王子様とぼく

#17 霧煙る夜明けの湿原

 最近、シアン兄弟は訓練後にしばしばレトナ家に上がりこんで、一緒に夕食をとったり、雑談したりしている。
 寝るためだけに宿に戻っているようなもので、ほぼ入り浸りである。
 すっかり溶け込んで馴染んでいる。いい家のお坊ちゃんたちの割りに、順応性が高い。
 レトナ家の質素な居間に、全員詰め込むと狭いかと思われそうだが、意外とそんな事はない。
 指南所をやっていたので、来客用にそこそこの広さはある。
 応接間なんて高級なものはないものの、居間はその役目を兼ねているのでそれなりの広さがあるのだ。
 レトナ家の三人兄弟と、シアン兄弟、あわせて五人。
 五人揃ってお茶を飲んだり食事をとるのに、それほどの不便はない。
 今もこうして、手合わせ後のお茶を楽しんでいるのだが、一人、踊り出しそうなくらい上機嫌な人物がいる。
「師範代、めっちゃめちゃ機嫌いいね」
 ノイシュはこっそりとセニに耳打ちする。
 アレクシスには体よくあしらわれていたが、ルーヴがルシルに来ない、それだけでリュカルドの心の平穏は保たれる。
 上の空なセニとは実に対照的だ。
「今日のお夜食はー、シアン兄弟のお土産の、レンドハルト名物、そば粉のフィナンシェでーす!」
 ニノンは嬉しそうにお皿にフィナンシェを並べている。
「あ。俺たちはいらない」
 ノイシュが配ろうとしたニノンを止める。
「俺もティーオも、この菓子嫌いなんだよね。そば粉が苦手でさ。なのにうちの親父が送ってくるから……。押し付けて悪いけど食べてよ」
「えー! えー! こんなおいしそうなのにっ。……じゃあ、二人には、私が作ったマシュマロを……」
 ニノンは瓶からハート型のマシュマロを取り出して、二人の皿に並べる。
「……ぼくもいらない。今日は食欲なくて」
 セニはここ数日目に見えて元気がない。
「えっ……夕飯もあんまり食べてなかったよね。筋力落ちちゃうよーもう……。でも油ものはもっと食べにくいかな。……マシュマロ食べなさいマシュマロ。いーっぱいあるから。フワフワだから、食べられるよきっと」
 セニの皿にどばどばとマシュマロを盛る。
「リュカルドはごっきげんなのに、セニはずーっと元気ないから、私、心配だよ」
 ティーオの皿にハートのマシュマロをどしどし盛りつつ、マシュマロタワーを作る。
「ニノンちゃん、ぼくそんなに食べられな……」
 ティーオはおずおずとそれを阻止しようとする。
「ふわっふわだから食べられる食べられる!」
「ニノン、ティーオがかわいそうだからそろそろやめてあげて……」
 リュカルドも止めつつ、ちらっとセニの様子を覗う。
 ルヴトー王子が来ない。セニに会わない。
 本当に心配の種がなくていい事だけれど、肝心のセニの元気がない。
 自分の心の平穏も大事だが、セニの心身の健康はもっと大事だ。
 おかげでだんだんとリュカルドの気持ちを沈んでくる。
「たまには甘くして飲みたいな。セニ、ちょっと砂糖を…あっ」
 砂糖壷を取ろうとしたノイシュの手が、菩提樹の花のお茶を満たしたセニのカップに触れ、転がった。
 咄嗟にセニが手で押さえたので被害は少なかったが、セニのチュニックの胸元に飛び散ってしまった。
「ああっ…ごめん、セニ! ヤケドしなかったか」
「ああ、大丈夫。……少しはねただけ」
 セニは飛び散ったお茶のシミをつまんで見せる。
「あー……すまなかった。染み付いてとれなくなる前に落とそう。……ちょっと外の井戸に行って来るよ」
 ノイシュはセニの手を取って立ち上がる。
「このランタン持っていって。暗くて外見えないから」
 リュカルドから大き目のランタンを受け取って、外へ向かう。
「あー……本当にごめん。うっかりしたよ。ヤケドさせなくて本当に良かった」
 井戸まで連れてくると、ノイシュはランタンを井戸の淵に置いて、水を汲み上げ始める。
 セニはふとあの、明け方の事を思い出した、ずぶ濡れで泣いていたあの時の事を思い返すと、なんとなくいたたまれない。
 思わずノイシュから目を逸らしてしまう。
「……落ちるといいな。ほら、セニ、こっち向いて」
 セニの胸元を摘んで、濡らしたハンカチでたたき始める。
 セニはノイシュの、ランタンの仄かな灯りに照らされる黒い睫に縁取られた青い目を、ぼんやりと眺める。
 視線に気付いたのか、ノイシュがふと顔を上げた。
「……セニ。……なんていえばいいのかな」
「……うん…?」
 あの黒い睫に縁取られた青い目が、目の前にある。
 唇が触れそうな距離で、ノイシュは囁く。
「……信じて欲しい、なんて虫が良すぎるよな」
「……? 何を言って……」
 ふと、唇が触れた。
 啄ばむように口付けられて、セニは呆然と立ち竦む。
 何をされたのか、一瞬分からなかった。
「……こんな事をするつもりじゃ、なかった」
 両手でふんわりと頬を包まれる。呆然としたままのセニの唇に、再びノイシュの唇が触れた。
「……なっ…!」
 唇を引き離そうとするが、強く抱きしめられて、もがく事しか出来ない。
 逃げる唇を追いかけて、無理矢理舌を差し入れられた。
 息苦しさにセニの咽喉が強張るが、ノイシュはそのまま深く探るように舌先を忍び込まる。
 何かを咽喉奥に押し込まれ、無理矢理嚥下させられた、とセニが気付いた瞬間、あれほど執拗だった唇が離れた。
「……予定が変わった。……時間がない」
「なにを言って……」
 きつく抱きしめられて、足掻いても逃れる事が出来ない。
「ごめん……」
 どこからこんな力が出るのか。どんなにもがいても、ノイシュは苦もなくセニを押さえ込む。
「ノイシュ! 離し……」
 その瞬間、セニの視界がぐにゃり、と歪む。
 突然、強烈な睡魔がセニを襲う。
「……あ……っ…」
 立っていられない。意識を奪おうとする睡魔にセニは抗おうとするが、かなわなかった。。
「……セニ、君は許してくれるかな」
 崩れ落ちそうになるセニを抱きかかえながら、その瞼に、幾度も口付ける。

 好きだよ。

 強烈な睡魔に攫われるその瞬間に、ノイシュの声が聞こえたような気がした。



「……ノイシュ。こっちは大丈夫。ふたりともぐっすり眠ってる」
 背後からティーオに声をかけられる。
「見張りは四人。全部始末したってさ。あとは交代時間前に全て済まさないとね」
「……こっちも」
 セニを抱きかかえて、振り返る。
「嫌な仕事だった」
 ティーオのこんな弱音を聞くのは、ノイシュも初めてだった。
 ふたりとも、慣れていたつもりでいた。
「胸が痛いよ。この人たち、みんないい人過ぎる。……人を騙すのがこんなに苦しいなんて知らなかった。なけなしの良心が痛んでつらい」
「……悪かったよ、ティーオ。……俺だって、こんな苦しいと思わなかった」
 眠ったままのセニを抱きあげて、歩き出す。
「……夜明け前までに国境を越えよう。もう後戻りは出来ない」



 ぱしゃん、と水の跳ねる音が聞こえた。
「……セニ。おい、セニ、しっかりしろ!」
 軽く頬を叩かれて、セニはゆるゆると目を開く。
「生きてるな。よしよし」
 燃えるような赤い髪に、大きな手。
「……ジェイラス…さん…?」
 どうしてここに、という言葉は声にならなかった。
 頭は霞がかかったようにはっきりしない。
「ノーマ、セニの意識が戻った。……噂に聞いた事がある。ルトラース家には、飲むと一定時間、仮死状態になる秘薬があるとか。多分それだ」
 声は聞こえている。それなのに何を言っているのか全く理解出来ない。
 セニは再び眠りに落ちようとしていた。
「……セニ、だめだ。落ちるな。……しょうがねえな」
 ジェイラスはセニを抱きかかえて、軽く揺さぶる。
「リュカルド殿もニノン殿も、無事ですよ」
 バートラムの声が聞こえる。
 無事? 何の事?
 セニの疑問は言葉にならない。微かに唇が動くだけだった。
「ノーマ、ブランドール卿は?」
「逃げた賊を追ったまま、まだ戻ってきていない。マデリア国境を越えられたら終わりだが、向こうも必死だ。追いつけるかどうか」
 バートラムが屈みこんで、ジェイラスの膝の上のセニを覗き込む。
「セニ殿、水を。……身体に残った薬を薄めなければ」
 唇に冷たい水が触れる。セニは何とか流し込まれるそれを飲み下す。
 少しでも気を抜くと、意識はまた泥の中に沈み込んでしまいそうだった。
 セニは必死で重い瞼を開く。
 一体何があったのか、ノイシュのあの言葉は、あの口付けは。
 夢じゃないの?
 言葉は何一つ、声にならない。
「夜が明ける。……今は、無事だった事に感謝しよう」
 バートラムは意味深に呟く。
 ジェイラスは無言でセニを抱き起こす。
 そのジェイラスの胸にもたれながら、セニは昇る朝日を見つめる。
 やっと気付いた。
 霧煙る、夜明けの葦の海原。
 ここは、あの湿原のほとりだ。
 混乱したままのセニを置き去りに、静かに夜が明けようとしていた。
 澄んだ水面から、生まれたばかりの霧が立ち昇っていた。曇り硝子のような明け方の空に溶ける霧を見上げる。
 霧が生まれる瞬間を、初めて見た、とセニはぼんやりと見つめる。
「……ノイシュと…ティーオは……?」
 乾いて擦れた声だった。自分の声だとは思えないほど、弱く、震える声だった。
 バートラムもジェイラスも、答えない。
 無言のまま、ただ昇る朝日を見つめるだけだった。


2016/01/12 up

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