アレクシスは忌ま忌ましげに吐き捨てる。
「この濃い霧のおかげでここも防衛に向いている訳だが、こう深いと動けもしない」
苛立ちながら手にしていたランプに灯りを灯す。
「ブランドール様、灯りは目印になってしまいます」
帯同の兵士が慌てて止めようとする。
「仕方がない。灯りがなければ同士討ちもしかねない」
ランプを翳しても、霧は深すぎて目の前すら覆い隠される。
「……どうせ相手は山賊どもだ」
バル峠に駐屯していた部隊からのイルトガ王国の侵攻があったという報告で第四軍を動かしてみれば、イルトガ兵に偽装した山賊どもが暴れているだけだった。
たかが山賊に一軍を動かして、無駄骨を折った。
誤報に呆れて軍をラーンに戻そうとしてみれば、この濃霧。
迂闊に軍を動かせない。
この濃い霧の中で悪路の山道を下るのは危険すぎる。
しぶしぶ霧が晴れるまで留まる事になってしまった。
血気盛んな兵士達の一部は山賊討伐に出て行ったが、この濃い霧では同士討ちが懸念される。
アレクシスは振り返って兵士に指示を出す。
「野営地に灯りを灯すように伝えろ。それから、山賊退治に出た者にも灯りを持たせるよう、伝令を出せ。……同士討ちだけは避けさせろ。無駄に戦力を削ぐ事はない」
兵士は頷いて野営地へ向かう。兵士を見送って一人になると、アレクシスは再びランプを翳し、辺りを窺う。
こんな深い霧を見たことがない。
白い闇のようだった。
何もかも覆い尽くされて、方向さえ見失いそうになる。
この霧の中では山賊どもも身動きは出来ないだろう。
踵を返し、野営地へ戻ろうと数歩歩いた時だった。
濃い霧の中から、ぽきん、と小枝を踏む音が聞こえた。
「……誰だ」
鋭く誰何しても、答えはない。
アレクシスは冷静にランプを地面に叩き付けると、剣に手をかけ鞘から解き放った。
「山賊か。……相手になってやる。来い」
不意にあらぬ方向の濃い霧の谷間から、白い手が差し伸べられる。
「……た……」
途切れ途切れに細い、小さな声が響く。
「……っ……!」
白い手は一瞬でアレクシスの胸元まで伸びる。霧で濡れた両手を伸ばし、この濃霧の中に引き込むように、手繰り寄せる。
深い霧に迷い出た亡霊か、魔物か。一瞬アレクシスは混乱する。
「……ルーヴ……!」
白い手の主が胸元にしがみついてくる。
霧に濡れた冷たい身体。凍えた手。見覚えのある、柔らかな濃い栗色の髪。頼りなげな幼い肩。
「…………セニ?!」
何故、ここにセニがいる?
アレクシスはますます混乱する。霧が見せる幻なのか、白昼夢なのか。
霧の中から突然現れたセニは、アレクシスの胸に顔を埋め、小さな嗚咽を漏らす。
「ルーヴ……ルーヴ、会いたかった……! ……会いたかった!」
声をあげて泣きじゃくるセニに、言葉が出ない。
「お前が何故、ここにいる? ……魔物の見せる幻ではないのか」
セニはやっと顔を上げた。
顔を上げた瞬間、凍りついた目でアレクシスを見上げる。
「……アレクシス…さん……?」
「何故こんなところに。……ひとりで山を越えたのか。無茶をする子供だな。この辺り一帯に我が軍の兵士も山賊もひしめいている」
セニは目を見開いたまま、答えない。
「……ルーヴ様は、ここにはおられない。……ラーン国境に駐屯なさっている」
アレクシスの胸元を掴んでいた両手から、不意に力が抜ける。
「……セニ?」
崩れるように倒れ込むセニを抱えて顔を上げさせるが、気を失ったようだった。
血の気のない頬を軽く叩いても、身動きすらしない。
見れば、両手も両足も、無数の擦り傷があった。
霧深い山道を駆ける間に、藪に傷付けられたのか。
身体は霧に濡れ、氷のように冷たかった。
まさか、ルシルの街からここまで走ってきたのか?
アレクシスは意識のないセニを担ぎ上げて、歩き出す。
ルシルからこの峠はそう遠くはないが、優に半日以上はかかる。更にこの野営地までは、子供の、それも馬もないならば、相当に時間がかかる。
名前を呼んでいた。
泣きながら、ルーヴの名前を。
「…………ここは?」
気がついたのか、寝台に身体を起こしてセニは辺りを見渡す。
「バル峠の野営地の……ここは私の天幕だ」
アレクシスは素っ気無く答える。
セニは俯いてそのまま黙り込んだ。
「……ルーヴ様を探していたのか。ルーヴ様はラーン国境にいらっしゃる。……お前は何故、こんな無茶をした」
俯いたセニは、肩を落としたまま、答えない。
「イルトガ軍の侵攻があったと、ルシルにも連絡があったはずだ。結局は誤報だったが、ここが戦場になっている可能性もあった。……そんな危険な場所に、何故お前は無謀にも踏み込む」
セニは俯くばかりで、答えない。
アレクシスは肩を竦めて椅子に座ると、俯くセニの項を見つめる。
霧の中から白い手が伸びた時は、霧の妖魔に魅入られたのかと思った。
冷たい手でアレクシスを引き寄せて、しがみついたセニ。
普段のセニからは考えられない激しさで囁いたあの言葉。
この子供のどこにあんな激しさがあったのか。
まるで。
まるで、あれだ。
……やっと巡り合えた恋人に囁くような。
鈍いアレクシスでも、ようやく納得が行く。
セニの意味の分からない言動、上の空な態度、ルーヴの理由の分からない苛立ちと不興。
やっと一本に結ばれた謎に、アレクシスは思わず小さく呻く。
俯いたままのセニに、アレクシスは再び語りかける。
「……霧が晴れたなら、誰か適当な者にルシルまで送らせよう」
膝の上で握られたセニの拳は、小さく震えていた。
妙な子供だと思っていた。
気味が悪いほど落ち着き払っているかと思えば、上の空でぼんやりしている事もある。
何を考えているのか分からないような得体の知れなさがあったが、今こうして目の前にいるセニは。
迷子の子供のように、捨てられた子犬のように、心細げに、寂しげに映る。