竜の棲み処

#58 竜の一番大切な宝物

 三頭の竜を飲み込んだ巨大な雷雲は、変わらずに何かの生き物のように蠢き、稲妻を抱く。
 澄み切った空に浮かんだ『竜の巣』を見上げたまま、ルサカは微動だにしなかった。
「……どれくらいで勝負がつくかしら」
 クアスの母親はのんびりと呟く。
 息子を心配していないのか、というくらい、のん気だった。
「一時間はかからないんじゃないかな。……どっちもまだ子供だし、まあ、タキアも多分手加減しないというか出来ないだろうから」
 エルーもひどくのん気だ。
 むしろ、この二人は勝敗が分かっているのではないか、というくらいの落ち着きっぷりだった。
「……エルーさん、タキアが絶対勝つって思ってるの?」
 エルーは不思議そうにルサカを眺める。
「そうねぇ。……苦戦はすると思うわ。風竜はね、とっても戦いにくい相手だから。眠らせたり毒の風を吹かせたり、他の竜とはちょっと違う戦い方をするから」
 座り込んでいたクアスの美しい母親も頷いている。
「うちの息子は、親の欲目を引いてもそこそこに強いと思いますわ。……同じ年頃の竜になら、負ける事はないと思っていました」
 思っていました。
 過去形だ。
「ただ……クアスはまだ子供だし、世間知らずだから、知らなかったのね」
 少女のように可憐な母親は少し恥ずかしそうに微笑む。私が息子可愛さに甘やかしてしまったから、とも付け加える。
「最も大切な宝を賭けたら、竜は考えられない強さを見せるって。……あの子自体が、まだ一番大切な宝物を持った事がないから、分からなかったのね」
 エルーもにこにこしながら頷いている。
「ファイアドラゴンの一番大切な宝物を奪おうとしたんだから、大火傷は覚悟の上なんじゃないかしらね」



 あの稲妻をはらんだ雷雲の中は、緑深い森と原野が広がる不思議な大地だった。
 あの雷雲はこの作った森を目隠しするためのものか、とライアネルは考える。
 リーンは竜の姿のままだった。恐らくそれは争いあう二頭の竜が飛び込んできてもライアネルを守れるようにであろう。
 ライアネルに魔法は効かなくとも、物理的なものは当然だがダメージを食らう。
 さすがに竜二頭が飛び込んできたらただでは済まない。
 リーンに話しかけたところで返事を聞いてもさっぱり分からないので、ライアネルはただ考察するのみだ。
 三十二年生きて、まさか竜同士の争いをこの眼で見るとは思わなかった。
 世の中本当に分からないものだ。
 二頭の竜は、リーンによれば『まだケツに卵の殻がついてるようなひよっこ』らしいが、そんな生ぬるい事は全くなかった。
 ものすごい迫力だ。
 こんな間近で竜のブレスを見るのも思えば初めてだった。
 二頭の竜は激しくブレスを吐き合い、牙や爪で切り裂き合う。
 リーンが魔力で生み出した森だからいいものの、なぎ払われ炎上する森をみると、これが人里で行われずに済んでよかったと心の底から思う。
 あたり一面火の海だ。
 タキアが焔のブレスを吐き、クアスが風のブレスを吐くものだから、煽られた炎は瞬く間に燃え広がる。
 竜のケンカは本当に恐ろしいな、とライアネルはつくづく思う。
 最初こそ五分に渡り合っているように見えたが、時間の経過と共にはっきり勝敗が見えてくる。
 タキアは容赦がなかった。
 ためらいなく鋭い爪を振るい、突き立て引き裂き、焔のブレスを吐く。もう一頭のエメラルド色の竜も食い下がっていたが、劣勢を覆せそうにはなかった。
 どちらも体躯は同じくらいだが、ファイアドラゴンの荒ぶり方は鬼気迫るものがある。
 そういえばいつかタキアがルトリッツで狂乱し暴れた事があったが、あの時のような、あんな理性を無くした暴れ方ではない。
 うまい言葉が見つからない。ライアネルは考え込む。
 例えるなら、静かな怒りか。
 ふと、先ほどのリーンに掴みかかろうとしたルサカを思い出す。
 あんな風に取り乱し怒り出すルサカを見た事が無かった。
 ルサカはいつでも、聞き分けのいい子供だった。
 引き取ったばかりの頃、仕事に行こうとするライアネルを、ためらいながらも後追いした事があった。
 心細かったのだろう、ルサカは泣きそうな顔で、言葉もなく追い縋っていた。
 あの時も、ライアネルが少し言い聞かせただけで、泣くのを堪えながらも大人しく引き下がった。
 聞き分けのいい子供。
 ルサカはいつでも、大人しく、物静かで、明るい笑顔の、とても『いい子』だった。
 ルサカがあんなに激しく訴えた事があっただろうか。
 あんな激しさをみせた事があっただろうか。
『ぼくにこそ、見届ける権利があるはずだ!』
 そう叫んだルサカは、もうライアネルがよく知る、幼いルサカではなかった。
 猫の香箱座りのように座り込むリーンの鋭い爪に覆われた前足に腰掛けながら、ライアネルは二頭の竜の争いを見守る。
「……お前の弟は、容赦ないな。なかなかやるじゃないか」
 深紅の鱗を纏った胸元を軽く叩く。リーンは小さな鳴き声を洩らしたが、それはライアネルの耳に、笑い声のように聞こえていた。

『なぜ、俺がこの話をお前にしたと思う?』
 この立ち会いの話を持ち掛けた時のリーンの言葉を思い出す。

『竜が一番大切な宝物を守る為に戦う姿を、お前に見せたいんだよ。……お前が文字通り宝物のように守り、育てた、この世に二つとない宝を、お前と同じように大切に守る姿を見せたいのさ』
 ま、弟には了解を取ってないんだけどな、と陽気にリーンは笑っていた。

 リーンは狡猾だ。ライアネルにとってリーンのこの賢明さは、狡猾だとしか思えない。
 気付いた時にはいつも退路を塞がれている。
 考えてみれば、見た目こそ異形で歳若く見えるが、中身は千年を生きた海千山千の竜だ。狡猾にもなる。
「これが見せたかったものなんだろう? ……俺が認めざるを得なくなるように」
 リーンは答えない。
 リーンの不思議なすみれ色の瞳は、楽しげに笑っているように見えた。
「……そろそろ止めなくていいのか? お前はそのために立ち会ってるんじゃないのか」
 ぽん、とその紅い鱗に覆われた鼻先を叩いて立ち上がり、リーンを促す。
 ライアネルが数歩下がるのを見届けてから、リーンはゆっくりと立ち上がり、翼を広げた。
 一声、咆哮する。
 巨大な翼を広げ音も無く舞い上がり、二頭の竜の間に禍々しい美しさの竜が降り立つのを、ライアネルは静かに見届ける。



 ルサカは稲妻を抱いた『竜の巣』を見上げたまま、落ち着きなくうろうろしていた。
 タキアが無事かそればかりが心配で、いてもたってもいられない。
 ルサカが落ち着きなく歩き回るたびに、ルサカを飾る紗や絹、宝飾品がしゃらしゃらと鳴るのを、エルーは座り込んで膝で頬杖をついて眺めていた。
「もうそろそろ終わりそうだし、ルサカも落ち着いたら?」
「……落ち着いていられないです。ぼくのせいでタキアがケガするかもしれないのに」
 クアスの可憐な母親は、『竜の巣』を見上げる。
「そろそろ戻って来るようですよ」
 そういえば、竜は離れていても言葉でないもので連絡を取り合う。
 ルサカはさっぱり状況がわからないが、彼らは恐らく、連絡を取り合っていて中の様子を把握しているのではないか。
 状況がわかっているにしても、このクアスの母親といい、エルーといい、のん気すぎる。
 竜はなんだってこんなにのんびりしていられるんだ、とルサカはイライラしていた。
「だから、言ってるじゃない。タキアは誰の弟だと思ってるの? って」
 エルーは立ち上がって伸びをする。
 そのまま雷雲を見上げて、小さく笑う。
「ほら、帰ってきた」
 雷雲から、紅い影がひとつ、飛び出してくる。
 深紅の翼に、二本の長く美しい尾。リーンだ。
「……エルーさんも、クアスのお母さんも……知ってたの? わかってたの?」
 やっとルサカはエルーの言っていた言葉の意味を理解した。
 クアスの母親は少し恥ずかしげに、困ったように微笑む。
「息子もこれで学んでくれたらいいなと思って」
 エルーはエルーでそれはもう楽しそうな笑顔だった。
「リーンの弟がそんな弱いわけないでしょ。それに……大切な宝物を失いそうな竜の本気はすごいよ。……千年生きた竜に大怪我させるくらいなんだから。……それ忘れてた? ルサカ」



 リーンの深紅の鱗に覆われた背から、ライアネルが降り立つ。
「……結果は聞くまでもないと思うが、勝者はタキアだ」
 タキアはそのライアネルの背後から、クアスを背負って降りてくる。
 幾ら竜が強靭だといえ、タキアもクアスも満身創痍だ。どちらも血に塗れている。
 抱きかかえていたぐったりしたままのクアスを彼の母親が抱き受けると、タキアはルサカを振り返る。
「……ルサカ、ただいま。ちゃんと勝ったよ」
 ルサカはたまらずにタキアの胸に飛び込む。
 飛び込んだタキアの胸元は、血でぐっしょりと濡れそぼっていた。
「なんだよ、ケガしてるじゃないか! ……こんなにたくさんケガしてるじゃないか!」
「これくらい、すぐ塞がるから大丈夫。それより、ルサカが汚れるよ。綺麗な服が台無しだ」
「服なんかいいよ! こんなのまた幾らでも着てやるから!」
 半べそでルサカは魔力を解放する。
 タキアの胸元の深い傷に手を当て、小さく竜の言葉を呟く。
 本物の竜の魔力に比べたら、ルサカの竜の魔法なんて微々たる威力だ。それでもタキアの傷を癒やしたかった。
 タキアの胸元に押し当てられたルサカの指先は、小さく震えていた。
 竜の言葉を呟きながら、ルサカはタキアを見上げる。
 その、大好きな、綺麗なすみれ色の瞳を見上げて、そのまま唇を寄せ、触れるだけのキスをする。
 そのキスに、タキアの方が驚いていた。慌てて唇を引き剥がす。
「……ルサカ、ヴァンダイク卿が」
 言われてやっとルサカも思い出す。ライアネルだけではない、周りにたくさんいる事すら忘れていた。
 もうタキアの事以外、全く頭になかった。何も考えずにタキアにキスしていた。
 慌ててルサカはライアネルに向き直る。
「……ライアネル様、立ち会いありがとうございました」
 思い切り自分からタキアにキスしているところを見せてしまった。
 首筋まで真っ赤に染めて、ルサカは羞恥のあまり俯く。
「……タキアはぼくをこんなに大事にしてくれています。ぼくも、タキアが……大好きなんです。そのタキアがぼくを守る為に戦ってくれたのを、ライアネル様に見届けて頂けた事、とても感謝しています。ぼくからもお礼申し上げます」
 その、俯いたルサカの髪に、ぽん、とライアネルが大きな手で触れる。
 懐かしい、大好きなライアネルの、大きな手だった。
 その温もりに、思わず涙が溢れそうになる。
 俯いていた顔を上げると、ライアネルがそのルサカの顔を覗き込んでいた。
 あの、攫われた日の朝にライアネルを見送った時と同じ、屈託のない笑顔だった。もうずっとライアネルが見せる事がなかった、穏やかな笑みだった。
 その笑顔が、大好きだった事をルサカは思い出す。
「……俺はずっと、ルサカは俺が守らなければいけない子供だと思い込んでいたよ」
 くしゃっ、とそのココア色の髪を撫でる。
 ライアネルの屋敷で暮らしていた日々が、遥か遠い日の事にも、つい昨日の事のようにも思える。
「ライアネル様……」
「あ。……クアスの意識が戻ったみたい」
 母親の膝の上で気絶したままだったクアスを、覗き込んだり手当てを手伝ったりしていたエルーが声をあげる。
 クアスはかなりの火傷を負っていた。
 強靭な竜の治癒力でじわじわと傷は塞がり始めていたし、エルーと母親の手で止血も施されていたが、なかなかの大怪我だ。
 こんな大怪我でも竜の生命力なら数日で跡形も無く綺麗に治ると分かっていても、胸が痛くなる。
 ルサカはそのクアスの傍に跪いて、その火傷を負った左手を取る。
「……色々複雑な気持ちなんだけれど、……ぼくの事を綺麗だって言ってくれてありがとう」
 クアスは無言のまま、ルサカを見上げている。
 その綺麗な頬にも火傷の痕があった。
「ぼくを欲しいと思ってくれて、ありがとう。……ぼくのせいで大怪我させて、ごめん。痛い思いさせて、ごめん。……タキアが大好きだから、一緒にいけないけど……ありがとう。ごめんなさい」
 そのルサカの手を、クアスはそっと握り返す。
「……ルサカ、ありがとう。……負けちゃったけど、僕が君を好きだった事を、覚えていてくれたら嬉しい」
 竜は何故、衝動的で刹那的なくせに、身勝手でわがままなくせに、純粋で素直で無邪気なのだろう。
 嫌いになんてなれないじゃないか、とルサカは思う。
 こんな子供のように素直に気持ちを伝えるなんて、竜は本当に、純粋すぎる。無垢すぎる。
 無謀で身勝手で自業自得なのに、憎む事なんて出来ない。
 クアスにも、いつか一番の宝物が出来るように、とルサカは祈らずにいられない。



 ある程度止血と手当てをすませると、『うちのおばかな息子がご迷惑をおかけしました。連れて帰って手当てします』と挨拶し、彼の可憐な少女のような母親は、力強く綺麗なエメラルドの風竜に変化すると、おばかさんな息子を背負って帰っていった。
「おばかさんていうか、みんな巣立った頃はあれくらいおばかさんだよね」
 エルーは陽気に笑う。
「こうして色々痛い目にあって成長していくんだよ。……俺もそうだった」
 リーンも楽しげだ。
 このリーンにもそんな時期があったとか、ちょっと想像出来ない。タキアみたいに無邪気で可愛かった頃があったのかな、とルサカは内心考える。
「そういえば、タキアも出会ったばかりの頃はあんな感じだった。よく似てるよ。……あれくらい身勝手っていうかわがままっていうか、子供っていうか」
「ひどい! ルサカは僕をそんな風に思ってたんだ!」
「概ね間違ってないと思うよ。……すごくタキアは大人になったと思うよ。ぼくもだけどね」
 そのやり取りを笑って見ていたリーンは、ライアネルを振り返る。
「ああ、そうだ。ライアネル、騎士団の仕事があったのに連れ出してすまなかったな。……ジルドアにも謝らなきゃな。仕事が進まないって文句言われそうだ」
 ライアネルは、空に少しずつ溶けるように消えていく雷雲を眺めていた。
「……うん? ……ああ、気にしないでいい。ジルドアはあんな事言ってるが、あいつ一人でも仕事は余裕で進むんだよ。ああ見えてあいつは結構優秀なんだ」
 振り返ったライアネルは、暫くタキアを見つめていた。
 暫く無言でタキアを見つめた後、リーンに向き直る。
「リーン。さっきのあの『竜の巣』は作るのが大変なものか? 下準備とか、魔力とか」
 急に話をふられて、リーンも少し不思議そうな顔をしていた。
「ん? ああ、別にそれほどでもないな。安定させるのに一時間くらいかかるが、別に造作もない。……これくらいは、すぐに作り出せる」
「そうか」
 ライアネルは深く頷く。
 頷いて、タキアに再び向き直る。
「……タキア。俺はまだ完全に認めたわけでもないし、許したわけでもない」
 ライアネルは腰に下げていた鞘から剣を引き抜き、床に突き立てる。
 誰もが無言だった。
 次に来る言葉を、全員が恐らく、予感していた。分かっていた。
 ライアネルは静かに、口を開く。
「……俺も正式に、申し込もう。……ルサカを賭けて俺と戦え」


2016/04/16 up

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