竜の棲み処 君が僕の永遠(とわ)なる希望

#02 名前があるという事

 湖のほぼ中央くらい。深い茨の茂みが城壁のように護る断崖絶壁の浮島に、ぽつん、とその古い館は建っていた。
 これは随分古そうだ。それくらいは村から出た事がないような物知らずの彼でも分かる。館の中は埃だらけだし、雨漏りの痕もあった。
「……お前、名前は?」
 靄で濡れそぼった露草色のマントを脱ぎながら、青年は彼を振り返る。
「僕はクアスという。……で、お前の名前は?」
 彼はここで困った。
 名前なんて、ない。村では、『お前』とか『おい』とか、『こいつ』と呼ばれていた。
「……多分、ないです……」
 クアスは馬鹿にしたような目で彼を見ている。
「名前がない人間なんていないだろ。……自分の名前も分からないのか?」
「おい、とか、お前、とか呼ばれてたから、名前、自分でも知らないです……」
 暫くの沈黙があった。
 クアスはなんとも言えない不思議な顔をして考え込んでいたが、口を開く。
「……名前がないと不便だから、とりあえず僕が適当につけてやる」
 埃だらけの部屋の中の、これもまた埃を被った古びた椅子にクアスは脱いだマントを投げる。
「僕の母さんの故郷では、『夜明け』をユーニと呼んでたんだ。だからお前はユーニな。明け方に拾ったからそれでいいだろ」



『垢じみて小汚いし臭いからまず風呂に入れ。話はそれからだ』とクアスに追い立てられて、ユーニは人生初めての風呂に入る事になった。
『風呂の入り方が分からない』と言うと、クアスはまたさっきのように、なんとも言えない複雑な顔をして、それから詳しく説明をしてくれた。
 今まで小川で言いつけられた洗濯をするついでに、自分の服と身体を洗うくらいだった。冬の間は寒くて冷たくて、氷水のような小川ではとてもではないが身体も顔も洗う事ができなかった。濡らした布きれで拭うくらいだ。
 生まれて初めて温かい風呂に浸かったが、こんなに気持ちのいいものだとユーニは知らなかった。村の公衆浴場の掃除ならよくしていたが、使った事はなかった。
 これは『温泉』という、地中から自然に湧き出す湯だとクアスが説明してくれた。この埃だらけの館の中で、風呂だけはピカピカに綺麗で、ここは頻繁に使うから掃除したと、クアスが言っていた。
 遠慮なく湯も石鹸も使ってその小汚いのを落としてこい、とクアスが手渡してくれた石鹸も、とてもいい匂いでなめらかでふわふわで、夢のような心地だった。
 もうクアスに『臭くて汚い』と言われないように、言いつけ通り惜しみなく石鹸を使いしっかりと念入りに洗い上げて、それからユーニは浴槽に浸かる。
 たっぷりの湯に浸かりながら、ユーニ、と声に出して呟いてみる。
 嬉しかった。
 名前があるという事が、こんなに嬉しくてドキドキするものだと、知らなかった。
 もう一度、声に出して、ユーニ、と呟く。
 クアスは人間ではないけれど、今まで出会った人の中で、一番、ユーニに優しくしてくれた。追っ手から護ってくれた上に、名前まで付けてくれた。こんな汚らしい人間に、こんな豪華で綺麗な風呂まで使わせてくれた。
 エメラルドのドラゴンの鳴き声を聞いた時は、最初こそ恐ろしく思えたが、これがクアスだと分かっていれば、少しも怖くない。
 こんなに身ぎれいになったのは、物心ついて初めてだ。洗い上がった自分の素肌を見て、こんなに白かったのかとしみじみ感心する。これなら汚いとも臭いとも言われないだろう、と風呂から上がって、ユーニは気付いた。
 さっきまで着ていた服が、なくなっている。汚くてすり切れていても、あれがユーニのたったひとつの持ち物だった。



「あんなゴミ捨てたよ。臭いわ汚いわ破れてるわ、あんなもの着るな」
 風呂場にあった湯上がりタオル一枚を巻いただけでオロオロするユーニに、呆れたようにクアスは返す。
「でも、他に服が」
「山吹さんを呼んだから、そろそろ来る。少しそのタオル一枚で待ってろ」
 山吹が何者なのかさっぱり分からないが、言われた通りにユーニは大人しく、タオル一枚を巻いて、客間の隅っこの床に座る。途端に、苛立ったようなクアスの声が響く。
「なんで床に座るんだよ。椅子に座れ」
 クアスは目の前の椅子の背もたれを軽く手で叩いて示す。慌ててユーニは立ち上がり、その椅子に座る。
 この客間だけは、比較的綺麗だった。この部屋のテーブルと椅子、床には埃がない。調度品はテーブルと椅子のみだが、頻繁に使われているであろう形跡があった。
「……うん。洗えばだいぶましだな。まあ枯れ木みたいに貧相なのは仕方ないか」
 言いながら、クアスはテーブルの上に置いてあったバスケットを開く。中から、真っ赤に熟れた林檎、ミルクの瓶、丸くて大きなライ麦のパンと、油紙に包まれたチーズの塊をを取り出す。
「まだ巣作りを始めたばかりでろくに物がない。これくらいしか人間が食べられそうなものはないけど、文句言ってもこれしかないからな」
 クアスは器用に木のトレイにパンやチーズを載せ、切っていく。適当に挟んで木のトレイの上に並べ、促す。
「なんだよ、これじゃ不満か?」
 まごつくユーニに向かって、少々苛立ったような口調だ。ユーニは慌てて口を開く。
「食べていいんですか?」
 ユーニにとっては大変なご馳走だ。こんな立派なパンやチーズなんて、いつも優しくしてくれる宿屋の若い女将さんが、時々こっそり分けてくれるのを少し口にするくらいだった。
 いつもは干からびた果物や、茹でた小芋、時々、硬くなったパンを貰えればいい方だった。何か失敗をして、一日に一回も食事が与えられない日もあった。
「……いいに決まってるだろ……」
 また、クアスはなんとも言えない微妙な表情をしているが、ユーニは気付かない。目の前のご馳走に夢中だ。ユーニはクアスが勧めるままに、パンを夢中で囓る。
「……おま…ユーニ。随分痩せて小さいけど、何歳なんだ?」
 一心不乱に食べ続けるユーニを、片手で頬杖をついて眺めながらクアスが訪ねる。
 もぐもぐ口を動かしながら、ユーニは考え込んだ。
 名前もだが、年齢も知らない。気にした事がなかった。また呆れられるかもしれないと思いながら、正直に口にする。
「分からないです……」
 クアスはまた、例のなんとも言えない表情で黙り込んだ。怒ったり、呆れたりはしていないようだった。ユーニは申し訳ない、と思いながらも、空腹には勝てず、食べ続ける。
 パンやチーズを更に切って勧めたり、林檎を切り分けながら、クアスは暫く無言だったが、ユーニの腹が満たされた頃合いを見計らって、再びクアスは口を開いた。
「なんで逃げてたの? ……あいつら、おま…ユーニの知り合いなんだろ。何か悪さをしたのか、失敗でもして怒らせたのか」
「それは」
 林檎を囓りながら口を開いたユーニは、言いかけて、それから考え込む。
 竜に食べられるのが怖くて逃げたはずなのに、何故か今その竜と一緒にいる。
「……その……村が貧しくて、せっかくこの国に竜が巣を作ってくれたのに、何も竜に捧げるものがないから」
 とうの竜であるクアスにこの理由を言うのは憚られるが、なんとか言葉を選ぶ。
「食べ物や、財宝の代わりに、ぼくで我慢してもらおうって……」
「………………」
 これは明らかに気分を害している。クアスは露骨に不機嫌になった。
「……竜も舐められたもんだな。こんな地味で貧相な貢物なんか捧げられたってどうしようもないだろ」
 食べないんですか、という疑問をユーニは口にしようとして、湯上がりタオル一枚の自分の身体を改めて見おろす。
 さっきクアスに『枯れ木みたいに貧相』だと言われたが、確かにその通りだ。
 皮膚もただれていたり擦り傷だらけで少しも綺麗ではないし、痩せて骨と皮ばかりで、枯れ枝みたいだ。こんなみすぼらしく痩せこけて、しかも垢じみて汚らしいもの、飢えた狼だって食べないかもしれない。
 ちょうど最後のミルクを飲み干した時に、呼び鈴と共に元気な声が館の玄関から響いた。
「こんにちはー。ダーダネルス百貨店外商部の山吹ですー。毎度ありがとうございますー!」


2017/08/23 up

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