そんなに不安そうな顔をされると、ルサカだって不安になってくる。
タキアは留守の巣に兄姉が来る事が、本当に油断ならないようだ。
かといって、十日間もルサカをひとりにするのはもっと心配だった。
まさにジレンマだ。
「さすがに書庫に閉じこもって顔も出さないのは失礼だし、挨拶はするよ。……大丈夫、近寄らないし、ヨルにも側にいてもらうから」
「どこか身体に触れられてなければ、操られたりしないから。とにかく、触らせたらダメだ。……距離を持って、絶対に触られないようにね」
イヤと言うほど念を押される。
「わかったから。……タキアこそ、気をつけてね。長旅なんでしょ。無理せず休みながら行くんだよ」
しつこいほどタキアはキスを繰り返す。顔中にキスされて、ルサカもそろそろ構われすぎてしんどくなってきていた。
「……じゃあ行ってくるよ……。何かあったら、薄紅色の紙を思い出すんだよ。欲しいものがあったら、珊瑚さんを呼び出すんだよ」
本当にしつこい。
「わかったから。……ほら、いってらっしゃい!」
半ば追い出すように、しつこいタキアを送り出す。
古城の天辺の『本物の竜の巣』から、飛び立つタキアを見送って、それからルサカはヨルを抱いて古城の中に帰る。
やりたい事はたくさんある。
リーンが来たら、ライアネルに林檎酒と手紙を届けて欲しい。
長い長い手紙を書きたい。
帰る事は難しいけれど、せめて、届けて貰えるなら、手紙を書き続けたい。
タキアに頼む事も出来るけれど、正直ライアネルから見てタキアは余りにも印象が悪すぎる。
ルサカを連れ去ってからの経緯とこの間の大暴れで、印象は更にこの上なく最悪になっている。
それはリーンから多少聞かされていた。
リーンは何故かライアネルと気が合うようで、色々と話し合っていたらしい。
こうなったらリーンの仲介を期待するしかない。
せめてもう少し、タキアの印象を変えない事には色々と事態が悪化しそうな気がする。
今タキアを会わせたところで、およそ人間慣れしていない、世間知らずのタキアがうまくライアネルを説得出来るとは到底思えないし、最早リーンに頼るしかない。
そういえば、なぜ、あの生真面目なライアネルが、軽薄そうなリーンと気が合うというかうまくやれているのだろう、と考えてみてから、そういえばライアネルは個性の強いジルドアともとても仲が良かった事を思い出す。
クセのある人間でもうまく付き合えるのは、ライアネルの不思議な魅力の所以なのかもしれない。
ルサカから見ても、ライアネルは生真面目なのに柔軟性が高い。
そして、あの性格に惑わされずにジルドアの能力を高く評価しているのだから、人を見る目は確かだ。
そう考えると、これだけライアネルに買われているリーンが竜の中ではかなりの実力者だというのも、本当かもしれない、とルサカは思う。
ライアネルが認めるくらいなのだから、竜特有のモラルの無さはさておき、評価されているのではないか。
何にせよ、リーンが来るなら、仲介を頼むまたとないチャンスだ。
それから、この間珊瑚が来た時に買ってもらった『番人の為の竜言語入門』を勉強するチャンスでもある。
十日間は交尾しない訳だから、体力の温存も出来るし、繁殖期前に食料もリネンも用意出来る。
ちょっと寂しいかもしれないけれど、ヨルもほうきウサギもいるし、二、三日に一回はリーンかエルーが様子を見に来る。
元々引き篭もり気質のインドア派のルサカは、ひとりでいる事はそれほど苦ではなかった。
のんびりやりたい事をやって過ごすのも悪くない。
日当たりのいい居間で日向ぼっこしながら、ルサカはライアネルへの長い手紙を書く。
書き終えると、用意しておいた林檎酒を数本入れたバスケットに、手紙をいれ、落ちたりしないように、綺麗な布で包む。
リーンが来たら、帰りがけにこのバスケットを届けてもらえるよう、頼んでみる事にする。
荷物の準備を終えると、ルサカはおまちかねの、『番人の為の竜言語入門』を取り出す。
竜言語が分かるようになれば、書庫の本も全部読めるようになる。
そしていつかチャンスがあれば、薄氷の屋敷の、あの本の要塞のようなレオーネの書斎の読めるかもしれない。あれは大半が竜言語の本だった。
そう思うとわくわくしてくる。
竜の本なんて、面白そうだ。
どんな事が書かれているのか、想像もつかない。
さっそくルサカはヨルを連れて書庫に閉じこもって、わくわくと『番人の為の竜言語入門』を開いた。
二日くらいで寂しくなってくるかな、とルサカは内心思っていたが、そうでもなかった。
夢中で『番人の為の竜言語入門』を読みふけっていると、一日があっという間だった。
むしろ勉強に夢中になって、作り置きの料理やリネン類の事がすっぽり頭から抜けていたくらい。
この古城の古書だけでなく、いつかはあの、レオーネの本の要塞のような書斎の本を読みたい。
明確に目標があると人間、打ち込めるものだ。
よく勉強しているせいか、いつも眠りの浅いルサカも、夜には早々にぐっすり眠り込んでいた。
そうこうしているうちに早くも三日が経過した。
ルサカは料理をしながら仕込みの待ち時間に、厨房の椅子に座ってまた、『番人の為の竜言語入門』を開く。
三日目にしてようやくコツが飲み込めて、分かってきたところだった。
段々面白くなってきて、ルサカはついつい夢中になって読み耽っていた。
足元のヨルが低い唸り声を上げるまで、全く気付かなかった。
「……竜言語の勉強か。ルサカは勉強熱心だな」
すぐ耳元で声がした。
驚いて本から顔をあげると、真上からリーンがルサカの手元を覗きこんでいた。
ヨルが今唸り声を上げるまで、まるで気付かなかった。
巣にリーンが入ってきてもヨルは吼えなかったのは、ルサカがいなかった間、リーンにエサを貰って、慣れてしまっていたせいか。
驚きの余り声が出ない。
挨拶よりも先に、離れようと慌てて椅子から立ち上がるルサカを、リーンは素早く捕らえた。
「そんな露骨に逃げなくても。……ヨル、わかったわかった。吼えるな」
ルサカの身体を抱いて引き止めると、ヨルが狂ったように吼え続ける。
ルサカも逃げようと足掻いていえるし、ヨルも怒り狂っているしで、リーンはしぶしぶルサカを離した。
「そんなに嫌がられると、傷つくなあ。……ほら、何もしないから」
向かいの椅子に座って、両手を軽く挙げてみせる。
ヨルはルサカの足元に陣取って、やっと吼えるのを止めた。
「ヨルもひどいな。あんなにうまい肉やってたのに」
それでもリーンは懲りている風情はない。涼しい顔でルサカの書き殴っていた竜言語の練習メモを拾い上げる。
「ごめんなさい……。タキアに、他に人に触らせたらダメだって言われてるから……」
距離を保ちつつ、再び元の椅子に座る。
「すごく失礼な事してるとは思うんだけれど、ごめんなさい……」
本当に失礼な事をしている、とは思っている。
けれど身体に触れられていると、いつ操られるかわからない。
そういう竜のスキンシップ的な意味では、あまりにもスタンダードな竜のモラルのリーンは、どうしても信用は出来ない。
こんな失礼な事をしながら、ライアネルへの届け物を頼むのはものすごく気が引けていた。
ヨルを膝に抱き上げて、ルサカは口篭もる。
「タキアにしつこく言われてるから、絶対に操らないよ。だから安心してていい」
片手で頬杖をつきつつ、ルサカの勉強メモに目を通す。
ルサカの失礼な態度にも、別段腹を立てている様子はなかった。
おそらくものすごくしつこく、タキアに色々言われているのだろう。
先ほどのルサカの失礼な態度も気にせず、ここ間違ってるよ、とか丁寧に添削してくれている。
さすが千年生きているだけあって、人の言語にも精通している。
タキアは人の文字が苦手なので、説明してもらってもうまく置き換えが出来ずにわかりにくかったが、リーンは分かりやすく丁寧だ。
分かりにくかったところも丁寧に解説してくれるし、ものすごくリーンは頼りになる。
あんなに失礼な態度を取って、申し訳なかったな、とルサカも反省せざるを得ない。
「ひとりで退屈していない? ……勉強で忙しいからそうでもないかな」
休憩ついでにリーンにお茶を淹れて出す。
タキアはお茶を好むのでよくこうして出していた。リーンもそういえば、二回目に会った時は勝手にお茶を淹れて飲んでいた事を思い出す。
「楽しいです。……竜言語を覚えて、書庫の本を読む目標があるので頑張れてます」
タキアやエルーたちがいれば普通に喋れるのに、リーンとふたりきりだととても緊張してしまう。
それは出会いが出会いだったのが、悪い。それが原因だ。
何とか話題をひねり出そうと、ルサカは手紙の事を思い出す。
「リーンさんにお願いが……あの、ライアネル様に届けてもらいたいものがあるんです。お願いできますか」
「何を届けて欲しいの?」
「林檎酒と、手紙です……。もうライアネル様のお屋敷に帰れないけれど、せめて、手紙でだけでも、心配をかけた事を謝りたいんです……」
厨房の隅に置かれていたバスケットを持って、テーブルの上に置く。
「林檎酒の瓶が三本と、手紙です。……お願いできませんか」
リーンは頬杖をついたまま、じっとバスケットを見つめている。
暫く考えてから、タキアに良く似た、ふんわりした微笑みを見せる。
「いいよ。……ルサカから、お使いのお駄賃は何か貰えるの?」
こういう笑い方をすると、この兄弟は更によく似て見える。
今はタキアはエルーに良く似ているが、育ったら、多分、リーンにもっと良く似てくるのだろう。
お駄賃。
考えても見なかった。
確かに、何か人に頼むなら、何かお礼が必要だ。
人というか竜だけれど。
ルサカは少し考え込む。
ルサカの財産なんて、何もない。せいぜい作り置きしている酒類か、酵母か、菓子類か。
どれも資産家で巨大な巣を持つリーンに喜ばれるほど珍しいものではない。
なんだか嫌な予感がするけれど、何かお駄賃を要求されているからには、払わなければならない。
ルサカの持ち物で一番いいもの、となると、この林檎酒くらいか。
「ええと……林檎酒じゃ、だめですか?」
「それもおいしいんだけれどね。前に貰ったやつ、まだ酵母が生きてるから継ぎ足して飲めちゃうね」
他にいいものはないか。
ルサカは必死で考える。
リーンが何を要求する気なのか、さすがに薄々ルサカも察している。それを回避するために、何か考え付かなければならない。
何かないか。
今、リーンが要求したいものの他に、もっと、何か価値のあるもの。
必死でルサカが考えるのも空しく、リーンはその綺麗な顔で、いい笑顔を見せる。
「……ルサカを抱っこしてもいいなら、届けてあげるよ」
思ったよりはマシな要求だったけれど、これはやっぱり触らせろって事じゃないだろうか。
ルサカは返答に詰まる。
ライアネルにどうしても、このバスケットを届けて欲しい。
けれど、リーンやエルーに身体を触らせるのは絶対ダメだとタキアが言っている。
リーンが見返りを要求するのは、当然といえば当然だ。
善意に甘えるだけでお礼をしないのは、親しき仲でも大変に失礼な事だ。
ルサカはお茶のカップを見つめたまま、激しく逡巡する。
「そんなに難しく考えなくても。……俺もタキアと絶縁したくはないからね。大丈夫、交尾はしないから」
じゃあ交尾寸前までするつもりなのか、と思わず言い返したくなる。
真剣にルサカは考え込む。
「絶対操ったりしない、それは約束するから。……ちょっと抱っこするくらいなら、タキアに内緒にしておけばいいじゃないか」
どうして誰も彼も、こうしてルサカの身体を要求するのか。
竜のモラルでは大した事ではないのだろうけれど、ルサカにはとんでもなく敷居が高い事なのに、気安く試されている気がしてならない。
足元にまとわりつくヨルを見つめながら、ルサカは真剣に思い悩む。