竜の棲み処 君が僕の永遠(とわ)なる希望

#17 そう、信じたかった

 クアスは何度か帰って来たが、竜の姿のまま休む事もなく、また木箱を掴んで飛び去っていった。それを庭に積まれた木箱がなくなるまで繰り返していた。そう忙しなく飛び回って屋敷に戻ってきたのは、次の日の明け方近くだった。
 帰って来たクアスは、さすがにここ数日で疲労していたのであろう。お茶も飲まずに寝てしまって、起きてきたのは丸一日経ってからだった。
 人間なら何度か起きるだろうに、クアスは一度も起き出す事なく、死んだように眠っていた。あまりに静かに眠っているので、ユーニは心配のあまり、何度か寝室まで様子を見に行ってしまっていた。
「……死んでないから。竜は寝なくても平気だけど、寝ようと思えばこれくらいは寝続ける」
 起き出してきたクアスは少々呆れたような顔をして、ユーニの用意した朝のお茶を飲む。
「あんなに飛び回り続けたのは初めてかもしれないな。……営巣地探しでだってこんな慌てて飛び回った事はなかった」
 それはユーニもとても気になるところだ。こんなに慌ただしく夜遅くまで、クアスは何をしていたのか。それにあの砂糖と塩の詰まった大量の木箱。あれもどこに消えてしまったのか。そうユーニが尋ねると、食後の果物をクーと一緒に食べていたクアスは、軽く頷いて見せた。
「じゃあ、何に使ったか教える。この林檎を食べ終わったらね」



 クアスに言われた通りに、ユーニは砂糖と塩の入った壺と、水の満たされた水差し、それからライムを用意する。
「これは父さんが作り方を教えてくれたんだ。ガルビア半島ではよく使われる病人の為の飲み薬だ」
 クアスは大きめのグラスに砂糖と塩を量り入れる。砂糖に比べれば塩はほんの少しだ。そこに水を注ぎ込み、スプーンでぐるぐるかき混ぜる。
「薬草は入れないんですか?」
 ユーニにとって、薬と言えば薬草だ。けれどこの高級な白砂糖は、滋養たっぷりにも思える。これが薬なのだろうか。
「これで完成。……飲んでみる?」
 手渡されたその『病人の為の飲み薬』をユーニは勧められるままに飲んでみる。甘くて、ほんの少しの塩味を感じるが、何の変哲もない砂糖と塩と水だ。それ以上でもそれ以下でもない。
 不思議に思いながらグラスの中を見つめていると、クアスがそこにライムの果汁を搾り入れる。
「あればライムやレモンを搾るとさっぱりして飲みやすくなる。……レモンはこの辺りじゃ貴重かな」
 ライム香るグラスに、ユーニは再び口を付ける。おいしくなったような気がするが、やっぱり砂糖と塩と水だ。
 なんとも不思議に思っていると、クアスは小さく笑いを漏らす。
「なんでこれが薬? って思ってるだろ? これは高熱や下痢が続いて弱った病人の為の薬だ。これを飲める間は死ぬ事はない。風疫にはこれしか効く薬はない」
「風疫? 聞いた事ないです」
「簡単に言えば重い風邪だな。あの村でばたばた人が死んでたのはこの風疫のせいだ」
 ここで村の話が出てくるなんて、思いもしなかった。ユーニは心臓が跳ね上がる。
「厳しい寒さになった冬に流行りやすいって聞いたな。僕の故郷のガルビア半島でも、たまにこんな風疫が冬に流行る。……この薬が用意できない貧しい地域には、母さんが材料を配っていた。……これのたちが悪いところは、治す薬がない事だ。栄養とって寝るしかない。なのに、ひどい高熱と吐き気のせいで、食べる事もままならなくなるし、高熱や嘔吐、下痢のせいで身体が乾いていく。……で、この水と砂糖と塩が薬になる。正確に言えば薬じゃないが、この病気を治すのにこれが一番効くから、薬って呼んでる」
 皿の上の絞ったライムをクーがつついている。いい香りにつられたようだが、酸っぱさに驚いたのか、きゅーっ、と不思議な声をあげていた。
「これを治るまで飲み続ける。それから、部屋の中で鍋いっぱいの湯を絶やさず沸かし続ける。この病気は湿気を嫌うんだ。乾燥させていると重くなるし、病気が移りやすくなる。だから鍋に湯を沸かし続けるのが大事なんだよ」
 クアスは『絶対に助けない。そんな奴ら、苦しんで死ねばいい』そう言い切っていた。そう言っていたのに、助けてくれた。
 ユーニはぱあっと笑顔になる。そう笑みを浮かべながら、泣きそうだった。胸がぎゅっとなるくらい、嬉しかった。
 ユーニの泣きそうな笑顔に、クアスは慌てて口を開く。
「あの病気は、簡単に人に移るんだ。だからあっと言う間に広がる。あの村でそんなに人が死んでるなら、この国中で流行ってる可能性があった。だから数日飛び回って調べたら他の村や街でもごろごろ人が死んでた。病気が流行って人が死ぬと、国が貧しくなるのは当たり前だ。そうなると僕の巣作りにも影響がでる。……あの村は死んでも助けたくなかったけど、この病気は移るからな。あの村だけ治さなかったら、また他の村や街に飛び火する。……しょうがないから木箱を置いてきてやった」
 あの紙は、この薬の作り方だったのか。ユーニはやっと納得した。あの紙に書いてあったのは、砂糖、塩、水。風疫の対策法とこの飲み薬の作り方を、木箱一杯の砂糖や塩と一緒に届ける為に、クアスは夜通し何枚も書き続けていたのか。
 耐えきれなかった。ユーニは堪えきれずに、泣き出す。
「……ありがとうございます。……クアス様は、竜は神様じゃないって言っていたけど、でも、竜が、クアス様がこの国に来てくれなかったら。助けてくれなかったら。クアス様がいなかったら、どうなっていたか……きっとたくさんの人が亡くなっていました……」
 どんな言葉でも、感謝を伝えられない。必死にユーニは考えるが、出てくる言葉はたどたどしくて、拙い。もどかしかった。
「……なんで泣くんだよ。泣く事はないだろ……」
 ライムの皿の上でくぅくぅ鳴いていたクーを摘まみ上げて、ユーニの頬に押し付ける。クーはユーニが泣いているのに気付いて、大慌てだ。肩にしがみついて一生懸命くちばしで涙を拭おうとしている。
「助かるかどうか。砂糖が高く売れるからって独り占めするようなバカがいないといいな。いなければ死ぬ人は激減するだろ」
 こんな風に言っているが、クアスは何日も国中を飛び回り、病気を調べていた。そして、この薬を届ける為に、休まずに飛び回り、木箱を運び続けた。
 もしもこの国にクアスが巣を作らなければ、どれだけたくさんの人が亡くなっただろう。
 どんなに竜が屈強でも、こんなに飛び続けるのは決して楽な事ではないはずだ。少しでも多くの命を救う為に、彼は飛び続けた。だからクアスは、何もかも終わった後に、疲れ果てて死んだように眠っていた。
 クアスはこんな風に言っているけれど、とても優しい。死にゆく人々を見捨てられるような、そんな冷たい魔物なんかではない。だからどこの誰かも分からない、みすぼらしく汚らしいユーニも助けてくれた。あれほど嫌っていた村の人々も、分け隔てなく、助けてくれた。
 竜は国の守り神にもなると誰かが言っていた。それは本当の事だとユーニは思う。
 こんなに嬉しくて幸せなのに、涙が止まらなかった。嬉しくても涙が出る事を、生まれて初めて知った。
「……不思議だ」
 そう呟いたクアスの指先が、ユーニの濡れた頬に触れる。触れた優しい指先は、零れ落ちる涙を拭う。
「あんなひどい目に遭わされて、どうして憎まないんだ。……どうしてあんな奴らの為に、泣くんだ」
 責める口調ではなかった。まるで幼子のように、無垢な囁きだった。
 そのクアスのあまりに優しい指に、ユーニは余計に泣きたくなる。切なくなるくらいに、胸が痛む。
 分からない。あの頃、悲しく思う事はあった。けれど、憎いと思う事はなかった。それは信じたかったのかもしれない。誰もが生きていく為に必死だっただけだと、そう、信じたかった。


2017/11/26 up

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