竜の棲み処 君が僕の永遠(とわ)なる希望

#01 竜の生贄

 何故、死にたくないと思うのだろう。
 夜明けの薄暗い森を必死に走りながら、考える。
 枯れ木のように痩せた足では速く走れないし、ろくに食べていない貧相な身体では逃げおおせないかもしれない。それでも彼は走り続ける。
 今までだってあまり幸せとは言えない生活だった。辛い事や悲しい事も多かったが、ささやかな幸せもあった。時々は優しくしてくれる人もいた。
 これから先もずっとこんな生活なのかと思うと悲しく思えていたけれど、それでも死んでしまいたいとは思わなかった。
 この国に竜が巣を作った、という話は噂で聞いていた。
 そんなな話は自分のような名前すらない人間には、何の関係もないと思っていた。夕べ、村の人々の話し合いを立ち聞きしてしまうまでは。
「貢物代わりに『あいつ』を差し出せばいい。うちの村だって豊かじゃない。竜に捧げられるような作物も財宝もない。『あいつ』を竜に食って貰えばいいだろ」
「どこの馬の骨かも分からない身寄りのない『あいつ』を今まで村の皆で養ってやってたんだ、『あいつ』も恩が返せて本望だろ」
 彼らはそう言って笑っていた。
 賢くもないし、綺麗でもない。そして身寄りもないような自分を村の人々が養ってくれていると思っていたからこそ、一生懸命村の為に働いてきたつもりだった。
 けれど村の人は、彼を村の一員だと思っていなかったのだ。
 痩せ衰えた身体では走り続ける事はできなかった。それでもふらつく足で必死に歩き続ける。
 垢じみて汚れた頬に、涙が伝う。
 そんなに邪魔にされていて、誰にも必要とされていないのに、それでもどうして死にたくないと、竜に食べられたくないと思ったのだろう。逃げたところで行く当てもない。それでも死にたくないと思えるのは、何故なのか自分でも分からなかった。
 遠くでざわめく人々の声が聞こえる。逃げ出した『あいつ』を追っているのだろう。
 ポロポロと零れ落ちる涙を、すり切れ、汚れた袖口で拭う。
 せめて竜に食べられて、村の人達の役に立てばよかったのかもしれない。役立たずの厄介者だった自分が、唯一村のためにできる事だったのかもしれない。
 けれど、死ぬのが怖かった。竜に食べられて死ぬなんて、恐ろしくて仕方がなかった。
 弱った足で、彼は再び、よろよろと走り出す。逃げたところで行くところなんて、ない。村の外でどうやって生きていけばいいのかも分からない。
 追いかける村人の声はどんどん近付いてくる。嗚咽を堪えながら走り続けると、静かな湖の畔に辿り着いた。
 明け方の湖は、生まれたて靄が湖面から立ち上り、まるでどこか別の世界のように幻想的で神秘的だった。蒼く霞む空の下、立ち枯れた木々と水辺の葦の草むらに雫が伝い落ち、仄白く煙る湖面を彩る。
 生まれてからずっと村の中で働き続けていた彼は、こんな美しい風景を、見た事がなかった。
 逃げる事も忘れて、そのこの世の物とは思えないような、登り始めた日の光に照らされる湖に見とれていた。
 ぱきん、と枝を踏む音が耳を打った。その音で、彼はやっと我に返る。
 追いつかれたのかと身構えると、草深い水辺の靄の中から、露草色の影が現れる。
 この湖の化身だと言われたら、きっと信じただろう。現れたのはこの世のものとは思えないくらいに、美しい青年だった。
 この深い靄の中でもきらきらと輝くような蜂蜜色の長い髪と、鮮やかに深いみどりの瞳。露草色のマントを纏った、美しい青年だった。
 こんな美しい人を、彼は見た事がなかった。思わず逃げる事も忘れて、見つめてしまう。
 その湖の精霊のような青年は、突如現れた痩せ衰え、薄汚い姿の彼に驚いたようだ。美しい顔を曇らせ、訝しげに見つめ返す。
「……亡者かと思った。随分薄汚れた人間だな」
 綺麗な顔と綺麗な声とは裏腹に、言葉はだいぶ厳しい。彼は思わず羞恥に俯く。
 こんな美しい人から見たら、確かに汚らしい亡者のようなものだろう。忘れていた涙がまたこみ上げる。
「あれは、お前を探す声か?」
 村人たちの声はどんどん近付いてくる。慌てて逃げ出そうとするが、それより早く、茂みから見慣れた村の男が飛び出してきた。
「……いたぞ! こっちだ! 湖だ!」
「お前、追われてるの?」
 青年は追っ手の男から彼に視線を移す。どう返事をしていいのか分からず、彼はおろおろと立ち竦む。
「口がきけないのか?」
「……し、死にたくないです。捕まったら、ぼくはきっと」
 これだけ口走るのが精一杯だった。咄嗟に青年の纏う露草色のマントを掴んでしまう。
「た、助けて下さい……」
 堪えようとしても、止められなかった。大粒の涙が彼の汚れた頬を伝い落ちる。
「なんだお前は? そいつは俺の村の人間だ。よそ者は引っ込んでろ!」
 夜通し彼を探し続けていたのだろう、男の目は血走り、語気は荒かった。青年は眉をひそめ、忌々しげに村人を睨め付ける。
 震えて涙ぐむ、痩せこけてみすぼらしい身なりの彼と、この荒々しい村人の言葉で、察したようだった。村人を薄汚い虫けらでも見るような目で見る。
「お前、ちょっと離れて。……そうだな、ちょっと冷たいだろうけど、湖の中にいてよ」
 青年を顔を間近で見上げ、やっと彼は気付いた。
 瞳が、人の瞳ではなかった。猫や蜥蜴のように細長い瞳孔を、鮮やかなみどりの虹彩が包んでいた。
 やっぱり、この湖の精霊なんだ。きっと、そうなんだ。
 彼はその人ならざる瞳を見上げながら思う。
「……こういうの見捨てたら、母さんにめっちゃめちゃ怒られそうだから護ってやるだけだからな」
 青年は乱暴に彼を突き放す。
「なんだ? やるのか? お前みたいな貴族のお坊ちゃんに……」
 湖水に膝まで浸かりながら、彼も今気付いた。青年の足下の草むらが、さわさわと風にそよぐように揺れ始めていた。
 風はなかった。靄の立ちこめる湖面も凪いでいた。それなのに、青年の足下から這い上がるように、風の渦が生まれ、一瞬で旋風が青年を包み込んだ。
 それは花びらを纏う春の嵐のようにも見えた。青年を包んだ穏やかな風は、あっと言う間に荒々しい暴風へと成長を遂げる。
 彼を捕らえようとした村の男も、追いついた他の村の男たちも、彼も、その突然沸いた嵐の渦を呆然と見上げるだけだった。
 その激しい嵐の中に、エメラルドの鱗のようなものが見える。
 聞いた事もないような、恐ろしい何かの鳴き声が響いた。鳴き声というよりも、猛々しい咆哮だった。
 湖畔に降り立った翠玉の鱗を纏った巨大な生き物は、鋭利な爪を持つ巨大な前脚を振り上げる。
 鼓膜を引き裂きそうな鋭い竜の鳴き声が、静かな明け方の湖に響き渡る。誰もが恐怖のあまり、為す術もなく、立ち竦むしかなかった。


2017/08/22 up

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