こんな早くに反故にされたとか、レオーネに知られたらどんな顔をするだろう。
あの綺麗な顔で小さく笑って、やっぱりね、と言われるんだろうな。
そんな事を考えながら、ルサカはゲストルームのベッドメイクをしている。
レシレシェン……レシェの部屋を急ごしらえ中だ。
まだはっきりと、色々聞いたわけではない。
今のところ、レシェは生身の人間だ。
それはルサカも直感的に分かる。
ルサカと同じように、タキアの発情期に合わせて番人にするのか、それともルサカの時のように早まらずに、もう少し育ててからなのか、それはタキアが決める事なのでルサカは何とも言えない。
まだタキアからレシェを番人にする、とは聞いていないが、そんな理由でもない限り、人間を巣に連れてこない。
ルサカひとりだけなんて、現実的じゃないのは分かっていた。
ルサカの身体では繁殖期のタキアに我慢を強いるだけだし、竜の本能に従えば、複数の番人を持つ事は当然の事なのだ。
分かっていても、泣きそうになる。
レシレシェンは美しかった。
年齢は恐らく、ルサカより二、三歳上くらい。
優美な長い黒髪に、切れ長の青い瞳、白い肌。
ルサカとは対照的な、エキゾチックな魅力のある美貌だった。
大きな瞳にあどけなさを残したルサカは、美貌ではあるがやはり子供っぽく、幼い。
ある程度完成しつつあるレシェの、この洗練された端正な美しさとはまるで方向性が違う。
方向性が違いすぎて比べるべくもないが、レシェが竜の好む、美しい人間なのは間違いない。
泣きそうになりつつも、なんとかベッドメイクを終えて、いつもの居間に向かうと、タキアとレシェの楽しそうな話し声が聞こえる。
平静でいる事がこんなに難しいとは、ルサカも思っていなかった。
「部屋の用意が出来たから、いつでも休めるよ」
「ありがとう、ルサカ。……レシェ、疲れただろうし、今日はもう休むといいよ」
「はい。……ルサカ、ありがとう。迷惑をかけるかもしれないけれど、よろしくね」
レシェは柔らかな微笑みを見せる。
「部屋に案内するから。……レシェ、おいで」
「……おやすみなさい、ルサカ」
優美に礼を述べて、タキアについて部屋を出て行く。
初めて見る異国の衣装は、レシェの美しさをとても引き立てていた。
一人残されて、ルサカはいつもの寝椅子に行儀悪く寝そべる。
何だかとても眠かった。
そういえば、両親が亡くなった時も、こんな強い眠気があった。
何か耐え難い事があると、いつもこうして強い眠気がやってきていたような気がする。
「…………カ。……ルサカ。こんなところで寝たら風邪引くよ」
幾度か頬に口付けられて、ルサカは目が覚めた。
「……ああ……なんだかうとうとしちゃって……」
片手で眦を擦りながら、ゆるゆると起き上がる。
そのルサカを抱きしめて、タキアは頬を摺り寄せる。
「ごめん、起こしちゃって。……少し話がしたかったから」
頷いて、静かにタキアに身体を預ける。
「眠いかな。……簡単に事情を説明するから」
ルサカを膝の間に抱き込んで、髪を撫でながら再び口付ける。
「レシェは、帰り道で拾ったんだ。……盗賊に襲われていて。ルサカが眠そうだし、かいつまんで話すと、レシェは行くところがないんだ。……だから暫く、うちにおいてあげようと思って」
タキアの胸元にもたれながら、ルサカは緩く頷く。
番人にするつもりで攫ってきたわけではないようだ。
本格的に寝入ってしまいそうなルサカに気付き、タキアはルサカを抱き上げて歩き出す。ルサカの部屋に寝かしつけに向かう。
「レシェの国が戦で負けて、レシェは王子なんだけど……戦利品として連行されている時に、盗賊団に襲われた。で、そこに僕が通りかかった」
レシェのあの優美さと気品は、王子だからなのか、とルサカは納得する。
「……まあ盗賊の上前はねようと思ったんだけどね。そしたらレシェに懇願されたんだ。……このまま戦勝国に連れ去られておもちゃにされる人生は嫌だ、助けて欲しいって」
そんな事を言われたら、タキアだって見捨てて置けないだろう。
仕方ない事なんだ、とルサカは自分に言い聞かせる。
「レシェのこれからは、じっくり考える……。少しルサカに寂しい思いをさせるかもしれないけど、ごめん……」
ルサカの部屋の、あの小さな真鍮のベッドにルサカを寝かせて、タキアはそのまま覆いかぶさる。
「ルサカ……会いたかった。……ひとりで寂しくなかった?」
柔らかなルサカのココア色の髪に指を梳き入れ、幾度も閉じかけた瞼や、眦や、唇に口付ける。
そのタキアの唇が、今、とても悲しく感じられていた。
何か言わなければ、と思っても、言葉が出てこない。
ルサカは泣きそうなまま、深い眠りに落ちる。
「私の国は、西の砂漠にある白の国というところなのですが、過日の戦乱で滅びました。……私は王子でしたが、王になるわけではなく、違う目的で育てられていて、そのおかげで他の王族のように王宮に住んでいなかったので、殺されずに済みました」
朝食後に、居間でお茶を飲みながらレシェの話を聞いている。
タキアの要領を得ない説明よりは、本人から聞いた方がわかりやすかった。
「生き延びたせいで、ララウの国……攻め入ってきた敵国の事です。ララウの王族に献上されるために、護送されてるところでした。そこにタキア様が通りかかって、運よく私は救われたのです」
この優美な美しさは、ルサカにはないものだ。
生まれも育ちも違いすぎる。
ひがみはしないが、これは比べるべくも無く敵わない、とルサカは思っていた。
「ララウに連れて行かれたら、どんな目に合わされていたか……タキア様には本当に感謝しています」
思えばルサカも、あの時タキアがあの幌馬車を襲わなかったら、どうなっていたか。
ふたりとも、同じようにタキアに救われたのだ。
「……そういえば、違う目的で育てられたってどういう事?」
純粋に好奇心なのだろう、タキアが不思議そうに尋ねる。
レシェはほんのりと頬を赤くし、少しだけ、恥ずかしそうに口を開く。
「白の国には、昔、竜がいました。王族は代々、その竜に王子や王女を献上していたのですが、竜が去ってからも、竜の為の子供を育てる習慣が残りました。……昔からのしきたりにのっとって、選ばれた王子と王女が、竜と添い遂げる為に育てられるのです」
レシェはタキアをしっかりと見つめ、口を開く。
「私は、竜に捧げられるために育てられました。……国は滅びましたが、あなたに出会えました。……タキア様。……どうか、私をお側に」
タキアもルサカも言葉がなかった。
まさかの展開だ。
そんな予想外の事を言われるとは、二人とも思ってもいなかった。
我に返ったのか、タキアが慌てて拒否する。
「……だ、だめだよ。……僕はルサカだけを番人にするって誓ってるんだ。……だからレシェ、残念だけれど、君を番人にするわけにはいかない」
拒まれるとは思いも寄らなかったのか、レシェは見る間に蒼白になった。
「……で、でも、国も滅んで、行くところもありません。……このままどこへ行けばいいと仰るのか」
その切れ長の青い瞳から、涙が溢れ、零れ落ちる。
レシェの気持ちも分かる。
ここを追い出されたら、行くあても、生きていく術もないというのは、明白だった。
タキアも心底困っているが、こんな綺麗な人間に言い寄られたら、綺麗なものが大好きで、惚れっぽくて多情な竜が、いつまで拒み続けられるのか。
ここにおいてあげたらいい、とルサカが一言言えばいい。
その一言が、どうしてもルサカは言い出せなかった。
レシェを番人として迎えた方が、何もかもうまくいく事はわかっている。
行き場のないレシェは居場所を得る、タキアは繁殖期に本能を無理矢理押さえ込む必要もなくなるし、ルサカも、身体を壊すほど交尾をしないで済む。
それでも、どうしても、言い出せなかった。
なんて自分は醜くて、自分勝手なのかと、ルサカは思い知らされる。
何もかも、エゴだ。
タキアに自分だけを見ていて欲しい、そんな自分勝手な事しか考えていないと、ルサカが一番よくわかっていた。
「とりあえず……何かいい方法を考えるから。レシェ、落ち着いて」
タキアはおろおろしながらレシェの涙を拭う。
レシェも泣き止もうと必死に堪えている。
ルサカは黙って席を立つ。
もう、何をどうしたらいいのか、何を言えばいいのか、分からなかった。
ずるくて醜いと、自分でも思い知らされている。
避けるつもりはないけれど、タキアとレシェが一緒にいる姿を見るのが辛かった。
ルサカは何かと理由をつけて、リネン庫や厨房に閉じ篭もっている。
タキアがレシェに優しくする事を、素直に喜べない。
そういう醜い自分を思い知らされるのが、何より悲しくて辛かった。
レシェはとても優しく穏やかで、竜の番人にふさわしいと思えた。
ルサカと仲良く出来るだろう。
彼は竜の番人になる為に育てられたので、ある程度の竜と番人の知識を持っているようだった。
だからルサカに対しても友好的だし、これから一緒にやっていけるだけの、懐の広さもある。
ルサカにだけ、その覚悟がない。
今既に、タキアがレシェに触れる事が悲しく思えてしまっている。
リネン庫の椅子に座って、ルサカはぼんやりと自分の靴の爪先を見つめる。
その爪先に、ヨルがじゃれ付く。
たった一言、レシェを番人にしよう、と言えばいいのに、その一言がどうして言えないのか。
挙句の果てに、逃げるようにこんなところに閉じ篭もっている。
何も考えないで、ぼうっとしていたかった。
また、強い眠気が襲ってくる。
結局この眠気は、辛い現実から逃れたいだけの逃避なのだと、ルサカが一番良く分かっている。
コン、とリネン庫の扉をノックする高い音が響いた。
返事を待たずに扉が開き、タキアがひょっこりと顔を出す。
「ルサカ……怒ってるの?」
「怒ってないよ……。ちょっと、眠くて」
ヨルはその開いた扉の隙間から、するり、と抜け出して出て行ってしまった。
そのヨルをぼんやりと見送るルサカは、確かにあまり元気そうには見えない。
「……レシェの事は今、色々考えているから」
椅子の上で眠たげにくったりしているルサカを抱き上げて、アイロン用のテーブルに座らせ、口付ける。
「約束は守るよ。……番人はルサカだけだ」
角度を変えながら、啄む。
緩く開いたルサカの唇を甘く噛んでも、ルサカの反応は薄い。ぼんやりしているだけだった。
「タキア、レシェに見られたら……」
かすかに抵抗する素振りをみせると、そのルサカの手を取って、指先に口付ける。
「……眠らせてきちゃった。……帰ってきてからルサカと二人きりになれなかったし」
ルサカの指先に幾度か口付けて、再びルサカの唇に唇を寄せる。
アイロン用のテーブルにルサカを押し倒しながら、タキアはいつものように、シャツの中に手を滑り込ませる。
ルサカは慌ててその手を掴んで止める。
「……ごめん、タキア。……今はしたくない……」
「……やっぱり怒ってるんじゃないか」
「違う。……うまく言えないけど、違うんだ」
これ以上タキアに何か言われたら、みっともなく泣き出してしまいそうだった。
「約束は守る。そう言っているのに、ルサカは何だか信じてくれない」
こんなに苛立った口調のタキアは初めてだった。
ルサカも、どうしたらいいのか分からなかった。
ただ、この醜い感情を、タキアに知られたくなかった。
「……そうじゃない。タキアが悪いんじゃない……」
泣き出しそうなのを堪えるのが精一杯だった。何をどう説明したらいいのか、何よりも、この醜い感情が、自分でも耐え難かった。
「ずっと僕とレシェを避けているし……僕がそんなに信用出来ない? そんな風に思ってるの?」
詰られて、耐え切れなかった。
堪えきれなかった涙が零れ落ちる。
最低だ。
自分の事ばかり考えて、タキアを傷付けて、なんて醜くて、卑怯なんだろう。
タキアの目の前で泣き出して、本当に、最低で、卑怯だ。
それでもどうしても、泣くのを堪える事が出来なかった。