ルサカが恋しいのもあるが、ルサカの作った林檎酒も恋しい。
どうにも苦手な蜂蜜酒を流し込みながら、ライアネルはため息をつく。
よその店の林檎酒も飲んではみたが、ルサカの作った林檎酒が一番うまかったなあ、とかライアネルは振り返る。
ライアネルの好物を熱心に研究し試行錯誤しては、それはそれは美味なものをいつも作ってくれていた。
ライアネルが自分の好物を口にするたびに、それはルサカを強く思い出させるきっかけになる。
それくらいに七年間は、深い思い出ばかりの日々だった。
ライアネルは最初、ルサカを騎士にしようと考えていたが、ルサカは全く向いていないし、やる気もなかった。
かわりに、料理や掃除などの家事や勉強は得意。工作、繕い物などの細かい作業も大好き。唯一、外に好んで出るのは家庭菜園や庭の手入れ。
もしルサカが女の子だったら、この家事能力にこの頭の良さ、それにこの美貌に、明るく元気な気性で、年頃になったらライアネルの屋敷の前に求婚者の列が出来ただろうな、と思っていたものだ。
女性に生まれなかったのは、ルサカを奪い合い、決闘などで無駄に命を失う若者を出さないためかと思うほどだったが、男性でも、この世ならざる美しさは、不幸しか齎さないのかもしれない、とライアネルは思う。
もしもルサカが質素な性格と同じように質素な容姿で生まれたなら、竜や人攫いに狙われる事もなかったのではないか。
平凡で幸せな人生を歩めたのではないかと考えてしまう。
「ライアネル様、明日で休暇終わっちゃいますよ」
ジルドアは蜂蜜酒が大好きなようで、ぐいぐい飲んでいる。
竜への献上品を祭るというこの街に滞在して、竜に接触するチャンスを狙っているものの、肝心の竜がなかなか現れないうちに、ライアネルの休暇が終わってしまいそうな風情だ。
「作った祭壇の場所が悪かったんですかねえ、街の中央広場という、いかにも見世物的なのが竜のお気に召さなかったか。……まあ今更こうして街外れの空き地に移してますけど。来るんですかねえ」
最初のうちは、街の中央の広場に設置されていたが、竜が現れる気配が全くないので、街の住人達は話し合った末に、街外れのひっそりとした草地に設置しなおしていた。
そして広場そばの酒場で張り込んでいたライアネルとジルドアも、この草地のそばの寂れた酒場に張り込み場所を替えた。
「竜の好きそうなキラキラした財宝に酒もたっぷりなのに。竜は何してるんですかねえ。全く反対方向の街にでもいるのかなあ」
竜の貢ぎ物を供えてある場所で張り込めば、すぐにも竜に接触出来る、とライアネルは楽観していたが、全くそんな事はなかった。
待てど暮らせど現れない。
「休暇が終わるのが先か、竜が現れるのが先か」
次に休暇を取れるのは何ヶ月先だろう、とライアネルは小さくため息をつく。
いっそ、私財を投げ打って自宅の庭先に供物の祭壇を作ってやろうか、などと思い始めている。
「これで現れるといいんですけどね」
「とりあえずもう今日は酒はやめておく。せっかくの草地だし、転がって日光浴でもしてくる」
「じゃあ私はこれを飲み終わったらお付き合いしますよ」
蜂蜜酒を楽しむジルドアを置いて、ライアネルはカウンターで清算を済ませ、店を後にした。
冬の空は冷たく綺麗に澄んでいた。この時期は、寒さが厳しいが嫌いではなかった。
草地の隅の倒木に腰掛けて、高く澄み渡った空を見上げる。
そういえば、ルサカが家に来た時も、こんな時期だった事を思い出す。
一緒に暮らして七年、すっかり生活にルサカがいるのが当たり前になっていた。
家に帰っても、あの明るく元気な出迎えがない寂しさや悲しみは、言葉にし尽くせない。
俯いて、じっと手のひらを見つめる。
元気でいるのか、辛い目にあっていないか、それだけでも知りたかった。
その時、晴れ渡って草地を照らしていた空が不意に翳った。
何事かとライアネルが空を振り仰ぐと、それは、巨大な何かが大きな羽を広げ、草地に降り立つところだった。
ライアネルは生まれて初めて、ファイアドラゴンを見る事になる。
羽を広げたこの姿は何フィートになるのか。あまりの大きさに、息を飲む。
うっすらと青い焔を纏った、文字通り燃える紅い鱗に覆われたその身体は、美しく、神々しささえ感じられる。
その巨大な身体が、音もなく静かに草地に舞い降りた。
ファイアドラゴンは、ライアネルに気付いたのか、聞いた事もないような不思議な鳴き声を一声あげる。
威嚇ではない、警告か。
ライアネルは思い切って、数歩近づく。
「ファイアドラゴンよ、決して危害を加えるつもりはないし、敵意もない。……ご覧の通り、丸腰だ」
ライアネルはクロークをくつろげ、武器を持っていない事を示す。
ファイアドラゴンのすみれ色の目は、ライアネルをじっと見つめている。
話を聞く素振りはありそうだった。
「どうか教えて欲しい。少年を連れ去っていないか。……新緑色の目をした、濃い焦げ茶色の髪の、十四歳の男の子だ。……名前をルサカ、という」
ファイアドラゴンは明らかに、その名前に反応を示した。そう、ライアネルには思えた。
すみれ色の瞳が、ライアネルを凝視している。
「ルサカをもし連れ去ったなら、返して欲しい。……大事な家族なんだ。とても心配している。もしも返せないというなら……一目だけでも。せめて元気で暮らしているのか、悲しんでいないか、辛い目にあっていないか。それだけでも知りたい。……せめて、最後に別れの挨拶だけでも。……さよならさえ言えずに、もう二度と会えないのは、諦めきれずに一生悔やみ続ける事になる。……頼む。ルサカに一目だけでもいい、会わせてくれないか」
ファイアドラゴンは、静かに最後まで、ライアネルの話を聞いていたように見えた。
一声、先ほどと同じように、不思議な鳴き声をあげると、祭壇の供物を鋭い爪の前足で掴みあげ、羽を広げた。
「ライアネル様!」
ジルドアが店から飛び出してくるのが、視界の端に見えた。
恐らく、この竜は人の言葉を理解している。
そして、ルサカを知っている。
言葉を発しなくとも、ルサカの名前に明らかに反応を示した。これはライアネルの勘違いではないはずだ。
ファイアドラゴンは、降り立った時と同じように、静かに舞い上がった。
これほどの巨体で、音ひとつたたない。ただ、羽ばきで巻き起こる風はすさまじい勢いだった。
草地の花や木の葉や砂埃が激しく巻き上がる。
ライアネルはファイアドラゴンの激しい羽ばたきから顔を背けた。
「どうか、ルサカの安否だけでも!」
最後のライアネルの言葉がファイアドラゴンに届いたかどうか。
空高く舞い上がるファイアドラゴンを振り仰ぎながら、ライアネルは祈る。
どうか、ルサカに届くように。
月の綺麗な夜だった。
大きな満月が古城を照らしていて、ルサカは毛布を持って古城の天辺の、いわゆる『本物の竜の巣』まで、登って来ていた。
「……タキア、すごく月が綺麗だよ」
タキアは疲れて人になれないのか、竜の姿のままだった。
巣に蹲って羽をたたんだタキアは、ちょうど、猫が伏しているような、あんな感じの姿だった。
ルサカは毛布を抱えて、タキアの鼻先まで寄って来る。
「すごく疲れてるのかな。……焔が消えてる」
薄く身体に纏っている青白い焔は、今は消えていた。ただ艶やかに煌めく紅い鱗に包まれた鼻先を、両手で抱いてルサカは軽く口付ける。
「今日はここで寝ていい? ……寒いかな。でも、タキアにくっついていれば大丈夫だよね」
毛布に包まって、猫のように伏したタキアの鼻先と鋭い爪に覆われた前足の隙間に滑り込む。
タキアはそのすみれ色の瞳を薄く開いて、ルサカの好きなようにさせている。
「タキア、もう眠いのかな。……お疲れ様、おやすみなさい」
ルサカはタキアの鼻先に頬を摺り寄せて、目を閉じる。
眠れるはずがない。
タキアは昼間の事を思い返す。
あの騎士は、確かに『ルサカを返してくれ』と言っていた。
ルサカには似ていない。兄や父親ではなさそうだった。
けれど、『大事な家族』だと言っていた。
ルサカの口から、家族の話を聞いた事がなかった。
ただ、家に帰りたい、とルサカは何度も口にしていた。
タキアは、自分はずるくて卑怯だな、と心の中で呟く。
どんな顔をしてルサカに会えばいいのか、何を言っていいのか、わからなかった。
人になれないふりをするなんて、我ながらなんて卑怯だ、とタキアは思う。
そんな時に限って、ルサカがとても優しい。
こんな風に竜の姿の時に添い寝なんてした事はなかった。
ルサカが好きだ、と言ってくれてから、初めて人になれなかった日だからかもしれない。
タキアの鼻先に寄り添って目を閉じるルサカを見ていると、罪悪感で胸がひどく痛んでいた。
家族が探していた、と言ったら、ルサカはまた家に帰りたいと言い出すんじゃないか。
せっかく、一緒にいよう、と言ってくれたのに、また家に帰りたいと、夜中にこっそり泣いたりするんじゃないかと、タキアは不安で仕方がなかった。
ルサカが家に帰りたいと言い出すのも、ルサカが夜中に一人で隠れて泣くのも、たまらなくつらくて、悲しい事だった。
今、やっとこうして笑ってくれるようになったルサカを失いたくない。
ルサカの家族が探していた事を、このまま黙っていたい。知られたくない。
ルサカがまた家を、家族を恋しがる姿を見たくなかった。
悲しむルサカを見るのは、何よりもつらい。
けれどあの時の、悲しみの篭もった騎士の声と、表情が忘れられない。
ルサカが大事だという気持ちは、痛いほどタキアにも伝わっていた。
「……タキア、眠れないの?」
ルサカは眠りが浅い。だから普段も一緒に寝る事はほとんどないのに、今こうして寄り添ってくれているのは、元気のないタキアを心配しているからだろう。
「何かあったのかな。……明日、ゆっくり聞くから。……今日はよく寝て、疲れをとらないとね」
紅く煌めく鱗に何度か口付けながら、ルサカは寄り添って再び目を閉じる。
月明かりに照らされた、ルサカの寝顔を見つめながら、タキアは迷い続ける。