そんな何週間も経っている訳ではない。
それでももうずっとタキアと離れているような気がしていた。
薄氷の屋敷に来てから初めて、ルサカはレオーネに連れられて、屋敷を守る黒い森の外れにやって来た。
今は昼間のはずだが、黒い森は夕闇のように、仄暗い。
「……そろそろ君の主が来る頃じゃないかな」
レオーネはあの時着ていた白いクロークを纏っていたが、これは彼の清廉さをとても強調しているとルサカは思った。
レオーネがタキアに手紙を送る時、とても長い文章を書き込んでいた。
それがどんな内容だったのか、レオーネは口を割らない。
竜の言葉で書かれたその手紙は、ルサカが覗き込んだところで読めない。
レオーネがすんなりタキアにルサカを返すはずがない、とルサカも思っている。
この綺麗で穏やかな微笑みの主が、一筋縄でいかないのはよくわかっているが、一体何を企んでいるのか、全く見当がつかない。
ルサカにあんな意地の悪い要求をしたように、タキアにも無理難題を押し付けるのではないかと、内心気が気ではなかった。
落ち着かないルサカの様子に、レオーネが小さく笑う。
「……そんなに心配?」
「レオーネ様は意地悪するから、心配です」
きっぱり言い切ると、レオーネはくすくす笑い出す。
「随分だなあ。……うん。来たようだ」
黒い森の木々が、一斉にざわざわと枝を揺らし始める。
こうして来訪者を導き知らせるのかと、ルサカは木々を見上げる。
仄暗い小道の奥に、人影が見えた。
「……タキア!」
思わず名前を叫ぶ。
駆け出そうとしてから、ルサカはレオーネを振り仰ぐ。
レオーネは変わらずに穏やかな微笑を浮かべたままだった。
「いいよ。……行くといい。どの道、私がいなければ森からは出られないけれどね」
弾かれたようにルサカは駆け出す。
何も言葉なんか、何も浮かばなかった。
「……ルサカ!」
胸に飛び込んできたルサカを抱きしめて、タキアは言葉を詰まらせる。
言いたい事はたくさんあった。けれど何一つ言葉にならなかった。
ルサカは夢中でタキアにしがみつく。
「……無事で良かった」
タキアも言葉にならないのか、ルサカをただ抱きしめて、その柔らかな髪に頬を埋める。
「絶対に連れて帰るから」
その時、タキアがひどい怪我を負っている事に、ルサカは気付く。
抱きしめた背中に、包帯の感触があった。
「……タキア、怪我をしてるの?」
「ちょっとね。……もう塞がりかけているから、心配はいらないよ」
嫌な予感がする。
タキアにやっと会えて嬉しいのに、今、心の底から、不安になっている。
「……ようこそ、黒い森へ。……私が君に手紙を送ったレオーネ・バーテルスだ。ルサカを預かっていた」
背後から、レオーネの穏やかな声が響く。
「ルサカを助けて下さって、ありがとうございます。レオーネ・バーテルス卿。心から感謝いたします」
タキアの手を握り締めたまま、ルサカはその不安と戦う。
不安に押しつぶされそうなくらいに、胸騒ぎがする。
「ルサカが助かったのは、運が良かった。それだけだったと、わかっているかい?」
「……卿がいなければ、もう二度とルサカに会えなかったかもしれません。僕の責任であると、十分理解しています」
タキアのせいではない。タキアはあれほど反対して、止めたのだ。
そう言いたいのに、咽喉はからからに乾いて、声にならなかった。
「……では、約束を果たして頂こうか」
「はい」
タキアは繋いでいたルサカの手を離す。
「……ルサカ、危ないから下がっていて」
「タキア……?」
「そういう条件で返す事になっているんだよ、ルサカ」
レオーネは純白のクロークを脱ぎ捨てると、右手を差し出す。
その右手の掌から、真っ白な霧のような冷気が立ち昇リ始める。
ぴしっ、と薄氷を踏むような音を立てながら、その冷気は小さな欠片を作り、集い、巨大な剣を作り始める。
ルサカは今、何が起ころうとしているのか、認めたくなかった。
「……私と戦って、勝てばルサカを返す。……負ければ、私の竜になってもらう。そういう約束だよ」
レオーネの掌で、みしみしと音を立てながら巨大な氷の剣は成長を続ける。
意味が分からなかった。わからずとも、不安はますます増していく。
タキアを見上げると、察したのか、ルサカの髪をそっと撫でる。
「ルサカ。……バーテルス卿は竜じゃない。……竜眼の竜騎士だ」
竜の眼と高い魔力。それでルサカは、レオーネは竜だと思い込んでいた。
ふと、思い出す。
レオーネの手は、その綺麗で穏やかな顔に似つかわしくないほど、無骨で骨ばっていた。
あんな手を、よく知っていたはずだ。
剣を握る手だ。
ライアネルがあんな手をしていたのに、なぜ、気付かなかったのか。
「魔眼を持たない竜騎士は、竜に眼を与えられる。だから人の眼ではなくなるんだよ」
そうだ。
ルサカは思い出す。
レオーネはすぐにルサカが番人になりたての、竜に慣れていない未熟な番人と見抜いていた。
竜と竜騎士の区別がつかないから、未熟で不慣れだと分かったのか。
「……竜は生涯一人の竜騎士しか持てないけれど……。竜騎士は何度でも竜を持てる。バーテルス卿は、竜を何らかの理由で失った竜騎士だ」
竜なんか信じられるのか、とレオーネは言っていた。
生涯を共にするはずだった竜と、一体何があったのか。一体何が起こったというのか。
今知った事実に、ルサカは混乱を隠せなかった。
「……私に勝ちさえすれば、ルサカを返すけれど。……負ければ、ルサカは共有される財産になるね。それが嫌なら、私に勝つしかない」
身の丈ほどに成長した氷の大剣を握ると、レオーネは軽々と振り、地面に突き立てる。
この細身の優しげな姿のどこに、こんな力があるのか。
レオーネがいつの時代から生きているのかは分からないが、タキアより遥かに戦闘経験あるし、戦闘能力も高いだろう、というのはルサカにも分かる。
絶対に勝てるはずが無い。
「ルサカ、危ないから離れて」
差し伸べられたタキアの手の指先から、青白い焔がゆらゆらと立ち昇る。
「ダメだ!」
ルサカは竜化を止めようとタキアにしがみつく。
「こんな怪我してるのに、レオーネ様に勝てる訳無いじゃないか……! それどころか、命だってわからない!」
「ここで戦わなければ、ルサカを連れて帰れない。……負けても、一緒にはいられる。僕はもうルサカがいないなんて、耐えられないんだ」
青白い焔は次第に勢いを増し、タキアの身体を覆い尽くしていく。もう竜化を止められないかもしれない。
「ルサカのそばにいられないなら、死んだ方がましだ」
「……ダメだ! そんなの、絶対にダメだ!」
ルサカはタキアとレオーネの間に立ちはだかる。
「レオーネ様、タキアはひどい怪我を負っている! このまま戦ったら死んでしまうかもしれない。……お願いします。止めて下さい。お願いします……!」
咽喉が焼けそうに痛む。乾いた咽喉から無理矢理に声を絞り出して叫ぶ。
「私は構わないよ。……彼にはひとりでお帰りいただく事になるけれどね」
巨大な氷の剣は冷気を放って、みしみしと鳴り続ける。
ルサカは魔力で作り上げた剣を初めて見たが、それでもこれが恐ろしいほどの魔力を帯びた魔剣だと分かる。
生身で竜に勝てるほどの強さを誇る魔法騎士が、竜の強靭さと力を得る。
どれだけの強さか計り知れない。
「……タキアの傍にいられないなら、ぼくだって死んだ方がましだ!」
そう叫んだ瞬間、誰かがレオーネの剣の前に立ちはだかった。
「レオーネ様、私たちからもお願いします。……ルサカを返してあげて。お願いします」
流れる蜂蜜のような髪の乙女と、黒い巻き毛の猫のような少年。
薄氷の屋敷で留守を守っているはずの、リリアとノアだった。
「……まさか、リリア。ここまで歩いてきたのか……」
足の不自由なリリアが、この距離を移動するのはどれほど困難か。レオーネは思わず言葉を失くす。
「ノアが支えてくれました。ちょっと時間がかかってしまったけれど、間に合って良かった……。お願いします、レオーネ様。……ルサカを返してあげて下さい」
ふらつくリリアをノアは抱きかかえ、支える。
そんな二人の姿を見て、レオーネの心が動かされないはずがなかった。
「……レオーネ様だって、分かっているんでしょう。……彼はルサカのそばにいるために、命を賭けられるくらい、ルサカを大事にしているって。誰にだって、過ちはあるもの。お願いします。許してあげて。彼はとても後悔しています……!」
パン、と氷の砕け散る音が鳴り響いた。
レオーネの氷の魔剣が砕け散り、無数の小さな氷の欠片が煌めきながら空に舞い散った。
「……ルサカ、こちらへ」
促されて、舞い落ちる小さな氷の雨の中を、素直にルサカは歩み寄る。
ルサカの右手を取り、レオーネは短く何かの呪文を唱える。
ルサカの右の小指に、冷気の糸が生まれ、しなやかに編まれていく。
数秒でそれが小さな白金の指輪になり、ルサカの小指に収まった。
「これは祈りの指輪だ。……数回しか使えないが、祈ればこの森にたどり着ける」
ルサカの手を離し、背中を押す。
「……帰りなさい」
ノアからリリアの身体を受け取り、抱き上げながら告げる。
「……レオーネ様……」
「許した訳じゃない。リリアとノアに免じて、この場を収めるだけだ。……そうだね、勝負はまた次の機会に。それまでは、他に竜騎士を持たないでいてもらいたいものだ」
レオーネはまたあの穏やかな微笑みを浮かべる。
「レオーネ様、ありがとうございます……!」
ルサカはまっすぐにタキアに駆け寄る。駆け寄って、迷わずに抱きついた。
「……バーテルス卿、感謝致します。ルサカを救ってくれた事、守ってくれた事を、決して忘れません」
この時、タキアの声が震えていた事を、ルサカは一生忘れないだろう。
「行きなさい。……森の出口はすぐに閉じるよ。振り返らずに進みなさい」
横抱きにリリアを抱きかかえて、促す。
二人は去っていくレオーネたちの姿を見送る。
「……勝算なんて、全く無かったんだけどね。怪我をしていなくても、バーテルス卿には勝てそうになかったな」
心なしか、見上げたタキアの顔は少し大人びたような気がしていた。
「ずっと竜だと思っていた。……竜騎士はあんな魔法を使うんだね……」
「……竜の力を得た竜騎士に勝てる竜なんてそうそういないよ。多分、兄さんでも無理だ」
タキアはルサカの手をとって、森の出口に向かって歩き出す。
「ごめん。……タキア、本当にごめんなさい……。こんな事になったは、全部ぼくのせいだ。……ぼくが帰りたがらなければ、こんな事にならなかった……」
手を繋いだタキアの袖口から、ちらっと包帯が見えた。胸が痛む。
「この怪我も、ぼくのせいだよね……」
「ルサカは悪くないよ。……僕がちゃんと守れなかった、それだけだ。……バーテルス卿の言う通りだね」
「違う! ……なんだよ。なんで叱らないんだよ……」
思わず涙声になる。
「我が侭言ったのはぼくじゃないか。……ぼくのせいで、タキアがこんな目にあったんだろう!」
タキアは少しかがんで、ルサカの頬に軽く口付ける。
「ルサカが帰ってきてくれて、嬉しい。……それだけでもう、どうでもよくなっちゃったよ。早く帰ろう。皆心配してるしね」
変わらずに、子供のように無邪気に笑う。
その笑顔にこんなにも切なくなるなんて、ルサカは知らなかった。
ぎゅっとタキアの手を握って、見上げ、微笑みを返す。
「……帰ろう。一緒に」
繋いだ手を、二度と離さない。