痛い、痛い、痛い。
背中も腿も二の腕も、ヒリヒリと焼けるように痛む。
ひゅん、と鞭が空を切る音と共に、皮膚が裂ける。引き裂く痛みに、殺しきれない悲鳴が漏れた。
「ひっ……!」
その細い悲鳴に、それまで革の鞭を振るっていた男が笑い声を上げる。
「おお、おお……! マグダリシア、痛かったかい? お前のこの綺麗な肌が、真っ赤に腫れ上がっているよ」
醜く肥え太った男は聞き苦しい笑い声を上げながら、マグダリシアと呼ばれた娘の、血の滲む真っ白な背中に手を伸ばす。
「美しいのう……。お前は本当に、美しい。どんなに鞭打たれても、明日の夜にはまたシミ一つ、ほくろ一つない美しい身体に戻るのだから、本当に罪深い生き物だ」
鞭に裂かれたマグダリシアの背中の傷に、鋭く爪を立て、男はゲラゲラと笑う。
「……あぁああ!! ……く、ああっ……!」
ギリギリと血の滲む傷口に爪が食い込む。耐えきれずにマグダリシアは悲鳴を上げ続ける。男はもっとマグダリシアの悲鳴を引き出そうと、彼女の首に食い込む皮の首輪を繋ぐ鎖を引く。
白い咽喉をのけ反らせ、彼女は抑えきれない悲鳴を漏らす。
毎晩のようにこんな責め苦が待っている。
もう何十年も、もしかしたらもっと長い年月を。ずっとマグダリシアは耐え続けていた。
耐えるしかなかった。
逃げ出す事も叶わずに、ただこうして繋がれ、毎夜訪れる客に虐げられ、犯され、そして傷だらけで朝を迎える。
引き裂かれた皮膚も肉も、殴打され紫色に腫れ上がった顔も身体も、一日経てば綺麗に元の姿に戻る。
骨を砕かれたなら、数日は休む事が許された。あまりに深く傷付けられると、治るまでに時間がかかった。
マグダリシアが望もうと望むまいと、身体は何事もなかったかのように、綺麗に修復されていく。どんなに傷付けられても、また元の姿に戻る。元通りにならないのは、この切断された右膝下くらいだ。
この足があれば、逃げ出せただろうか。
マグダリシアはそれを時々考える。両足があったとしても、逃げ出せたとしても、どこへ行けばいいのだろう。生まれ育った家に帰ったとしても、もう家どころか、国すら残っていないかもしれない。両親も兄弟も、とっくの昔に天に召されている。
帰るところなんて、あの方のところだけなのに。
いつかきっと、迎えに来てくれるはずだと信じて、この悪夢のような日々を過ごしてきた。
早く、早く迎えに来て下さい。私の身体がこれ以上醜く壊される前に、あなたに愛して貰える姿でいられるうちに。
ここを逃げ出しても、あの方の屋敷に辿り着く前に、またこんな風に囚われてしまうだろう。何よりこんな足では、逃げおおせない。
マグダリシアは幾度も主を思い浮かべる。
あの方は、右足をなくした私を愛してくれるだろうか。こんなにも穢された私も愛してくれるだろうか。
背中の傷に食い込んでいた男の爪がやっと外れる。マグダリシアのこわばった唇から、安堵の吐息が零れ落ちる。
この後の激痛を思えば、こんな安堵なんてしていられない。
「まるで白い花のようだよ、マグダリシア」
男は鮮血に濡れたマグダリシアの膝を掴み、足を広げさせる。皮の首輪以外何一つ身に付けていない身体は、無防備だった。
抵抗したところでまた鞭打たれるだけだ。鞭だけで済めばいい。ひどい時は生爪を剥がされる事もある。
マグダリシアはこの後の激痛に耐える為に、掴んだシーツを噛み締める。
「……そんな事をしたら、お前の可愛らしい声が聞こえないじゃないか」
男はマグダリシアの噛み締めるシーツの摘まみ上げる。摘まみながら、乱暴に彼女の足を開き、怒張した雄を濡れてもいない秘裂に容赦なく、一息に突き入れた。
激痛に、マグダリシアの爪先が跳ね上がる。
毎夜のように犯され続けても、こんな激痛に慣れる事はなかった。目を見開き、肩で息をつき、背中を硬直させ、痙攣する足で空を掻く。
「お前のとろける声を聞かせておくれ」
ギリギリと音がしそうな程に噛み締めたシーツを、男はマグダリシアの柔らかな中を激しく擦りあげながら、引っ張る。
「あ、ああああ……! ひぐ、ぅ……っ……ぐぅ!」
あまりの激痛に、声が出ない。こわばった咽喉と身体から、獣のような呻き声が漏れ出す。
鞭打たれる痛みなんて、人に犯される激痛に比べたら大した事がないと思える。この痛みをどんな風に例えたらいいのか。気が狂いそうな痛みだった。身体の中に砕けた陶器の破片を押し込まれたような、真っ赤に燃えた鉄の火かき棒を突き入れられてかき回されるような。どうやってもこの身体を壊されるような痛みを伝えられない。
「おお、おお……。愛らしい声だのう、マグダリシア。……蕩けそうな可憐な声だ……」
激痛にマグダリシアの息が詰まる。男はその痙攣する彼女の身体を愛しげに撫で、そして、更なる悲鳴を引き出そうと激しく腰を振る。
助けて。誰か、誰か。助けて。助けて。私が私でいられるうちに。これ以上醜く変わり果てる前に。
幾千夜も祈り続けたその願いを、耐えきれない激痛に苛まれながら、祈り続ける。
マグダリシアが解放されたのは、真夜中になってからだった。
存分に彼女の身体を傷付け悲鳴を堪能した男は、部屋を訪れた娼館の女主人に気前よく料金を払って帰って行った。
マグダリシアがこの娼館に来てから、ここの主人は何度も替わったが、だからといってマグダリシアの扱いが変わるわけではない。どんな主人が来ようと、マグダリシアの仕事が変わるはずがなかった。この娼館に連れて来られる前の娼館も、同じようなものだった。
女主人も、マグダリシアがどんな怪我を負おうと興味がなさそうだ。
客はたったひとつの約束事さえ守れば、マグダリシアに何をしようが自由だ。金さえ払えば何でも許される。
許されない事は、彼女の身体を『切断』する事くらいだ。
切り傷も火傷も、どんなにひどくとも元通りに治るが、切断されたものは元に戻らない。だからこそマグダリシアは逃亡出来ないように、右膝の下から足を切断された。
不自由な足を庇いながら杖をつき、痛む傷をだましだまし、自分の部屋へ帰る。客を取る部屋と、マグダリシアの部屋は別だ。
眠る前に湯浴みと傷の手当てを済ます。傷口は清潔にしなければ塞がらない。消毒し、痛み止めの塗り薬をすり込んで、それからマグダリシアは寝間着に着替え、ようやく自分の寝床に潜り込む。
客と過ごす豪華な部屋とは違って、マグダリシアの部屋は質素だ。小さな寝台に、薄く硬い寝具。寒々とした寝具に包まって、目を閉じる。
塗り薬のおかげで、傷口は熱を持っているものの、痛みは少し和らいでいた。
せめて夢の中だけでも、幸せだった日々を見ていたかった。
幸せな夢だった。
これが夢だと分かっているだけに、目覚めた時を思うと、空しく、切なく思えたが、今はその夢に溺れたかった。縋りたかった。
「お前は本当に美しいね。……この金色の髪も、青い瞳も、白い肌も。白い花が人のかたちを取れたなら、きっとそれはお前のような姿をしているに違いない」
主の顔を忘れた事などなかった。純白のアイスドラゴン。出会った時はまだ幼さを残した少年のような面差しをしていたのに、瞬く間に幸せな日々が過ぎ、気付けば、立派な青年に成長していた。
マグダリシアは、この真っ白な髪とルビーのように真っ赤な、綺麗な竜眼を持つ彼の最初の番人だった。
幾人かの番人を迎えても、彼は変わらず平等に、彼女らを愛してくれていた。いつかこの長い寿命が尽きるまで、ずっと彼の傍で尽くそうと思っていたし、そうなるものだと思っていた。
「この巣に君がいてくれるだけで、私は幸せな気持ちになれる。君のためにもっと立派な巣を作らなきゃね。……私の大切な白い花。大好きだよ」
青年になっても、子供のように無邪気に抱きしめ、愛を囁く。この主を誰よりも愛しいと思っていた。
顧みられなくなるなんて、思いもしなかった。
幸せだった日々は長く続いたように思う。けれどいつからか、気付けば寝室に呼ばれる事も、抱きしめられる事もなくなっていた。
たまに呼ばれるかと思えば、来客の為に奉仕を強いられる。もう彼女の仕事はそれくらいしかなかった。
それでも信じたかった。
深い森の中にひとりぼっちで取り残されても、彼がいつか必ず迎えに来てくれるはずだと、信じていたかった。すぐに迎えに来られなかったのは何か事情があるはずだと、思いたかった。
出会った頃と彼は何も変わっていない。子供のように無邪気で優しい彼は、きっと迎えに来てくれる。そう願わずにいられなかった。
幸せな夢は、幸せなままでは終わってくれなかった。
主の記憶は、時折こうして何度も夢で再現される。
自分の涙で濡れたシーツの冷たい感触に、静かに目を覚ます。まだ寝入ってそれほど経っていない。薄暗い部屋のみすぼらしいカーテンの外は、まだ夜明け前の空の色だった。
眠らなければ、傷が治らない。毛布に包まりながら、もう一度目を閉じる。治りきらないとしても、客は取らされる。苦痛が増えるばかりだ。少しでも癒やしておかなければ、心も身体も耐えられない。
無理矢理にでも眠ろうと目を閉じてから、やっと異変に気付く。
聞こえる。
ぴしっという家鳴りのような、薄く張った氷を割り踏むような。
硬い寝台から跳ね起き、飛び降りようとしても、不自由な足はままならない。床に転がり落ちたが、今は痛みも感じなかった。
この粗末な床から、冷気が這い上がる。這い上がる冷気は辺り一面を、音を立てて白く凍り付かせていく。
ばくばくと心臓が脈打つ。
まさか。
溢れ出る涙を片手で拭う。
やっと、来てくれた。迎えに来てくれた。会いたかった。この長い苦痛の日々で、彼が迎えに来てくれる事だけが支えだった。
なんとか立ち上がろうと、手近の椅子に縋り付く。身体が震えてどうしようもなかった。
部屋の扉は薄く凍り付いていた。施錠されていたドアノブが、パン、と音を立てて砕け散る。凍り付き砕け散った破片が床にぱらぱらと音を立てて散らばる。
マグダリシアの心臓は激しく脈打つ。喜びと、不安とが入り交じり、身体の震えが収まらない。
醜く変わり果て穢れたと絶望されないか、昔と変わらない笑顔で、会いたかったと言ってくれるのか。長い年月を経ても彼は出会った頃の無邪気な優しさを失っていないと、思いたかった。
扉がゆっくりと開く。濃紺に白の縁取りを施されたクロークを纏った背の高い人影は、夜明けの薄暗い部屋の中でも目映かった。紺色のクロークから零れ落ちる、闇を弾いて輝く長く真っ白な髪に、マグダリシアは涙がこみ上げる。
縋り付いていた椅子からよろよろと立ち上がり、倒れ込むようにその人影にしがみつく。
「……ヴィリ様……! ヴィリ様、ヴィリ様……! ずっと、ずっと待っていました。会いたかった。あなたにもう一度会いたくて、死ぬ事もできませんでした……!」
言葉は声にならない。こみ上げる嗚咽に、息が詰まりそうになる。
マグダリシアは必死に縋り、しがみつき、号泣する。
「醜く変わり果て、穢れました。それでもあなたに会いたかったのです。……あなたに会いたかった!」
もう一度愛されずともいいと思えた。もう一度誰より愛した主に会えるなら、そのまま死んでもいいと思えた。
「……落ち着いて。ゆっくり息を吐いて」
優しい手がマグダリシアの震える背中を撫でる。深く息を吐き、吸い、マグダリシアはやっと気付いた。
マグダリシアが抱きしめる濃紺のクロークに零れ落ちる髪は、純白ではなかった。窓の外から差し込む夜明けの消えそうな月明かりを弾いて、銀色に輝いていた。
マグダリシアはおずおずと顔を上げる。
竜ではない。
マグダリシアを気遣うように見おろすその瞳は、夜明けの空のような蒼い虹彩だった。その蒼い虹彩に、細い猫や蜥蜴のような瞳孔。
竜眼を持つ竜ではないもの。
「私はレオーネという。決して君を傷付けるつもりはないよ。おこがましいかもしれないが、君を助けに来た。……君の名前を教えてくれるかい?」
この清冽に澄んだ蒼い瞳は、とても優しく穏やかに見えた。形の良い美しい唇が動くのを、呆然とマグダリシアは見上げる。
「……マグダリシア」
「それは誰かが付けた名前じゃないのかな。君の本当の名前だよ。……君はもう、囚われ人ではないからね」
竜騎士だ。
マグダリシアは気付いた。
待ち焦がれた主でもなく、竜でもなく、全く見ず知らずの、竜騎士。
「リリアです。……リリアと申します、竜騎士様」
レオーネは微笑んで、纏っていた濃紺のクロークを脱ぎ、リリアのやせ細った身体を包み、抱き上げる。
「一緒に行こう、リリア。……君はもう自由の身だ。誰にも君をもう傷付けさせないから、安心して眠るといい」
呆然としたまま、リリアは大人しく抱き上げられる。
主ではなかった。見ず知らずのこの竜騎士が、なぜ自分を助けてくれたのか。信じてもいいのか。
きっと、信じていい。
きっとこの人は、私を騙したり傷付けたりしない。
こんな綺麗で、優しく穏やかで、そして悲しい目をした人を、疑うなんて出来ない。