竜の棲み処

#24 繋いだ手を、離さない

 ライアネルの屋敷から攫われて、何日が経ったか。
 そんな何週間も経っている訳ではない。
 それでももうずっとタキアと離れているような気がしていた。
 薄氷の屋敷に来てから初めて、ルサカはレオーネに連れられて、屋敷を守る黒い森の外れにやって来た。
 今は昼間のはずだが、黒い森は夕闇のように、仄暗い。
「……そろそろ君の主が来る頃じゃないかな」
 レオーネはあの時着ていた白いクロークを纏っていたが、これは彼の清廉さをとても強調しているとルサカは思った。
 レオーネがタキアに手紙を送る時、とても長い文章を書き込んでいた。
 それがどんな内容だったのか、レオーネは口を割らない。
 竜の言葉で書かれたその手紙は、ルサカが覗き込んだところで読めない。
 レオーネがすんなりタキアにルサカを返すはずがない、とルサカも思っている。
 この綺麗で穏やかな微笑みの主が、一筋縄でいかないのはよくわかっているが、一体何を企んでいるのか、全く見当がつかない。
 ルサカにあんな意地の悪い要求をしたように、タキアにも無理難題を押し付けるのではないかと、内心気が気ではなかった。
 落ち着かないルサカの様子に、レオーネが小さく笑う。
「……そんなに心配?」
「レオーネ様は意地悪するから、心配です」
 きっぱり言い切ると、レオーネはくすくす笑い出す。
「随分だなあ。……うん。来たようだ」
 黒い森の木々が、一斉にざわざわと枝を揺らし始める。
 こうして来訪者を導き知らせるのかと、ルサカは木々を見上げる。
 仄暗い小道の奥に、人影が見えた。
「……タキア!」
 思わず名前を叫ぶ。
 駆け出そうとしてから、ルサカはレオーネを振り仰ぐ。
 レオーネは変わらずに穏やかな微笑を浮かべたままだった。
「いいよ。……行くといい。どの道、私がいなければ森からは出られないけれどね」
 弾かれたようにルサカは駆け出す。
 何も言葉なんか、何も浮かばなかった。
「……ルサカ!」
 胸に飛び込んできたルサカを抱きしめて、タキアは言葉を詰まらせる。
 言いたい事はたくさんあった。けれど何一つ言葉にならなかった。
 ルサカは夢中でタキアにしがみつく。
「……無事で良かった」
 タキアも言葉にならないのか、ルサカをただ抱きしめて、その柔らかな髪に頬を埋める。
「絶対に連れて帰るから」
 その時、タキアがひどい怪我を負っている事に、ルサカは気付く。
 抱きしめた背中に、包帯の感触があった。
「……タキア、怪我をしてるの?」
「ちょっとね。……もう塞がりかけているから、心配はいらないよ」
 嫌な予感がする。
 タキアにやっと会えて嬉しいのに、今、心の底から、不安になっている。
「……ようこそ、黒い森へ。……私が君に手紙を送ったレオーネ・バーテルスだ。ルサカを預かっていた」
 背後から、レオーネの穏やかな声が響く。
「ルサカを助けて下さって、ありがとうございます。レオーネ・バーテルス卿。心から感謝いたします」
 タキアの手を握り締めたまま、ルサカはその不安と戦う。
 不安に押しつぶされそうなくらいに、胸騒ぎがする。
「ルサカが助かったのは、運が良かった。それだけだったと、わかっているかい?」
「……卿がいなければ、もう二度とルサカに会えなかったかもしれません。僕の責任であると、十分理解しています」
 タキアのせいではない。タキアはあれほど反対して、止めたのだ。
 そう言いたいのに、咽喉はからからに乾いて、声にならなかった。
「……では、約束を果たして頂こうか」
「はい」
 タキアは繋いでいたルサカの手を離す。
「……ルサカ、危ないから下がっていて」
「タキア……?」
「そういう条件で返す事になっているんだよ、ルサカ」
 レオーネは純白のクロークを脱ぎ捨てると、右手を差し出す。
 その右手の掌から、真っ白な霧のような冷気が立ち昇リ始める。
 ぴしっ、と薄氷を踏むような音を立てながら、その冷気は小さな欠片を作り、集い、巨大な剣を作り始める。
 ルサカは今、何が起ころうとしているのか、認めたくなかった。
「……私と戦って、勝てばルサカを返す。……負ければ、私の竜になってもらう。そういう約束だよ」
 レオーネの掌で、みしみしと音を立てながら巨大な氷の剣は成長を続ける。
 意味が分からなかった。わからずとも、不安はますます増していく。
 タキアを見上げると、察したのか、ルサカの髪をそっと撫でる。
「ルサカ。……バーテルス卿は竜じゃない。……竜眼の竜騎士だ」
 竜の眼と高い魔力。それでルサカは、レオーネは竜だと思い込んでいた。
 ふと、思い出す。
 レオーネの手は、その綺麗で穏やかな顔に似つかわしくないほど、無骨で骨ばっていた。
 あんな手を、よく知っていたはずだ。
 剣を握る手だ。
 ライアネルがあんな手をしていたのに、なぜ、気付かなかったのか。
「魔眼を持たない竜騎士は、竜に眼を与えられる。だから人の眼ではなくなるんだよ」
 そうだ。
 ルサカは思い出す。
 レオーネはすぐにルサカが番人になりたての、竜に慣れていない未熟な番人と見抜いていた。
 竜と竜騎士の区別がつかないから、未熟で不慣れだと分かったのか。
「……竜は生涯一人の竜騎士しか持てないけれど……。竜騎士は何度でも竜を持てる。バーテルス卿は、竜を何らかの理由で失った竜騎士だ」
 竜なんか信じられるのか、とレオーネは言っていた。
 生涯を共にするはずだった竜と、一体何があったのか。一体何が起こったというのか。
 今知った事実に、ルサカは混乱を隠せなかった。
「……私に勝ちさえすれば、ルサカを返すけれど。……負ければ、ルサカは共有される財産になるね。それが嫌なら、私に勝つしかない」
 身の丈ほどに成長した氷の大剣を握ると、レオーネは軽々と振り、地面に突き立てる。
 この細身の優しげな姿のどこに、こんな力があるのか。
 レオーネがいつの時代から生きているのかは分からないが、タキアより遥かに戦闘経験あるし、戦闘能力も高いだろう、というのはルサカにも分かる。
 絶対に勝てるはずが無い。
「ルサカ、危ないから離れて」
 差し伸べられたタキアの手の指先から、青白い焔がゆらゆらと立ち昇る。
「ダメだ!」
 ルサカは竜化を止めようとタキアにしがみつく。
「こんな怪我してるのに、レオーネ様に勝てる訳無いじゃないか……! それどころか、命だってわからない!」
「ここで戦わなければ、ルサカを連れて帰れない。……負けても、一緒にはいられる。僕はもうルサカがいないなんて、耐えられないんだ」
 青白い焔は次第に勢いを増し、タキアの身体を覆い尽くしていく。もう竜化を止められないかもしれない。
「ルサカのそばにいられないなら、死んだ方がましだ」
「……ダメだ! そんなの、絶対にダメだ!」
 ルサカはタキアとレオーネの間に立ちはだかる。
「レオーネ様、タキアはひどい怪我を負っている! このまま戦ったら死んでしまうかもしれない。……お願いします。止めて下さい。お願いします……!」
 咽喉が焼けそうに痛む。乾いた咽喉から無理矢理に声を絞り出して叫ぶ。
「私は構わないよ。……彼にはひとりでお帰りいただく事になるけれどね」
 巨大な氷の剣は冷気を放って、みしみしと鳴り続ける。
 ルサカは魔力で作り上げた剣を初めて見たが、それでもこれが恐ろしいほどの魔力を帯びた魔剣だと分かる。
 生身で竜に勝てるほどの強さを誇る魔法騎士が、竜の強靭さと力を得る。
 どれだけの強さか計り知れない。
「……タキアの傍にいられないなら、ぼくだって死んだ方がましだ!」
 そう叫んだ瞬間、誰かがレオーネの剣の前に立ちはだかった。
「レオーネ様、私たちからもお願いします。……ルサカを返してあげて。お願いします」
 流れる蜂蜜のような髪の乙女と、黒い巻き毛の猫のような少年。
 薄氷の屋敷で留守を守っているはずの、リリアとノアだった。
「……まさか、リリア。ここまで歩いてきたのか……」
 足の不自由なリリアが、この距離を移動するのはどれほど困難か。レオーネは思わず言葉を失くす。
「ノアが支えてくれました。ちょっと時間がかかってしまったけれど、間に合って良かった……。お願いします、レオーネ様。……ルサカを返してあげて下さい」
 ふらつくリリアをノアは抱きかかえ、支える。
 そんな二人の姿を見て、レオーネの心が動かされないはずがなかった。
「……レオーネ様だって、分かっているんでしょう。……彼はルサカのそばにいるために、命を賭けられるくらい、ルサカを大事にしているって。誰にだって、過ちはあるもの。お願いします。許してあげて。彼はとても後悔しています……!」
 パン、と氷の砕け散る音が鳴り響いた。
 レオーネの氷の魔剣が砕け散り、無数の小さな氷の欠片が煌めきながら空に舞い散った。
「……ルサカ、こちらへ」
 促されて、舞い落ちる小さな氷の雨の中を、素直にルサカは歩み寄る。
 ルサカの右手を取り、レオーネは短く何かの呪文を唱える。
 ルサカの右の小指に、冷気の糸が生まれ、しなやかに編まれていく。
 数秒でそれが小さな白金の指輪になり、ルサカの小指に収まった。
「これは祈りの指輪だ。……数回しか使えないが、祈ればこの森にたどり着ける」
 ルサカの手を離し、背中を押す。
「……帰りなさい」
 ノアからリリアの身体を受け取り、抱き上げながら告げる。
「……レオーネ様……」
「許した訳じゃない。リリアとノアに免じて、この場を収めるだけだ。……そうだね、勝負はまた次の機会に。それまでは、他に竜騎士を持たないでいてもらいたいものだ」
 レオーネはまたあの穏やかな微笑みを浮かべる。
「レオーネ様、ありがとうございます……!」
 ルサカはまっすぐにタキアに駆け寄る。駆け寄って、迷わずに抱きついた。
「……バーテルス卿、感謝致します。ルサカを救ってくれた事、守ってくれた事を、決して忘れません」
 この時、タキアの声が震えていた事を、ルサカは一生忘れないだろう。
「行きなさい。……森の出口はすぐに閉じるよ。振り返らずに進みなさい」
 横抱きにリリアを抱きかかえて、促す。
 二人は去っていくレオーネたちの姿を見送る。
「……勝算なんて、全く無かったんだけどね。怪我をしていなくても、バーテルス卿には勝てそうになかったな」
 心なしか、見上げたタキアの顔は少し大人びたような気がしていた。
「ずっと竜だと思っていた。……竜騎士はあんな魔法を使うんだね……」
「……竜の力を得た竜騎士に勝てる竜なんてそうそういないよ。多分、兄さんでも無理だ」
 タキアはルサカの手をとって、森の出口に向かって歩き出す。
「ごめん。……タキア、本当にごめんなさい……。こんな事になったは、全部ぼくのせいだ。……ぼくが帰りたがらなければ、こんな事にならなかった……」
 手を繋いだタキアの袖口から、ちらっと包帯が見えた。胸が痛む。
「この怪我も、ぼくのせいだよね……」
「ルサカは悪くないよ。……僕がちゃんと守れなかった、それだけだ。……バーテルス卿の言う通りだね」
「違う! ……なんだよ。なんで叱らないんだよ……」
 思わず涙声になる。
「我が侭言ったのはぼくじゃないか。……ぼくのせいで、タキアがこんな目にあったんだろう!」
 タキアは少しかがんで、ルサカの頬に軽く口付ける。
「ルサカが帰ってきてくれて、嬉しい。……それだけでもう、どうでもよくなっちゃったよ。早く帰ろう。皆心配してるしね」
 変わらずに、子供のように無邪気に笑う。
 その笑顔にこんなにも切なくなるなんて、ルサカは知らなかった。
 ぎゅっとタキアの手を握って、見上げ、微笑みを返す。
「……帰ろう。一緒に」
 繋いだ手を、二度と離さない。



2016/02/19 up

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