てのひらにひとひらの花

#07 異端な主人

 もう夏も半ばを過ぎ、強い日差しも暑さも大分落ちついてきた。
 あれから、雨の日以外は毎日、木陰のポーチでエルネストと一緒に文字の勉強をしていたミカはめきめき上達し、長文も書けるようになったし、本も読めるようになっていた。
「随分読み書きできるようになったな。これだけ読めて書ければ、俺が教えることはもうない」
 エルネストはミカが手本なしで書いた文章を眺めながら、珍しく褒めていた。褒められてはいたが、もうこれで勉強は終わりなのかと思うと、ミカは名残惜しくて仕方なかった。
 エルネストと勉強をするのは、とても楽しかった。読み書きできるようになるのが楽しいだけではない。
 最初はエルネストを少し恐れずにいられなかったが、毎日一時間から二時間、こうして吹き抜ける風が心地よいポーチで一緒に過ごすうちに、そんな恐れをすっかり忘れ去っていた。
 エルネストはミカに手本を与えて時々説明をするくらいで、特に口を挟む事なく、本を読んでいる事が多かった。普段から無口だが、勉強を教える時もそれは変わらなかった。言葉数少なくとも、エルネストはしっかりとミカの勉強を見てくれていた。
 怒鳴る事も、理不尽な暴力を振るう事もない。ミカが間違えても、冷静に間違いを指摘し、正しい読み方、書き方を教えてくれる。
 勉強が楽しかったのは、間違いなくエルネストのおかげだとミカも分かっていた。もうこうして教えてもらえないのかと思うと、ミカは落胆せずにいられなかった。
「次は算術だな。大半の帳簿は俺がつけているが、バルテルに任せているものはミカに引き継いでもらうし、日常的に買い物でも作業でも、なにかと計算は必要になる。明日からは算術を教える」
 思ってもみなかったエルネストの言葉に、すぐにミカは返事ができなかった。ぽかんとエルネストを見つめてしまう。
「読むのは書庫の本を持っていっていい。暇な時間に読むのも勉強のうちだ。それから、文字や文章は書き慣れるのだが大事だから、できるだけ毎日、日記をつけるといい。今日はどんなことをしたか、そういうのを書きとめておけば、書き慣れてくる……ミカ、どうした?」
 呆然としていたミカは、エルネストに呼びかけられ、我に返った。
「は、はい! ありがとうございます!」
「買い物に出るにも出入りの職人に賃金を支払うにも、計算が必要になる。こっちは文字より面倒だから、覚悟しておくんだ」
 エルネストはそう言いながらポケットの中を探り、小さな革細工の小銭入れを取り出した。
「今日、午後からバルテルと街に行くんだろう」
 その通り、ミカは初めてバルテルと一緒に街に出掛ける事になっていた。今日からバルテルについて歩き、利用している職人の店や市場での買い物を覚えなければならない。
「街で買い物をした事はあるのか?」
「ええと、少しなら……。父さんと母さんと一緒に、市場くらいなら」
 あまり豊かな生活ではないミカたちでも、街で商売をして収入があれば、食料や旅に必要なものを買うために、市場に行くことはあった。ミカも流民狩りで捕らえられる少し前から、自分で薬草を集め、商いをするようになり、小銭を貯めているところだった。
 いつか両親に、暖かくて素敵なコートやマントを買って、プレゼントするつもりだったことを思い出す。それはもう叶わない夢だ。
 エルネストは頷くと、ミカのてのひらに小銭入れを載せた。
「これはお前の財布だ。これから時々、こうして小遣いを持たせるから、欲しいものを買って、買い物の仕方を覚えるんだ」
 ミカは驚いててのひらの小銭入れと、エルネストの顔を見比べてしまった。
 奴隷なのに? 病気で死にかけている僕を、お金を払って買い取ってくれたのに? お医者さんに診せてくれて、お金もかかってしまったのに?
 そう思っても、言葉は声にならない。どう言えばいいのか分からなかった。
 エルネストはミカの狼狽に気付いているのかいないのか、まるで気にしていないようだった。
「これで買えるものなら、何を買ってもいい。好きなものを買ってこい」
 そう言うと、エルネストは立ち上がって杖を取り、歩き始めた。ミカは慌てて椅子から飛び上がり、エルネストの後ろ姿にもう一度、感謝を伝える。
「ありがとうございます、エルネスト様! 大事に使います!」
 エルネストはいつものように素っ気なく、特に返事をする事なく、部屋を出て行った。
 着る物も食べる物も、当たり前のようにエルネストは与えてくれている。病気で働けない時からずっとだ。街の子と同じように読み書きができるくらい、勉強も教えてくれた。
 それなのに、こうして好きな物を買える小遣いまで。
 ミカはてのひらの小銭入れをじっと見つめる。
 欲しいものなんて、何もない。今、欲しいものは、エルネストやバルテルの役に立てるような、そんな能力くらいだ。



 バルテルに連れられて、ミカは初めて、エリン市の商店街にやって来た。
「今日はエルネスト様の新しい靴を取りに行くだけなんだよ。だから時間の余裕はあるんだ。もしミカが行きたいところや欲しいものがあったら、言っておくれ。遠くなければ寄って、ミカの買い物をして帰ろう」
 はぐれないようにバルテルと手を繋いで歩きながら、ミカは珍しさのあまり、首が痛くなりそうなくらい、きょろきょろと辺りを見渡していた。
 大きい街に来る事はあっても、商店街をゆっくり見物して歩く事はなかった。ロサ族ののような流れ者は時々市場に立ち寄るくらいで、商店街に立ち入るのは憚られていた。ミカにとってはこんな華やかな商店街は初めて見るものだ。
 商店街はきちんと隙間なく並ぶ石畳で舗装され、色とりどりの煉瓦と漆喰で作られた建物はどれも手入れが行き届き、とても洗練されていて、上品な雰囲気だ。並ぶ商店の合間に、鮮やかな天幕で飾られた露店も並んでいるが、どれも整頓されており、商店街の美観を損ねていない。
「ミカや、欲しいものがあったら遠慮なく言うんだよ」
 バルテルはまるで孫と散歩するかのように、穏やかで楽しそうな笑みを見せている。あまりにも平穏で幸せな生活で、ミカも自分が奴隷だという事を忘れそうになる。
 奴隷と言えば、この商店街で奴隷らしい人を全く見かけない。客はもちろん、商店や露店で働く者にも見かけていない。
 ミカは奴隷がどんなものか、自分で経験した事しか分からないが、今のミカの状態は、珍しい事なのではないかと思っていた。奴隷商たちは、よく『死にたくなければせいぜい媚びを売ってよく働け』と言っていた。中には大事に扱われる者もいるかもしれないが、大抵の者が人並みの扱いを受けることなく死んでいくのだと、皆、悟っていた。
 しばらく商店街を歩き、一段と華やかで上品な通りにやってくると、バルテルは一軒の店の前で立ち止まった。今のミカなら、看板も読める。ここは靴屋だ。
「ここがエルネスト様が贔屓になさっている靴屋だよ。他にもいくつかあるから、それはまた今度教えよう」
 ミカが繋いでいた手をするりと離し、店の前で待とうとすると、バルテルは穏やかに話し掛けた。
「ミカも一緒に来るんだよ。店主に紹介しておかないとね」
 優美な細工を施された扉を開くと、すぐに店主の明るい挨拶が響いた。
「いらっしゃい、バルテルさん。若旦那の靴はできてるよ。……おや、今日は随分可愛い子を連れてるね」
「ああ、この子は私の仕事を引き継いでくれるんだよ。ミカというんだ」
 バルテルに促され、ミカは慌てて挨拶を返す。
「こ、こんにちは……」
「そういえばバルテルさんは首都に帰って隠居するって話だったっけね。ああ、この子は奴隷なんだね」
 バルテルより少し若いくらいの店主はてきぱきと品物の用意をしながら、ミカの左手をさりげなく見ていた。
 左手には、エリン市の紋章とルベール家の名前が刻まれた革のバングルがある。一目で奴隷と分かる仕組みだ。
「ぼうや、頑張って働くんだよ。仕事ができる奴隷はどこでも引く手あまただからね。バルテルさんの後が継げるくらいなら、そりゃあ立派なもんだよ」
 店主の口調は、決して奴隷を蔑むようなものではなかった。
「他の国じゃどうかしらないが、この国では、執事や家令を務める奴隷もいるくらいだからね。家令や執事のような仕事ができるようになれば、どこの屋敷に行ったって大事にされるさ」
 ミカも後に知る事になるが、奴隷にも激しい格差があった。家畜のように酷使される奴隷から、まるで執事のように屋敷の切り盛りを任される者まで、多岐に亘る。当たり前だが、そんな実務を任されるほどの奴隷は数少ない。大抵が使い捨てられる消耗品だった。
「は、はい。頑張って働きます」
 そう答えながら、ミカは商店街に奴隷らしい人を見かけなかった事を思い出した。もしこういう商店街で働くなら、一般の使用人のように扱われているのかもしれない。
 奴隷と使用人の違いは、自由と給与があるかないかの違いかもしれないが、ミカは小遣いも自由もエルネストから与えられている。エルネストの優しさかもしれないが、もしかしたらそれはとても異端な考え方なのかもしれない。
 仕立てた靴を受け取り、会計を済ませたバルテルはミカを連れ、再び商店街を歩き始めた。
「ミカが荷物を持ってくれるから、私は随分買い物が楽になったよ。ありがとう。あとは市場を見て、ミカの買い物が終わったら、貸馬車を借りて帰ろうかね」
 受け取った荷物は片手で持てるくらいの物で、決して重くはない。それでもバルテルはミカを労ってくれる。
「ミカは欲しいものが決まっているかい?」
「あ、あの、手紙を書く紙がほしいです」
「便箋の事だね。他にはないのかい?」
「ほかに……」
 ちょうどその時、花を満載した露店の前を通りかかった。
 生成りの天幕と柱には、色鮮やかで綺麗なドライフラワーやリースがたくさん飾られている。もちろん、絢爛に咲き誇る生花もだ。季節の花が贅沢に満載された、華やかな露店だった。


2021/01/08 up

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