その燃え上がる炎は、返り血に濡れたルーヴの横顔を照らす。
「……ルーヴ様。ベルラン王がお怒りです。すぐに王都に戻るようにと使者が参って……」
そう告げるアレクシスに見向きもしない。
「追い返せ」
それだけを言うと、控えていた兵士に向き直る。
「村から逃げ出そうとする者は全員射殺せ。弓兵をもっと配備しろ。……一人も生かしておくな」
もう誰もルーヴを止められない。
この狂ったような無慈悲さが、『血に飢えた大狼』といわれる所以だ。
ここ数ヶ月は落ち着いていたが、以前はこんな事は日常茶飯事だった。
逆らう者、刃向かう者は絶対に赦さない。
その残虐さを、アレクシスはずっと見続けていた。
ルーヴの領地から、ルーヴの配下の者を拐かす。
それも、ラーンの王族が堂々と侵入して、だ。
ルーヴにとっては死ぬほどの屈辱だ。これほど侮られて黙っているはずがない。
村をひとつふたつ焼いただけでは収まらない。
これからどれだけ荒れ狂うかを思うだけで、アレクシスは気が重くなった。
もしあの時にレトナ兄弟の奪還に失敗していたら、アレクシスの首が繋がっていたかどうか。
長年仕えた重臣でも、事が起これば躊躇いなく首を撥ねる。
ルーヴはそういう男だ。
アレクシスが初めてルーヴの側仕えに上がったのは、十歳の時だった。
王子の遊び相手として、そして将来は王子の騎士になるために、側仕えに上がったのだ。
特に期待も何もない。予定されたコースを歩くためだけに、当然のように、城にあがった。
王子なんて我が侭で暴君なものだろう、と最初から期待も何もしていなかった。
確かに自分が仕える事になった王子は、我が侭で暴君で、身勝手だった。
城の中で愛され、大切に育てられた世継ぎの君なのだから、当然と言えば当然だ。
けれど、どこか憎めない、不思議な魅力のある王子だった。
乱暴だけれど繊細で、身勝手だけれど思いやりがあった。
不思議な魅力のある王子。
それがこんな風に心を乱すようになってしまったのは、あの頃からか。
あの事件は、複雑にこじれ、絡み合った運命の糸は、関った全ての人に、不幸を齎した。
一体、何を恨み、何を悔やめばいいのか、誰を憎めばいいのか、もうわからなかった。
セニを責め苛んでいた異常な睡魔は、ようやく収まったようだった。
やっと自力で動けるようになり、数日振りにテーブルについて朝食をとる事が出来るようになった。
「ご兄弟も王都に滞在していますよ。再び拉致される可能性が排除しきれなかったので、全員別々にご滞在いただくことになってしまいましたが」
差し向かいでバートラムと朝食をとる事になるとは。
彼はずっと警備のためにアレクシスの別邸に寝泊まりしていた。
「……もう日付の感覚が全くない。……どれくらい会ってないんだろう」
セニは甘く煮られたパンがゆをスプーンですくい取る。
ハチミツで甘くした牛乳に、千切ったパンを浸し、煮て作る。シンプルでいながら栄養価に富んでいる。
子供の頃、病気になるとよくジェラルディンが作ってくれた事を思い出す。
「あれからちょうど昨日で一週間ですね。……お二人もとても心配していましたよ。今日、こちらに来るという連絡がありました」
バートラムは朝はお茶とパンと果物のみ、という質素なスタイルのようだ。
ストイックな雰囲気を漂わせているバートラムらしいな、とセニはどうでもいい事を考える。
「……そういえば、いつだったか、ルーヴの夢を見た」
病み上がりで食欲がわかない。
衰えた体力を取り戻すために、セニはなんとか口に運ぶ。
「それは夢ではありませんよ。一昨日、王都に戻られたルーヴ様が夜半にお越しになり、明け方まであなたの部屋で過ごされていました」
夢じゃなかったのか。
あまりに眠り続けていたせいで、現実と夢の境界が曖昧だった。
いっそ、バートラムの話が全部夢だったらいいのに、とセニは思う。
「ルーヴ様はあれからずっと北のラーンとの国境に駐留なさってますね。第四軍も一緒なので、ブランドール卿も。私とジャコー……ジェイラスの事です。警備のために王都に留まりました」
そういえば、ジェイラスとバートラムはルーヴの近衛騎士だと聞いていた。
その二人を護衛につけるのだ、事態の重さがセニにもよくわかる。
「ジャコーはリュカルド殿と同行しています。ニノン殿は女性なので……私の自宅ならば、妻と娘がいて気晴らしになるかと思い、お連れしました」
バートラムの行き届いた配慮に、セニは心から感謝する。
「色々ありがとうございます、バートラムさん。……迷惑をかけてごめんなさい」
思わず詫びる。
「いいえ、とんでもありません。……こんな国同士の争いに、あなた方のような……子供を巻き込んでしまった事を、とても不甲斐なく、申し訳なく思っているのは私たちの方です」
セニは何て答えればいいのか、分からなかった。
もう誰が悪いのか、何が悪いのか、どうしたらいいのか、なにもかも分からなかった。
扉をノックする音が響く。
「お客様がお見えになりました」
セニは弾かれたように駆け出す。
「……リュカルド、ニノン!」
もうずっと会っていない気がしていた。何十年も離れ離れになっていたような気すらしている。
「セニ……!」
ニノンはセニに駆け寄りしがみつき、声をあげて泣き出した。
「無事でよかった、セニ。会いたかったよ。会いたかった……」
久し振りにあうリュカルドは、随分憔悴しきっていた。ニノンごとセニを抱きしめて、声を詰まらせる。
リュカルドの涙を見たのは、いつが最後だったか。
そうだ、養父が亡くなった時。あの時が最後だった。
語る言葉を三人ともなくしていた。ただ、言葉もなく、抱きあい続けるだけだった。
一時帰宅を許されて、兄弟三人が揃ってルシルの街に戻ってきたのは、あの事件から二週間ほど経ってからだった。
一時護衛から外れていたバートラムとジェイラスがこの帰郷には同行している。
その厳重な警戒を見ていると、もう二度と元の生活に戻る事が出来なくなるのではないかと、不安がよぎる。
「でね、でね……。バートラムさんの娘さんとっても可愛いの。『だからあたし、ジャコーちゃんのお嫁さんになるのよ』って……」
ニノンは沈黙を恐れているのか、必死で話し続けている。
リュカルドもセニも、笑顔で頷いて、話を聞き続ける。
誰もがあの話題に触れないし、触れようともしないし、触れたくもないのだ。
ノイシュの事も、ティーオの事も、養父母の事も、エシルの王子の事も。
全員が、知ってしまった。
もう知らなかったあの頃に戻れないなら、戻ったふりをするしかなかった。
「……でね、バートラムさんの奥さんが、『ノーマだって、私が十五歳の時に……」
「それくらいにして頂いて、手が止まっていますよ」
背後でこほん、とわざとらしく咳払いをするバートラム。見るからに焦っているのが分かる。
余程触れてほしくない話題のようだ。
「ニノンちゃん、ノーマをいじめるのはそろそろやめてやれ。……こいつ本当に焦ってるから」
腹を抱えて笑いながらジェイラスが止める。
聞けばこの二人は騎士見習いの頃からの付き合いで、こんなに性格が正反対なのに、不思議なほど仲がいい。
ジェイラスの陽気さとニノンのおかげで、重い雰囲気は大分和らいでいる。
セニは心の底からそれに救われていると感謝した。
バートラムがこんなに慌てている姿は初めてだ。
気まずいのか、ささっと家の外に出て行ってしまった。
「さ、お前らも早く荷物まとめろよ。日の高いうちに出発したいからな」
身の回りのものと、置いていけないものをまとめる。
もう帰れないかもしれないと、全員が意識していた。
ふと、セニはあの日、井戸にランタンを置き去りにしてきた事を思い出した。
「……ちょっと外に。ランタンをしまっておかなきゃ」
セニは玄関に向かう。
井戸であった事を、あまり思い出したくはなかった。
思い出すだけで混乱に拍車がかかる。
ノイシュの唇の感触とあの言葉を、忘れてしまいたかった。
『……セニ、君は許してくれるかな』
あの悲しみが篭もる声が耳元で蘇る。
セニは振り払うように頭を振った。
井戸に向かうと、家の裏手の方から話し声が聞こえてくる。
バートラムと、誰か兵士の声か。
「……事実だとしたら面倒な事になったな。……それで、どの軍が向かっている」
バートラムの声はくぐもってはいたが、十分セニの耳に届いている。
「未確認ですが、ルーヴ様が第一軍を率いて移動中だと聞きました」
「ラーンからの移動ではかなりの時間がかかるな」
「イルトガ国境はバル峠を越えなければなりませんから、バル峠で防衛が可能ならばある程度は持ちこたえられるのではないかと思います」
「こんな時に、イルトガが侵攻を開始するとは予想しなかった。……レトナ家の子供たちをまず王都に戻す。イルトガも諜報員くらい放っているだろうし、この騒ぎを知られた可能性がある。イルトガ国境はここから近すぎる、早く王都まで戻らなければ」
ルーヴがイルトガ国境に向かっている。
バル峠。
もう何も考えられなかった。
セニは思うよりも早く、駆け出した。
もう何も考えられなかった。
ただひたすらに、バル峠を目指し、平原を駆ける。