろうとは、ライアネルも思っていた。
「ライアネル様は美しい男性にめちゃめちゃ縁がありますね。ルサカくんといい、リーン殿といい。……うらやま……いやこれが女性なら羨ましいかな……」
ライアネルから見たら完全に異形のリーンはさておき、ルサカが女性だったら道を踏み外したかもしれない。それは少しライアネルも考えた事はあった。
ライアネルも健康な成人男性だ。仕事とルサカの養育に必死すぎて恋愛からも遠ざかって結果的に禁欲生活が続いていた。その禁欲状態であんな無防備に健気に尽くされ愛されていたら、血迷う事もあったのではないか。
ルサカが男でよかった。
預かって育てている子供に手を出すなんて、人の道に外れている。
「……まあ俺も、そろそろ身を固めないとな。うちの跡継ぎも作らなきゃならん」
ルサカを育てていた頃は、そんな心の余裕がなかった。
女手があった方がいいのかもしれない、とも思う事はあった。ルサカに母親代わりも必要じゃないかと思う事も多々あった。
日々騎士団の仕事に追われながらルサカを育て、女性までは手が廻らなかったし、正直、仕事とルサカの事で頭が一杯だった。
結婚はルサカが巣立った後でもいいし、ルサカの気持ち次第で、正式に養子にして家督を継がせてもいいと思っていた。
そんな大切に育ててきたルサカも、今では竜の番人になり、もうあの屋敷に帰ってくる事はない。
「でも騎士団は、ライアネル様には平凡な結婚をしないで貰いたいようですよ」
「……なんだって?」
思わず聞き返す。
ジルドアは自分の机に戻って再び資料を広げながら、小さなため息を漏らした。
「……えらい人たちは、強欲なんですよ。ルサカくんが竜に娶られたならライアネル様は義父のようなものなんだから、なんとか竜騎士になれって思ってますよ」
「ルサカを嫁にやった覚えはない!」
思わず声を荒らげるが、ジルドアは予想の範囲内の反応だったのか、驚きもしない。
「残念ながら上の人たちはそう思ってないです……。ヴァンダイク家えらい、竜に見初められるような子供育ててえらい、って感じです。ひどいですね」
好きで竜に奪われたわけではない。
今もルサカが竜の巣で暮らす事に決して納得はしていない。この複雑な胸のうちと何とか折り合いをつけているだけだ。
本当に当事者の気持ちなんか無神経にズタズタにしてくれる話だ。
「竜がいて更に竜騎士もいて、更にその竜騎士が騎士団出身ならルトリッツはこの大陸一の強国になれますからね。無双状態です。偉い人たちは夢見すぎです」
実に夢見すぎだ。
ライアネルも言葉がない。自分がいないところでそんな話をされていたとか、衝撃が大きすぎた。
「竜騎士にまでなるなら、今付き合ってる赤毛のイケメンとの結婚を特例で認めてもいいそうですよ。ちゃんと家族手当も家族保障もつけるそうです。……騎士団のお墨付きで結婚できますね……」
「リーンと付き合っている覚えすらないんだが」
「ライアネル様が美形の男性ばかりはべらせてるから、激しく誤解されてるみたいですよ。まあライアネル様に一番はべっている私は美形じゃありませんが」
「美貌なのはルサカとリーンだけだし、はべらせてもいないんだが」
「その二人が桁外れの美貌だからじゃないですかね……」
ぐったりとライアネルは椅子の背もたれにもたれ掛かる。
信じて尽くした祖国に裏切られたような気がしてくる。
いや、これは国としては正しい。正しい判断だと言える。
竜を持ち竜騎士を持てば、他国はまず攻め入ろうとはしない。国を守る最良の方法なのは間違いない。
もしも自分の事でないなら、騎士団のそんな方針に同意しないとも言い切れなかった。
「……でも、ルサカくんを連れて行った竜は、リーン殿の弟さんなんですよね?」
ジルドアがペンを止めて、思案げに首を傾げる。
「ルトリッツの竜は、リーン殿ではなく、弟さんの方ですよね」
「その通りだ」
珍しく、ジルドアは仕事の手を完全に止めた。
この奇妙で器用な書記官は、どんなに喋っていても仕事の手が止まる事はなかった。仕事の手を止めてまで考え込むのは、珍しい事でもあった。
「……ならば、ライアネル様は騎士団やルサカくんの為に竜騎士になるなら、リーン殿ではなく、弟さんの方でないと、いけないという事ですか」
「リーンの竜騎士になるなら、リーンの巣のある国に行く事になるんだろうな。竜ならばそう遠くない距離だそうだ。ライの大海の向こう、フェリ大陸のセリエという国だと言っていた」
「……リーン殿の竜騎士になるなら、国益は全く無いのでは……」
「全くないな」
「……リーン殿の弟さんの竜騎士になるという選択は」
「それは無理だな……」
何故無理なのかはジルドアも察した。
ライアネルに何故無理なのかを問い質すのは酷なので、ジルドアは絶対に聞けないが、これだけ竜に関る書物を読んでいたら、その辺りの赤裸々な事情が分からないはずがなかった。
これ以上何か言うのもライアネルを傷付けるだけだとジルドアも思う。
「……えらい人たちは、ライアネル様の気持ちなんか分かりませんし考えもしませんからね……。もう竜の事で浮かれてます。アイスドラゴンの厄災なんて忘れてますよ。……最近にもルサカくんの失踪で、竜が暴れたっていうのに、夢見すぎてます」
「……確かに俺がルトリッツの竜の竜騎士になれば、竜の首に鈴をつけたも同然だからな……。暴れたからこそ、御せる人材が欲しい、その気持ちは分からんでもない……」
複雑すぎる。
竜が一頭、ルトリッツに住み着いた。
それだけの事だったはずなのに、気付けばライアネルは関係者になっている。
騎士団の意向だけじゃない。リーンにも何度も請われているが、考えれば考えるほど、最良の道が分からなくなっていく。
ふと、ライアネルは思った。
この、奇妙で器用で不思議で変人で献身的な、慧眼の若き書記官は、この事をどう考えているのだろうか。
色々な情報を持ってくるが、あまりジルドアの個人的な考えが述べられた事はない。
「……ジルドア、お前はどう考えているんだ?」
「私ですか? ……うーん。それはどれについてですか?」
意見を求められるとは思っていなかったのか、珍しくジルドアは少し怯んでいるように見えた。
「どれでも」
「……漠然としてますねぇ。……私は、なんだかんだ言ってもライアネル様は武芸者なので、一度は竜と本気で戦ってみたいと思ってるだろうと踏んでますよ。……正直私も見てみたいです。ライアネル様なら勝てるんじゃないかと、心から思っていますよ」
ジルドアはおべっかを言えるようなタイプではない。
言えるようなタイプだったら、こんな副団長室の書記官なんて地味なポジションでくすぶっていなかっただろう。
これは彼の正直な本音と思われる。ライアネルは黙って頷く。
「……それと、竜騎士には正直なって欲しくないですね」
ジルドアはうーん、と声にだしてうなる。
「ライアネル様がいなくなったら、私を置いてくれる上官なんて他にいないじゃないですか。困ります」
「おかえり、ルサカ。遅か……」
「ただいまタキア! ちょっと書庫行って来る!」
ルサカは階段を風のように駆け下りて、出迎えたタキアのすぐ隣をすり抜け、書庫に飛び込む。
書庫の中二階、左奥の書棚に飛びつく。
薄暗くてよく見えない。
中二階から駆け下りて、廊下のテーブルに置かれていたオイルランプを掴んで戻る。
あまりのルサカの勢いに押されて、タキアも口を挟めない。
ルサカが灯りを欲しがっている事に気付いて、タキアも大きめのオイルランプを持ち、書庫の中二階に上がる。
ルサカは書棚に張り付いて、背表紙を必死で追っていた。
「……タキア、ここに来てから書庫の本を移動させてり、してないよね。……ずっとこのままだよね」
「ああ、うん。そうだよ。……たまに読むけど、同じ場所に戻してるし、中二階の本は触ってもいない」
書庫の二階、左の一番奥の棚。
そこの中段一列は、確かに入門書的なものが並んでいた。
その本を引っ張り出し、中身を確かめる。
竜の言葉が綴られたその古ぼけたページを捲り続ける。けれど、その文字は何一つ、頭の中には入ってこない。
何故、レオーネが、この古城の巣の書庫を知っている?
書棚のどこに、どんな本が納められているのか、何故、知っている?
言葉に出来ない不安があった。
シメオンからこの古城の巣の、前の主の話を聞いた時と同じだ。言い知れない胸騒ぎのような、何か。
この古城の巣を、レオーネはよく知っている。
この書庫のどこに、何があるか、それを覚えているくらいに、知っている。
レオーネは竜ではない。竜騎士だ。
この巣にいたアイスドラゴンが、竜騎士を持っていたかどうかなんて、誰も知らない。
ただ、番人を奪い返されたアイスドラゴンがこの地方一帯を凍らせ、立ち去ったという伝承しか、残されていない。
その、番人を失い、狂乱したアイスドラゴンはどこへ行った? どこに立ち去った?
奪われた番人は、どこへ消えた?
嫌な予感しかない。
レオーネは何故、書庫の本の事をルサカに教えたのか。黙っている事も出来たはずだ。何故、今、ルサカに教えたのか。きっと問い質したところで彼は答えない。そういう人だ。
立っていられないくらいの眩暈がした。
「……ルサカ!」
今にも崩れ落ちそうに書棚にもたれ掛かったルサカを、タキアは慌てて抱き止める。
「……ああ、ごめん……。大丈夫だよ。……ちょっと眩暈がしただけ」
そのタキアの胸にしがみつく。
嫌な想像ばかりが頭に浮かんでいた。
このまま、知らずにいる事も出来るはずだ。目を閉じて、耳を塞いで、知らないふりを続ける事だって出来る。
知ってしまったら、何かが変わってしまうのではないだろうか。
ルサカを抱きしめたまま、不安げにルサカの瞳を覗き込むタキアを見上げる。
その深いすみれ色の虹彩に彩られた竜の瞳は、胸を締め付けるほど、切なくなるほど綺麗で、今、ルサカは無性に泣きたくなっていた。
レオーネは、どんな気持ちで、人の世に置き去りにされた番人を救い続けていたのだろう。どんな気持ちで、あの時、ルサカを救い出したのだろう。
リリアの言葉を思い出す。
『ルサカを無事助けられた事を一番喜んでいるのは、レオーネ様なんだもの』