竜の棲み処

#53 竜にだってルールはある

 ルサカの右の小指の指輪は、めきめきと音を立てて崩れ始める。
 崩れ落ちた金属の破片は氷の欠片へと変化し、融けて雫になった。
 早く。崩れ切る前に、早く。
 その時、背後から黒い影が飛び出す。
「ヨル、だめだ! 竜には勝てない!」
 異変に気付いたヨルが階段を駆け上がり、ルサカの前に飛び出した。小さなヨルではない、本来の、獰猛な巨体のヘルハウンドの姿だった。
 巨大な黒い影は、ルサカを守る為に立ちはだかる。
「ヨル! ぼくは大丈夫、だから逃げるんだ!」
 ヨルは絶対にルサカを置いて逃げない。それでもルサカは叫び続ける。
 クアスを包む風は暴風へと成長を遂げる。その激しい嵐の中に、エメラルド色に輝く鱗が見えはじめた。
 ルサカさえ逃げ切れば、ヨルも逃げ出す。早く逃げ切らなければ、ヨルの命だって危険に晒す事になる。
 小さく竜の言葉を呟き、ヨルの前に茨の盾を作り出す。
 指輪が崩れ落ちる前に、早く。茨の檻が耐え切れなくなる前に、早く。ルサカは音を立てて崩れる指輪に祈り続ける。
 荒れ狂う風の渦から輝くエメラルドの鱗に覆われた竜の姿が現れた瞬間に、指輪はぱきん、と音を立てて砕け散った。



 激しく揺すられて、ルサカはゆるゆると目を開ける。
 誰かが真上から覗き込んでいる。
「………っ……!」
 声無き声で呼びかけているのは、ノアだった。
「……ノア……?」
 ほの暗い森の木陰で、ルサカはノアの膝に抱えられていた。
 ほっとしたのか、ノアは安堵の吐息をつく。そのノアの綺麗な青い瞳には、薄く涙が滲んでいた。
「……指輪……砕けたけど、ここまで来れたんだ……」
 レオーネが魔力で紡いだ転移の指輪は、砕け散る瞬間にルサカを黒い森まで運んでくれた。
 ヨルは無事だろうか。ぼんやりと考える。
 ヨルは賢い。ルサカが逃げ切ったと判断出来れば、無謀な戦いは挑まず逃げてくれるはずだ。そう信じたい。
「……ノアが迎えに来てくれたんだね。……ありがとう」
 ゆっくりとノアの膝から身体を起こして、自分の身体を見おろす。
 塞がりかけてはいたが、皮膚には無数の風の刃の跡が残っていた。
 傷の多さから察するに、茨の檻が破壊された直後くらいにここに転移したと思われる。だからここで、風の眠りに落ちてしまった。
 ノアは何があったのか心配している。こんな傷だらけで黒い森の入り口に倒れていたら、確かに何が起きたのかと思うだろう。
「……ちょっと竜とケンカした」
「!?」
 ノアは心底驚いた顔をしているが、ルサカだってまさか竜と争う事になるとは思ってもいなかった。
「とりあえず、レオーネ様のところに連れてってもらおうかな。……指輪が砕けてしまったし、レオーネ様に森の出口を作って貰わないと」



「……ああ、指輪はそろそろ寿命だったからね。数回で壊れてしまうんだよ。そろそろ作り直さないといけない時期だった」
 リリアが淹れたお茶を飲みながら、レオーネは事もなげに言う。
 レオーネに事情を説明しながらお茶を飲んでいるが、ルサカはお茶どころではない気分だ。
「……正直もうダメかと思いました」
 本当に、冷や汗ものだった。
 もし指輪が壊れてここに転移出来なかったら、あのままクアスに連れて行かれただろう。立ちはだかったヨルだって、ただでは済まされなかった。
「そんな無鉄砲な若い竜の話は時々聞くね。……竜は一度欲しいと思ったらなかなか諦めないから、当分気をつける事だ。君の主がその若い竜を力で屈服させない限り、諦めないかもしれないね」
 話し合いどころかいきなり拉致されそうになっている。タキアから聞いていた話とは随分違う。
 てっきり話し合いで決着をつけられず決裂、それから力で解決、そんな流れだとばかり思っていた。
「……こんな簡単によその巣の番人を連れて行こうとするなんて、予想外すぎて。……茨の檻を教えてもらっていなかったら、逃げようがありませんでした。茨の檻があったって、もし指輪がなければ……。レオーネ様に感謝しています」
 茨の檻なんて時間稼ぎにしか使えない。結局、レオーネの指輪に救われたようなものだ。
「君も苦労が多いね。……よくよく運が悪いようだから、やはり身を守る術は身につけた方がいいだろう」
 本当にその通りだ。この半年ちょっとで、何度目だと自分でも思う。
 今回逃げ切れたのだって、レオーネの指輪のおかげだ。決して自分の力ではない。
「……その竜が諦めずにまた来るようなら、君の主が決着をつけるしかないね。そうなったら力で解決するしかない」
 営巣地探しをしているくらいだったし、見た目もタキアとそう年齢は変わらないくらいだったが、タキアはクアスに勝てるのだろうか。
 正直、ルサカには竜の強さなんて、リーンくらいずば抜けていないと違いが全く分からない。
 タキアが若輩者で、竜としてはまだまだひよっこなのは知っている。クアスも営巣地探しをしているくらいだ。ほぼ互角だろうか。
「それは人間で言うところの決闘のようなものですか?」
 レオーネは少し考え込んでから、口を開いた。
「……同じようなものだね。人も動物も竜も、最後は力で決着をつける。……人間だって領土を奪い合って国同士が争うだろう? ……竜も同じだよ。番人も財産の一部だ。財産を守るためには戦わなければね」
 人も動物も、縄張りや雌や餌場を巡って争う。竜もそれは変わらないという事か。そう考えると、全ての生き物が業の深い生き物に思えてくる。
 事実そうだ。生きている限り全ての生き物が争う。
「……ルサカ。まだ帰らなくても大丈夫かしら。……もう少しで木苺のパイが焼きあがるから、良かったら食べて行ってね」
 リリアがお茶を継ぎ足しながら微笑みかける。
「ヨルが……うちの犬なんだけれど、ヨルを置き去りにしてしまったから、無事か心配だし、きっとタキアも心配してる。……早く帰らないと。ごめんね、リリア」
 ティーポットを持つリリアの右手にふと視線を移す。
 リリアの右の小指にも、白金の指輪が収まっている。はっとしてノアのティーカップを持つ右手をみると、同じようにやはり、白金の指輪が小指に輝いている。
「帰るなら、指輪を作らないとね。……ルサカ、右手を」
 ルサカは慌ててレオーネに右手を預ける。
 あの時と同じように、ルサカの右の小指に、冷気の糸が生まれ、螺旋を描きながら、しなやかに編まれていく。
 壊れた指輪と全く同じ指輪が、数秒で右の小指に収まった。
 こうして竜の魔法を覚えるようになった今なら分かる。これは竜の魔法と人の魔法で作られるものだ。
 魔力の無い人間を転移させる為に、この指輪自体に膨大な魔力が注ぎ込まれている。
 一回の転移で消費される魔力も大きい。だからこそ数回しか持たずに壊れてしまう。
 レオーネは造作なく作っているように見えるが、これは高度な技術と複雑な術式がいるものだと、今ならよくわかる。
 これはルサカの魔力程度で作れるようなものではない。
 恐らくはレオーネが作り出した術式だ。竜の言語と人の言語が混ざり合った複雑な術式。こんなものを作り出せる竜騎士なんて、どれだけの強さなのか。
 編みあがった冷気の白金の指輪をじっと見つめる。
 リリアやノアの右手にも同じ冷気の指輪を施されているのは、きっと、万が一の為のものだ。
 ルサカに指輪を与えたのも、万が一の為のものだったのだろう。
 番人が何者かに捕らわれても逃げ出せるように。
 意識さえあれば、祈れる。数分の発動時間を要するが、この指輪があれば、黒い森に逃げ込む事が出来る。最悪の事態になる前に逃げ切れるように。
「ありがとうございます、レオーネ様。……レオーネ様には感謝しても、しきれません」
 クアスの襲撃で、メイフェアの事を忘れていた。
 こうして一瞬忘れていたおかげでレオーネとごく自然に話す事が出来たが、この指輪でまざまざと思い出す。
 古城の巣の書庫には、高難易度の魔術書は置かれていなかった。
 竜言語の魔術書は、中程度以下のものだった。フロランもレオーネも、恐らくは、あの頃まだ駆け出しの若き竜と竜騎士だったはずだ。
 一瞬、メイフェアの絵を見つけた事をレオーネに告げるか、ルサカは迷う。
 その、迷うルサカと、レオーネの目が合った。
「君の主が心配しているだろう。……そろそろ帰りなさい。森の入り口まで送ろう」
 静かに澄んだその蒼い竜の瞳は、その清冽な蒼さにも関らず、穏やかで、優しげだ。それがルサカにはとても不思議に思えていた。
 どれだけの苦痛を越えたら、こんな悲しく美しい瞳になるのだろう?



「……ルサカ!」
 古城の巣の天辺に降り立った瞬間に、タキアに力いっぱい抱きすくめられる。
 もう日が落ちて、古城の空には月が昇り始めていた。
「心配させてごめん、ただいま。……レオーネ様のところにいたよ。ヨルは無事? ヨルを連れてはいけなかった。ちゃんと逃げたか心配で」
「ヨルは大丈夫」
 夜の闇に融けるように潜んでいて、気付かなかった。
 ヨルは巨大な姿のまま、帰ってきたルサカの足元に静かに伏していた。
「帰ってきたらヨルが大きくなって落ち着き無く歩き回ってるし、一体何があったのかと……」
 タキアは抱きしめていたルサカをやっと解放して、手をひいて天辺から降りる階段に向かって歩き出す。
「知らない竜が挨拶に来て、何故か連れて行かれそうになった」
「……そういうことか。帰って来たらヨルがケガしてるし大きくなってるし、ルサカはいなくなってるしで。……他の竜が挨拶したいって話しかけてきたから急いで戻ってきたんだけど」
 手を繋いで歩く二人の後ろから、ヨルも付いて来る。
「挨拶したいと言ってたわりに、あっという間にルトリッツから出て行ったのはそういう事か」
 そのまま居間に入ると、テーブルはルサカが夕方、タキアの為にお茶を用意したそのままの状態で放置されていた。
「あー…ごめん、すぐ片付ける。……それともお茶飲む?」
 タキアが帰って来たらすぐ飲めるように、とお湯を用意していたのに、当たり前だが冷め切っている。
 沸かしてこなければ、と考えながらタキアを振り仰ぐと、そのままタキアに再び抱きしめられ、頬に唇が触れた。
「……怖い思いさせてごめん。よその番人をいきなり連れて行こうとする竜なんて、そうそういないんだ。だからまさかこんな事になるなんて思ってなくて。……本当にごめん」
 タキアの唇は、頬を辿りルサカの唇にたどり着く。そのまま幾度か軽く啄み、囁く。
「その竜の事はなんとかする。……ルサカは心配しないでいいから」
 大人しくキスされていたルサカだったが、その言葉に不安になる。
「もしかして、それは力で解決するって事?」
 触れていた唇が離れる。
「……うんまあ、そうなるのかな。これで諦めるとちょっと思えないしね。……まあ、竜なら生きてる間にこんな事は何回かあるよ」
 やっぱりそうなるのか。
 出来れば話し合いで回避してもらいたかったが、クアスのあの様子を考えると、話は通じなさそうだ。
 竜なんて、衝動的で刹那的だ。本当に欲しいと思ったら、後先なんて考えられないのだろう。
「すごく心配なんだけど、ケガしたりしないの?」
「そりゃするだろうけど。……向こうも営巣地探ししてるくらいの巣立ったばかりの竜だから、そんなに力の差はないだろうし、やるしかないよね」
 いくら温厚なタキアでも、自分の縄張りや財産を荒らされるのは許せないようだ。
 ましてや、タキアの何より大事な宝物であるルサカを連れ去ろうとしただなんて、タキアにとっては万死に値する大罪だ。
「あっちが竜騎士持ちでもない限り、そんなに強さに差はないよ。……さすがに巣立ったばかりで竜騎士は持っていないだろうから、そっちは心配ない。……ルサカ、ちょっと落ち着くまでは巣の上に出るのは控えてね。いきなり連れて行こうとするなんて、相当ルサカを気に入ってるのは間違いないから、手段は選らばなさそうだ」
「待って、話し合いは? ……話し合いで決着が付かなければ、じゃないの?」
 荒っぽい方法はできれば避けたい。タキアがまたケガをするかと思うとルサカは気が気ではなかった。思わずタキアにすがってしまう。
「それはちゃんとした交渉をした場合だよ。……竜にだってルールはある。他の巣の財宝や番人が欲しければ、まずは交換や譲渡の話し合いをするんだ。ルサカを攫おうとした奴は、そういう段取りを無視したの。……どうせ僕は絶対にルサカを譲る気はないから、遅かれ早かれ力で決着をつけるしかないんだけどね」
 こんなにおおらか大雑把で子供っぽいので、タキアは大人しい温厚な竜だとルサカは思い込んでいた。
 思えば、純潔じゃない生贄にキレて街を焼き払った事があった。温厚だけれど許せないものは許せない、やる時はやるという事か。
 タキアもやっぱり男だし竜だったんだな、とルサカも改めて思い知らされる。
「おとぎ話のお姫様じゃないんだから、なんで奪い合われなきゃならないんだよ……」
 ルサカにとってとても不愉快な展開なのは間違いない。ルサカもこのどうにもならなさに、いらっとしていた。思わず呟く。
「しょうがないよ。……兄さんや姉さんだって自分の縄張りを荒らそうとした竜を何頭か倒してる。竜はそうやって自分の巣と縄張りを守るものなんだよ」
 なんて事だ。聞いていた話よりも物騒だ。予想以上に竜は荒っぽい生き物なんじゃないか。
 タキアたち兄弟の、この穏やかさとおおらかさと無邪気さと陽気さに騙されていた。本質は野生動物と一緒なんだ。
 そこを意識しているのについつい、勘違いをしてしまう。
「兄さんクラスの竜じゃなくて良かった。そうなったら絶対勝てない。……まあ、そんな強さの竜なら、僕みたいなひよっこにちょっかいだすなんてプライドが許さないだろうけどね」
 竜にもそんなルールというか、仁義があるのか。
 人間の方が余程腐っている。
 人間は当たり前のように弱いものから搾取するけれど、竜は弱いものいじめをしない。人間なんかより、余程理性がある生き物だ。
「とにかく、ルサカは心配しないでいいよ。これは竜同士の問題なの。もうルサカがどうの、ってレベルでなく、竜同士のプライドを賭けた争いだから。向こうがルールを侵したんだから、僕も容赦しない」
 そうは言われてもルサカが元凶なのは事実だし、タキアを心配せずにいられるはずがない。
 今はタキアもプライドを傷付けられて激怒しているし、ここでルサカが何か言うともっとタキアを怒らせそうだ。
 考える事は山ほどあるというのに、何故次から次へと面倒な事が起きるのか。竜と番人なんて、平和に暮らせないものなのか。
 リーンがライアネルをなんとしてでも自分の竜騎士にしようとしたその気持ちが、今なら良く分かる。
 より強さを求めるなら、強き騎士が絶対に必要だ。一生を共にする、命を賭けられる、背中を預けられるパートナーが。
 だから竜と竜騎士は対等なのか。
 あんなちゃらちゃらして見えても、さすがは千年を生きた強き竜だ。あの軽薄そうな見せ掛けは戦略なのではないかとすら思えてくる。
 あまりにも考える事が多すぎて、もうどこから手をつけていいのか分からない。たった半年ちょっとで人生が激変しすぎだ。
 思わずルサカは痛み始めたこめかみを押さえる。


2016/04/10 up

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