竜の棲み処 君が僕の永遠(とわ)なる希望

#21 そんな勇気すら持てない

  雲に覆われた薄闇は再び霙を降らせ、冬の夕暮れのように冷え冷えとさせる。その霙の中を帰って来たクアスは、羽織っていたクロークを脱ぎ捨てて暖炉の前に座って、冷えた身体を温めていた。
「……クーはちっとも大きくならないな。ユーニはこの一冬で結構肉がついて一応は健康そうになったのに」
 膝の上で気持ち良さそうに丸くなっているクーを指先で撫でるクアスは、出掛ける前よりはイライラが収まっているように見える。
 ユーニはいつもと変わりないような素振りで、お茶の用意を続ける。
「山吹さんが、『読み聞かせフクロウ』はあまり大きくならない子が多いと言ってました」
「栄養は全部頭が消費してるんだろうか。考えてみたらこの小さい頭でよくあんなに本を読み上げられてるな。あんまり中身が詰まってそうに見えないって言ったら、クーは怒るかな」
 たまにクアスはクーをしつこく撫で倒す。クーも最初の頃はむーむー言っていたが、今は慣れたのか諦めたのか、されるがままにコロコロされている。
「まあ、本も読めて番犬代わりも、は万能すぎるかな。……繁殖期に備えてもうちょっと茨を育てておこう」
 この屋敷を護る森の茨は、ごく普通の茨と、クアスが魔力を注いで育てた茨の二種類がある。強固な城壁のように絡み合い侵入者を拒むのは、この魔力を帯びた茨だ。
「繁殖期は一週間程度だけど、その前後含めて十日から二週間くらい、実家に帰る。クーとユーニだけになるけど、まあこの茨を破れるようなのは二千年くらい生きた猛者中の猛者の竜くらいだと思う。風竜の魔力で育てた植物は強靱だから、そこは安心していいよ」
 お茶の用意ができると、クアスはクーを連れてテーブルにつく。
 クアスの故郷ガルビア半島でよく飲まれている菩提樹の花とカミツレのお茶に、少しのミントを加えたものと、薄く伸ばした生地に溶かしバターを塗りながら胡桃や榛の実とスパイスを挟んで重ねて焼いて、甘い蜜を掛けたパイ。どちらもクアスが子供の頃から慣れ親しんだ午後のお茶の定番だ。
 難しい調理法が理解できるようになってから、一番最初に作ったのはこのパイだった。クアスの好物でもあり、故郷の味でもある。ささくれだったクアスの気持ちを少しでも慰めたかった。ユーニがクアスの為にできる事なんて、これくらいしかない。
「……この菓子まで作れるようになるとは思わなかったよ。やっと半年経つかどうかってくらいなのに、ユーニはよく頑張ってる」
 クアスはこんな時、必ず惜しみなく褒める。思えば、いつでもそうだった。よくできていれば必ず褒める。だめだった時も、諦めるなと励ましてくれていた。辛辣な口を利いても、いつでも誠実だった。
 その優しさも、今はユーニの胸に痛みを与える。
 何を話せばいいのか、ユーニは分からなかった。ただ黙って、差し向かいでお茶を飲む。クーが時折、クアスにパイの欠片をねだらなければ、気まずいくらいだっただろう。
「人のふりする癖に、発情期があるなんて動物みたいで気味が悪いって思ってる?」
 唐突にそんな事を言われて、ユーニは蒼白になる。決してそんなつもりはなかった。けれどこのユーニの重く塞いだ気持ちの理由を、クアスに言えるはずがない。
「そ、そんな事思ってません!」
 これが精一杯だった。どう返せばいいかなんて、まるで思いつかなかった。クアスは気分を害しているような素振りもない。ただ淡々と続けるだけだ。
「実際動物だから仕方ない。……竜が人の姿をとるようになったのだって、繁殖の為なんだ。竜は繁殖力が弱いし、個体数が少ない。だから繁殖力が強くて数もたくさんいる人間に子供を産んでもらおうって事だよ。繁殖の為だけに、人の姿になれるよう進化した」
 クアスは気付いている。ユーニがクアスを崇拝せずにいられない事も、盲信している事も、竜のクアスも人のクアスも、目映いくらいに美しいと思っている事も。
「ユーニに迷惑をかけるような真似はしないから、安心していい。……まあ竜はそんな尊敬できる生き物じゃない。綺麗なものが大好きで、綺麗な人間も大好きで、欲しければどんな事をしても手に入れようとする、動物だよ」
 もしかしたら、ユーニの密やかな好意にも気付いているのかもしれない。そう思い当たると、ユーニは泣きたくなるくらい、胸が痛かった。恥ずかしかった。 
 もしも綺麗だったなら。竜が、クアスが好むような美しい人間だったなら。もしもそんな美しさがあったなら、この気持ちを伝える勇気が持てたかもしれない。
 黒炭のように重く沈んだ髪が、金糸のような明るい髪だったら。珍しくもない地味な鳶色の瞳ではなく、蒼く澄んだ美しい瞳だったなら。もっと、賢ければ。素性の分からないような孤児でなければ。竜の子供を産める女性だったなら。
 情けないくらいに、自信がなかった。自分には誇れるものなんて何もないと思えた。気持ちを伝える、そんな勇気すら持てない自分が恥ずかしく、情けなく、惨めだった。



 クアスがガルビア半島へ旅立って、この茨の巣はクーとユーニのふたりだけになった。
 クアスがいないだけで、何も変わっていない。ほうきウサギはいつものように屋敷のあちこちを歩き回っているし、不思議な薪は変わらずに燃え続け、屋敷を穏やかに暖めている。
 クアスは普段から出歩く事が多く、昼間にいる事の方が稀だ。それでも今、彼がいないだけで不思議なくらい静かで、空っぽに思えた。
 冬の厳しい寒さと容赦ない積雪で中庭も玄関ポーチも荒れている。ユーニはクーを連れて見回りしつつ、修繕や手入れが必要な場所と、道具や材料を確認しメモをとる。
 常に何かをしていなければ、余計な事ばかりを考えてしまう。働き続けて考える事をやめなければ、心が砕けてしまいそうだった。
 一巡しメモを取り終えて、それから茨の森へ向かう。指輪に祈りを捧げ、硬く絡み合う茨を解き、道を開く。
 この巣に来たばかりの頃には葉を落とし、禍々しい棘を張り巡らしていた茨にも、新芽が生まれていた。小さな緑の芽と、白く小さな蕾。野苺の花の芽にとてもよく似ている。
 この茨の湖には高山の冷たく澄んだ雪解け水が流れ込むせいか、春の訪れが遅いのかもしれない。村の周りの森なら、この時期にはもう少し、花や草木が芽吹いているはずだ。
 まだほんの少し、茨の森の木陰には雪が溶け残っている。残雪に足を滑らせないように慎重に岸辺に向かう。
 あまり大きくなっていないように思えたクーは、随分飛べるようになっていた。以前は頼りなくふらふらと飛んでいたけれど、今は綺麗にしっかりと翼を広げ、飛ぶ事が出来るようになった。今もユーニより先に飛んで、辺りを見回しているようだった。
「すごいね、随分飛べるようになったね!」
 そうユーニが声をかけると、クーは得意げだ。大きく羽ばたき、風に乗って湖上を飛び回る。
「遠くに行かないようにね! それから、気をつけて! 疲れる前に帰って来るんだよ!」
 クーなりに、元気のないユーニを励まそうとしているのかもしれない。クーはいつもユーニを励まし、慰め、寄り添ってくれる。その、語る言葉を持たないクーの気持ちに、いつもユーニは泣きたくなる。言葉で語り合えずとも、クーは大切な友達だった。
 暫く湖の上空を飛んでいたクーは、何かを見つけたようだった。急ぎ、ユーニの元まで戻ってくる。
「どうしたの、クー。もしかしてララさんが来たのかな?」
 ユーニの掲げた右の手首に舞い降りたクーは、振り返り、指し示すように翼を広げる。
 微かに聞こえるのは、ララの声だ。
 いつもの切り立った岸に立つと、見慣れたララの若草色のスカーフと小舟が目に飛び込む。
「……ユーニ! 聞いて! ユーニ!」
 ララはユーニの姿に気付き、小舟から身を乗り出すようにして叫ぶ。
「来たの! 村に、あんたを探してる人が! あんたと、あんたを連れて来た男の人を、ずっと探してたって人が! あんたのお母さんが、ずっとずっと、探してたって……!」



2017/12/07 up

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