寝るためだけに宿に戻っているようなもので、ほぼ入り浸りである。
すっかり溶け込んで馴染んでいる。いい家のお坊ちゃんたちの割りに、順応性が高い。
レトナ家の質素な居間に、全員詰め込むと狭いかと思われそうだが、意外とそんな事はない。
指南所をやっていたので、来客用にそこそこの広さはある。
応接間なんて高級なものはないものの、居間はその役目を兼ねているのでそれなりの広さがあるのだ。
レトナ家の三人兄弟と、シアン兄弟、あわせて五人。
五人揃ってお茶を飲んだり食事をとるのに、それほどの不便はない。
今もこうして、手合わせ後のお茶を楽しんでいるのだが、一人、踊り出しそうなくらい上機嫌な人物がいる。
「師範代、めっちゃめちゃ機嫌いいね」
ノイシュはこっそりとセニに耳打ちする。
アレクシスには体よくあしらわれていたが、ルーヴがルシルに来ない、それだけでリュカルドの心の平穏は保たれる。
上の空なセニとは実に対照的だ。
「今日のお夜食はー、シアン兄弟のお土産の、レンドハルト名物、そば粉のフィナンシェでーす!」
ニノンは嬉しそうにお皿にフィナンシェを並べている。
「あ。俺たちはいらない」
ノイシュが配ろうとしたニノンを止める。
「俺もティーオも、この菓子嫌いなんだよね。そば粉が苦手でさ。なのにうちの親父が送ってくるから……。押し付けて悪いけど食べてよ」
「えー! えー! こんなおいしそうなのにっ。……じゃあ、二人には、私が作ったマシュマロを……」
ニノンは瓶からハート型のマシュマロを取り出して、二人の皿に並べる。
「……ぼくもいらない。今日は食欲なくて」
セニはここ数日目に見えて元気がない。
「えっ……夕飯もあんまり食べてなかったよね。筋力落ちちゃうよーもう……。でも油ものはもっと食べにくいかな。……マシュマロ食べなさいマシュマロ。いーっぱいあるから。フワフワだから、食べられるよきっと」
セニの皿にどばどばとマシュマロを盛る。
「リュカルドはごっきげんなのに、セニはずーっと元気ないから、私、心配だよ」
ティーオの皿にハートのマシュマロをどしどし盛りつつ、マシュマロタワーを作る。
「ニノンちゃん、ぼくそんなに食べられな……」
ティーオはおずおずとそれを阻止しようとする。
「ふわっふわだから食べられる食べられる!」
「ニノン、ティーオがかわいそうだからそろそろやめてあげて……」
リュカルドも止めつつ、ちらっとセニの様子を覗う。
ルヴトー王子が来ない。セニに会わない。
本当に心配の種がなくていい事だけれど、肝心のセニの元気がない。
自分の心の平穏も大事だが、セニの心身の健康はもっと大事だ。
おかげでだんだんとリュカルドの気持ちを沈んでくる。
「たまには甘くして飲みたいな。セニ、ちょっと砂糖を…あっ」
砂糖壷を取ろうとしたノイシュの手が、菩提樹の花のお茶を満たしたセニのカップに触れ、転がった。
咄嗟にセニが手で押さえたので被害は少なかったが、セニのチュニックの胸元に飛び散ってしまった。
「ああっ…ごめん、セニ! ヤケドしなかったか」
「ああ、大丈夫。……少しはねただけ」
セニは飛び散ったお茶のシミをつまんで見せる。
「あー……すまなかった。染み付いてとれなくなる前に落とそう。……ちょっと外の井戸に行って来るよ」
ノイシュはセニの手を取って立ち上がる。
「このランタン持っていって。暗くて外見えないから」
リュカルドから大き目のランタンを受け取って、外へ向かう。
「あー……本当にごめん。うっかりしたよ。ヤケドさせなくて本当に良かった」
井戸まで連れてくると、ノイシュはランタンを井戸の淵に置いて、水を汲み上げ始める。
セニはふとあの、明け方の事を思い出した、ずぶ濡れで泣いていたあの時の事を思い返すと、なんとなくいたたまれない。
思わずノイシュから目を逸らしてしまう。
「……落ちるといいな。ほら、セニ、こっち向いて」
セニの胸元を摘んで、濡らしたハンカチでたたき始める。
セニはノイシュの、ランタンの仄かな灯りに照らされる黒い睫に縁取られた青い目を、ぼんやりと眺める。
視線に気付いたのか、ノイシュがふと顔を上げた。
「……セニ。……なんていえばいいのかな」
「……うん…?」
あの黒い睫に縁取られた青い目が、目の前にある。
唇が触れそうな距離で、ノイシュは囁く。
「……信じて欲しい、なんて虫が良すぎるよな」
「……? 何を言って……」
ふと、唇が触れた。
啄ばむように口付けられて、セニは呆然と立ち竦む。
何をされたのか、一瞬分からなかった。
「……こんな事をするつもりじゃ、なかった」
両手でふんわりと頬を包まれる。呆然としたままのセニの唇に、再びノイシュの唇が触れた。
「……なっ…!」
唇を引き離そうとするが、強く抱きしめられて、もがく事しか出来ない。
逃げる唇を追いかけて、無理矢理舌を差し入れられた。
息苦しさにセニの咽喉が強張るが、ノイシュはそのまま深く探るように舌先を忍び込まる。
何かを咽喉奥に押し込まれ、無理矢理嚥下させられた、とセニが気付いた瞬間、あれほど執拗だった唇が離れた。
「……予定が変わった。……時間がない」
「なにを言って……」
きつく抱きしめられて、足掻いても逃れる事が出来ない。
「ごめん……」
どこからこんな力が出るのか。どんなにもがいても、ノイシュは苦もなくセニを押さえ込む。
「ノイシュ! 離し……」
その瞬間、セニの視界がぐにゃり、と歪む。
突然、強烈な睡魔がセニを襲う。
「……あ……っ…」
立っていられない。意識を奪おうとする睡魔にセニは抗おうとするが、かなわなかった。。
「……セニ、君は許してくれるかな」
崩れ落ちそうになるセニを抱きかかえながら、その瞼に、幾度も口付ける。
好きだよ。
強烈な睡魔に攫われるその瞬間に、ノイシュの声が聞こえたような気がした。
「……ノイシュ。こっちは大丈夫。ふたりともぐっすり眠ってる」
背後からティーオに声をかけられる。
「見張りは四人。全部始末したってさ。あとは交代時間前に全て済まさないとね」
「……こっちも」
セニを抱きかかえて、振り返る。
「嫌な仕事だった」
ティーオのこんな弱音を聞くのは、ノイシュも初めてだった。
ふたりとも、慣れていたつもりでいた。
「胸が痛いよ。この人たち、みんないい人過ぎる。……人を騙すのがこんなに苦しいなんて知らなかった。なけなしの良心が痛んでつらい」
「……悪かったよ、ティーオ。……俺だって、こんな苦しいと思わなかった」
眠ったままのセニを抱きあげて、歩き出す。
「……夜明け前までに国境を越えよう。もう後戻りは出来ない」
ぱしゃん、と水の跳ねる音が聞こえた。
「……セニ。おい、セニ、しっかりしろ!」
軽く頬を叩かれて、セニはゆるゆると目を開く。
「生きてるな。よしよし」
燃えるような赤い髪に、大きな手。
「……ジェイラス…さん…?」
どうしてここに、という言葉は声にならなかった。
頭は霞がかかったようにはっきりしない。
「ノーマ、セニの意識が戻った。……噂に聞いた事がある。ルトラース家には、飲むと一定時間、仮死状態になる秘薬があるとか。多分それだ」
声は聞こえている。それなのに何を言っているのか全く理解出来ない。
セニは再び眠りに落ちようとしていた。
「……セニ、だめだ。落ちるな。……しょうがねえな」
ジェイラスはセニを抱きかかえて、軽く揺さぶる。
「リュカルド殿もニノン殿も、無事ですよ」
バートラムの声が聞こえる。
無事? 何の事?
セニの疑問は言葉にならない。微かに唇が動くだけだった。
「ノーマ、ブランドール卿は?」
「逃げた賊を追ったまま、まだ戻ってきていない。マデリア国境を越えられたら終わりだが、向こうも必死だ。追いつけるかどうか」
バートラムが屈みこんで、ジェイラスの膝の上のセニを覗き込む。
「セニ殿、水を。……身体に残った薬を薄めなければ」
唇に冷たい水が触れる。セニは何とか流し込まれるそれを飲み下す。
少しでも気を抜くと、意識はまた泥の中に沈み込んでしまいそうだった。
セニは必死で重い瞼を開く。
一体何があったのか、ノイシュのあの言葉は、あの口付けは。
夢じゃないの?
言葉は何一つ、声にならない。
「夜が明ける。……今は、無事だった事に感謝しよう」
バートラムは意味深に呟く。
ジェイラスは無言でセニを抱き起こす。
そのジェイラスの胸にもたれながら、セニは昇る朝日を見つめる。
やっと気付いた。
霧煙る、夜明けの葦の海原。
ここは、あの湿原のほとりだ。
混乱したままのセニを置き去りに、静かに夜が明けようとしていた。
澄んだ水面から、生まれたばかりの霧が立ち昇っていた。曇り硝子のような明け方の空に溶ける霧を見上げる。
霧が生まれる瞬間を、初めて見た、とセニはぼんやりと見つめる。
「……ノイシュと…ティーオは……?」
乾いて擦れた声だった。自分の声だとは思えないほど、弱く、震える声だった。
バートラムもジェイラスも、答えない。
無言のまま、ただ昇る朝日を見つめるだけだった。