竜の棲み処 異聞録

#09 竜の娘 前編

 ノーマリィは、このルトリッツ騎士団国のヴァンダイク家に預けられた日の事を、はっきりと覚えている。
 忘れられるはずがなかった。
 この日を最後に、おそらくもう二度と、タキアともルサカとも会えない。それは幼心にも分かっていた。
 けれどノーマリィは、この日が来る事を、ずっと以前から知っていて、心の準備は出来ていたように思う。
 彼らと同じ時を生きていけないのだと、彼らから聞かされるまでもなく、察していた。
 ルサカが作ってくれた大切なうさぎのぬいぐるみを左手に抱き、タキアの綺麗な指をした大きな手にひかれながら、この青い屋根の屋敷への白樺並木を歩いたあの日の朝を、ノーマリィは一生、忘れない。
「ヴァンダイク卿は年若いけれど、立派な人だよ。……優しいし、面倒見もいいし、ノーマリィのいいお兄さんになってくれる。……卿には妹さんもいるから、きっと仲良くなれるよ。妹さんはノーマリィより少しお姉さんだね。……二人とも、とてもいい人だから。……ノーマリィをいじめるなんて事は絶対ないから、安心して」
 白樺の並木道を歩きながら、タキアはいつもよりやけに饒舌だった。
 ノーマリィを不安にさせないように、というよりも、まるでタキア自身に言い聞かせるようにも、聞こえていた。
「いつか……会いに来るよ。次に会えるのは、ノーマリィがお嫁に行く時かな。……その時は、ルサカを連れて必ず会いに来るよ。必ず二人で、お祝いに来るよ。……ノーマリィは誰のお嫁さんになるんだろうな。人間かな、それとも竜かな……。ノーマリィを大切にしてくれるなら、誰でも僕らは祝福するよ。……きっとルサカもそう思ってる」
 白樺の木漏れ日に照らされるタキアの顔を、ノーマリィは見上げる。
 泣きそうにみえるのは、頬に落ちる木漏れ日のせいだろうか。
「ノーマリィがお嫁に行くなんて、まだ先の話だけれどね」
 きっと、タキアやルサカにとっては、そんな時間は瞬きのように一瞬で通り過ぎていってしまうものだと、ノーマリィも分かっていた。
 その、瞬きのような時の中で彼らと過ごした記憶は、ノーマリィにとっては大切な宝物だ。
 青い屋根の屋敷の前の、大きな鉄の門扉の前にたどり着くと、タキアはかがみ込んで、ノーマリィを抱きしめる。
「……捨てるんじゃない。……きみには誰よりも幸せになって欲しいんだ。……人として生きていく道も、竜の番人として生きていく道も、きみ自身に選んで欲しい。……僕らと暮らしていたら、きみは人の世界を知らないままになってしまう」
 何度も聞いたそのタキアとルサカの気持ちを、ノーマリィは静かに受け入れる。
「人として生まれてきたんだ。人として世界を見て、生きて、それから、選んで欲しい。……ノーマリィ、僕たちはきみを愛しているよ。きみは、僕たちの大事な娘だ」
 そんな二人の気持ちなんて、言われるまでもない。
 彼らが深く慈しみ愛し、育ててくれた事なんて、ノーマリィ自身が一番よく知っている事だ。
 この日を忘れないように、ノーマリィはあの暗く澱んだ森の中から、タキアが救い出してくれた事を、一生、忘れない。



 ノーマリィは自分が何故、深い森の中に棄てられたのか、分からなかった。
 父と母と妹と、幸せに暮らしていたはずなのに、気付いた時には、この薄暗く澱んだ森の奥深くに捨てられていた。
 後で知る事になるが、恐ろしい伝染病に冒され、もう手遅れの状態で、森に置き去りにされていた。
 高熱に冒され、苦しみ、震えながらただ死を待つだけだったノーマリィは、暗い森の中に降り立った、青白い焔に覆われた煌めく紅い鱗の、美しい竜の幻を見ていた。
 それは幻ではなかった。
 薄暗い森の中で、その竜は、神々しく、美しく、目映く見える。
 遠く霞みそうな意識のどこかに、聞こえるはずのない竜の声が聞こえているような気がしていた。


 生きたいと願うなら、一緒に行こう。


 目の前の巨大な竜は、そう言っていたように思える。
 その竜の、前足の鋭い爪に、ノーマリィは弱った両手を伸ばし、必死でしがみついた。



 ノーマリィが清潔なベッドの上で目を覚ました時、あの竜の姿はなかった。
 代わりに、不思議なすみれ色の瞳をした赤毛の青年が傍にいて、つきっきりで看病をしてくれていた。
「……もう心配ないよ。……僕はタキア。きみを森で見つけたんだ。……まだ苦しいかもしれないけど、よく休んでいれば治るからね。……何も心配しないでいいよ」
 彼はノーマリィの汗を拭いたり、冷たいタオルを額に乗せたりと、とてもかいがいしい。
「ルサカ」
 彼はノーマリィを寝かしつけながら、部屋の扉の外にいる誰かに声をかける。
「この子、目が覚めたよ。もう大丈夫。……まだ熱と発疹が収まらないから、ルサカはこの部屋に入っちゃダメだよ。番人も病気にはなるからね。……そう簡単に死にはしないけど、病気が移ったら大変だから」
 ノーマリィはうとうとしながら、ふたりのやり取りを聞いていた。
「姉さんが人の薬には詳しいんだ。……カインやアベルに出会ったのも、森の中で人間のふりをして、妖しい薬屋をやってたからだしね。それくらい、薬作りには詳しいから、安心して」
 扉越しのルサカの声は、熱に浮かされたノーマリィの耳には、小さく細く聞こえていた。何を言っているのか、までは分からなかった。
「……この子の病気も、姉さんが薬を作ってくれたから、大丈夫。……でもルサカに移ったら大変だから、この部屋に入っちゃだめだよ。もうちょっとこの子が良くなったら、ルサカにも会わせてあげる」
 タキアは立ち上がって、扉を開き、何か一言二言交わして、再び閉めた。
「起きてるかな。……ルサカがきみに、プレゼントだって」
 うとうとしているノーマリィの頬に、柔らかな何かが触れる。
「ルサカがきみの為に、うさぎのぬいぐるみを作ってくれたよ。……ぬいぐるみは好きかなあ。気に入ってくれたら嬉しい」
 黒いなめらかな生地で出来たうさぎのぬいぐるみは、肌触りも柔らかく、抱きしめるとふんわりくたりとしていて、なんだかとても安心出来る抱き心地だった。
 うさぎのぬいぐるみを抱きしめて、ノーマリィは目を閉じる。
「……ありがとう」
 とても弱く、細い声だった。
 それがノーマリィが、初めて発した言葉だった。



「ノーマリィはめちゃめちゃ可愛いなあ。……子供ってなんでこんなに可愛いんだろう。何でもしてあげたくなっちゃうじゃないか。ね、タキア」
 元気になったノーマリィを膝に抱いて、ルサカはまめまめしく面倒を見ている。
 パンを小さく切ってあげたり、ミルクを飲ませたりと、びっくりするくらい、過保護だ。
「ノーマリィは自分でご飯食べられるってさ。……ルサカは本当に小さい子に甘いなあ。フェイの時もそんな風に甘やかしてたよね」
 タキアはあまり食事を取らない。少しつつくくらいで、大抵はお茶を飲んでいた。
 ノーマリィはルサカが作ってくれたたまごパンを囓りながら、二人のやり取りを見上げ、聞いている。
「子供はずるいよ。いるだけで可愛くて何でもしてあげたくさせるんだから。……そういえば、タキアはノーマリィにはヤキモチ焼かないんだね」
 タキアは少し拗ねたように目をそらし、唇を尖らせる。
「そんな昔の事、忘れた」
「ノーマリィは竜じゃないからかな。……おいしかった? お腹いっぱいになったかな」
 抱いていたノーマリィを膝から下ろして、傍らの椅子に置いてあった、例のうさぎのぬいぐるみを取って、手渡す。
 ルサカが作ってくれた大切なうさぎのぬいぐるみを両手で抱いて、ノーマリィはごちそうさまでした、とお礼を言う。
「ノーマリィ、ヨルと中庭で遊んでおいで。……洗い物が終わったらぼくも行くから」
 ルサカはとても優しくて、綺麗で、絵本やおとぎ話に出てくるエルフの王子様みたいだと、ノーマリィはいつも思っていた。
 タキアもとても綺麗で整った顔立ちで、すらりと背の高い彼もまた、絵本の騎士様のようだった。二人が並んでいる姿を見ると、本当におとぎ話の中に紛れ込んだような気がしていたが、後にノーマリィも気付く。

 本当に、おとぎ話の竜の巣に紛れ込んでいたのだ。




 ノーマリィはかろうじて、自分の年齢と名前は覚えていて、伝えられた。
 五歳で、名前はノーマリィ。
 さすがに誕生日までは言えなかった。
 両親の名前や、住んでいた町の名前も、こんな小さくては覚えていられなかった。
 もっとも、両親の名前と住んでいた場所が分かっても、タキアはノーマリィを両親の元には返さなかったかもしれない。
 幾ら恐ろしい伝染病に冒されているとしても、暗い森の中に、たった五歳の子供を捨てて行くような親の元になんか、返したくなかっただろう。
 ノーマリィは割とすぐに、あの暗い森の中で出会った、紅い鱗の竜がタキアだと知った。
 タキアもルサカも隠すつもりがないのか、隠すほどでもないと思ったのか、タキアを出迎えにルサカがノーマリィを連れて古城の天辺に登るので、タキアが竜から人に変化するのを何度も見ていた。
 古城の一日は、だいたいいつも同じだ。
 朝、ルサカはノーマリィとタキアを起こして、三人で朝食をとる。
 タキアは朝食が終わると、竜の姿に変化してどこかに飛び立って行く。
 ノーマリィはルサカの朝の家事が終わるまで、ヨルと一緒に中庭で遊んで、ルサカの家事が終わったら、一緒におもちゃを作ったり、遊んだり、勉強をしたりして、一日を過ごす。
 そうして一緒におやつを作っり、夕飯の下ごしらえをしているうちに、タキアが帰ってくる。
 たまに、おぼろげになりつつある両親と妹の事を思い出す。
 タキアやルサカと暮らすのは、家族と暮らしていた頃と何ら変わりがないように感じられる。
 父も朝、仕事に出掛けて、母や妹と過ごしていた。
 違う、としたら、この古城から一歩も外に出ない事くらいだ。
 タキアに助けられた頃はまだ幼かったノーマリィも、日々健やかに成長していく。
 時折現れる、大きな黒いトランクを持った謎の商人が人間ではない事も、毎日一緒に遊んでいたヨルが普通の犬ではない事も、だんだんと理解し始めていた。
 そして、ノーマリィが日々成長し変わっていくのに、タキアとルサカの外見が、全く変わらない事にも気付き始めていた。



 瞬く間に二年が過ぎ去って、ノーマリィは七歳になった。
「姉さんとこのちびが、ノーマリィはとても綺麗で可愛いって。気に入ってるみたい」
 タキアは恐らく、世間話程度のつもりでこの話題を出しているだろうが、ルサカはあまり快く思っていないような反応だった。
 ノーマリィはルサカの手伝いで一緒に銀器を磨いていたが、自分が話題になってもあまり関心がなかった。
『姉さんとこのちび』は、時々遊びにやってくる、タキアの姉の息子の事だ。
 巣立って何年か経っているとか、そんな話題が時々出るが、タキアにすごくよく似たお兄ちゃん、くらいの感想しかない。
「……ノーマリィ、このティーセット、しまってきてくれる? ……しまったら、もうお手伝いはいいよ。ヨルと遊んでおいで。書庫で本を読むのもいいかな。……重いのにごめんね」
 ルサカはノーマリィをこの場から、というより、この話題から遠ざけたいのだろう。おとなしくノーマリィは従う。
 盗み聞きするつもりはないが、ティーセットを満載されたトレイを両手に持っていては、足早に、とはいかない。
 ヨルとともに居間を後にするが、話し声は廊下にいても漏れ聞こえる。
「ノーマリィには自分で選ばせたいんだ。……人として生まれてきたのに、人の世界を知らないまま、番人になるのが正しいなんて、ぼくはどうしても思えない……」
 漏れ聞こえるルサカの声。
「いつか、人の世に返さないといけないんだよ……」
 似たような話は、何度か聞いてしまった事があった。
「他の巣みたいに大人の番人がたくさんいるような巣じゃないし、人の世で生きていけるような教育を与えられないのは分かってる。……分かってるんだ。だから、ノーマリィのこれからも考えなきゃならない……」
 ノーマリィは出来るだけ足早に、居間から離れる。
 聞いてはいけない事を聞いてしまっているような気がする。
「ねえ、ヨル。……タキアもルサカも、私と一緒にいたいって、思ってくれてるのかな。……だから、あんなに悲しそうなのかな」
 タキアやルサカと、自分は違う生き物なのだ、というのは、幼いながらにも察していた。
 ずっと一緒にいる事が出来ないという事も、ルサカは暗に教えてくれていた。
 タキアが何者なのか、ルサカが何者なのか。それは最近、ほんの少しだけ、教えて貰った。
 もう少し大きくなったら、もっと色々、説明するから、とルサカは言っていたけれど、多分、ルサカが思うよりもノーマリィは色々な事に気付いている。
 例えば、タキアとルサカの事。
 ふたりの本当の年齢は分からない。
 タキアはうんと大人に見えるし、ルサカはノーマリィが来た頃から、変わらず少年の姿のままだ。
 けれど二人は長い年月を一緒に生きていて、お互いをとても大切に、深く思い合っている事とか、ノーマリィはとっくに気付いている。
 ノーマリィが、タキアとルサカの本当の子供として生まれてこられたら良かったのに、と少しだけ悲しく思っている事を、多分、ルサカもタキアも知らない。


2016/07/20 up

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