竜の棲み処 君が僕の永遠(とわ)なる希望

#23 さよならは言わない

 茨に芽吹いていた小さく硬い蕾は、可愛らしい白い花を咲かせた。
 禍々しいほど鋭い棘を纏っているのに、次々と開いた花は小さく可憐だ。一重の真っ白な花は、苺の花や一重咲きのツルバラにとてもよく似ている。
 茨の森だけではない、中庭も光満ちて花盛りだ。その明るい庭先で、クアスはユーニを見送る。
「行っておいで。この屋敷の事は気にしないでいい。ゆっくり母親に会って、話して、十五年分の空白を埋めてくるんだ」
 ユーニは荷物を詰め込んだトランクの持ち手をぎゅっと握りしめ、黙って頷く。何か言わなければと思っても、言葉は何一つ、出てこなかった。
「もしも母親が一緒に暮らしたいというなら、僕に恩を感じて迷う必要はない。普通の子供と同じように暮らせる人生の方が大事だ。……別に一生の別れじゃないし。僕はこの国に棲みついているから、何かあったらまた会いに来ればいい。……いつでも歓迎するよ」
 そうだ。永遠の別れではない。いつか大人になったら、またクアスに会いに来る事もできる。
 ただ、その時はもう、誰かがクアスの傍にいるだろう。
 美しくて賢くて、竜の子供を産める、番人が。クアスに相応しい綺麗な番人が、きっと寄り添っているだろう。
 クアスと共に千年の時を生きるのは、ユーニではない。他の誰かだ。
「行っておいで、ユーニ」
 もう一度、クアスは繰り返す。
「……本当の母親に会って、本当の名前を教えてもらうんだ。今まで手に入らなかった幸せは、きっと君の母親が与えてくれる。……さよならは言わない。……また会おう」
 ユーニは泣き出したいのを堪えるのが背一杯だった。
 勇気が欲しかった。
 名無しの孤児に与えられた最初の名前が、何よりも大切だった。
 本当の名前なんかなくても、クアスが付けてくれた『ユーニ』という名前があれば、それだけで幸せだった。

 あなたが名付けてくれた『夜明けユーニ』でいたい。
 何も持たないぼくに名前と、生きていく希望を与えてくれたあなたが、世界で一番大好きです。

 こんな簡単な事を伝えられる勇気が、どうして持てないのだろう。こうなった今も、そんな意気地なしの、臆病な自分のままだった。自分の気持ちさえ口にできない。もどかしいほど、言葉は出てこなかった。
 あなたが好きです。
 たった一言伝える勇気が持てない自分が、悲しく、情けなく、惨めだった。



 迎えに来たララの粗末で小さな小舟は、ユーニを乗せて漕ぎ出し、ゆっくりと遠ざかって行く。
 静かにそれを茨の森の切り立った崖からクアスとクーは見送っていたが、クーはひどく腹を立てている。聞いた事もないくらい、不機嫌な唸り声を上げていた。
「……怒ってるのか、クー」
 そうクーに尋ねると、クーはむー! と分かりやすく返事をする。クアスは小さく笑って、クーを左手に乗せ、空へ掲げる。
「……お行き。お前はユーニの友達なんだろう。これからも、今までのようにユーニの傍にいてやれ」
 クーは夜空の瞳でクアスを見おろし、戸惑いながらも両翼を大きく広げる。
「護っておやり」
 クーは小さく、くぅ、と鳴いて、クアスの左手から飛び立つ。あれほど頼りなかった小さな子フクロウは、今は力強く翼を広げ、風を切るように飛ぶようになった。
 その小さなクーと小舟を、遠く見えなくなっても、クアスは言葉もなく、見つめ続ける。



「……えっ……! クー、来ちゃったの!?」
 小舟の上のユーニの肩に、いつもの触り慣れた慣れたフワフワの羽毛が触れた。クーは元気よく、いつのも定位置であるユーニの肩に乗って、くぅ! と一声、得意げに鳴く。
「だめだよ、クーはクアス様のものなんだよ。……メレディア様が、クアス様の為に用意したお金で買ったんだから」
 クーは『絶対に帰らない!』とでも言うように、くぅくぅ鳴きながらユーニの首に巻かれたもこもこのショールに爪を立ててしがみつく。
「この子、いつも一緒にいたちびちゃんだよね」
 小舟を漕ぐ手を休めずに、ララはクーに語りかける。
「友達だから、一緒に行きたいんだよね? ちびちゃん。……きっと、その竜のご主人様も、そう思ったんだよ。……一緒に行ってあげるといいって」
 ユーニもその言葉に、素直に頷く。
「……もう帰れなんて、言わないから」
 ショールに必死に爪を立てるクーを両手で包んで、撫でる。
「クアス様が寄越してくれたのかな。……ありがとう、クー。一緒に行こうか」
 クーも安心したのか、やっとユーニを見上げ、いつもの甘えた鳴き声をあげる。
 知らない場所へ行く不安はあった。今はクーがいてくれて、とても心強く思える。小さなフクロウは、ずっとユーニを支えてくれた大事な友達だ。クアスはきっとそう分かっていて寄越してくれたのだ。
「……村の皆に見つかると色々面倒だから、迎えの人にはその対岸の森で待っててもらってるの」
 ララはいつもは使っていない船着き場を指し示す。
「あんたのお母さんは、隣の国の人なんだって。マデリン王国って言ってたな。マデリンまでは一緒に行けないけど、国境までは一緒に行くから」
「宿屋は大丈夫ですか? 春はたくさん行商の人が移動する時期だから、とっても忙しいんじゃないですか?」
 ララはニコニコ笑ってみせる。
「大丈夫、亭主には宿のお客さんを送ってくるって言ってあるし。お客さんに口裏合わせてもらったんだ。……あんたは弟みたいに思えるって言ったでしょ。心配だから、途中までだけど、一緒に行きたいんだ」
 「ありがとうございます、ララさん。……ララさんには、どんなにお礼を言っても言い足りないです。……ありがとうございます」
「気にしないでいいんだよ! あんたが幸せになってくれたら、あたしも嬉しいんだ。あんたみたいないい子が幸せになれないなんて、おかしいもん」
「……ありがとうございます。ぼくも、いつかララさんが困ったら、ララさんを助けられるようになりたいです」
「助けてくれたじゃない。……あんたと、あんたの竜のご主人様は、村の人を……ううん、国中の人を助けてくれたよ」
 「それはクアス様が助けてくれたんです。ぼくじゃない。……ぼくがいつかララさんを助けられるよう、頑張ります」
 ララは声を上げて笑う。
「あんたのそういう真面目なところ、可愛いなあと思うよ。……さあ、ついたよ!」
 小舟を船着き場に繋ぐと、ララは笑ってユーニに手を差し伸べる。



 船着き場を降りて森の小道を暫く歩き、大きな林道に出ると、無骨なくらい大きな馬車が止まっているのが見えた。御者台に木造の箱形の荷台のついた、四頭立ての立派な馬車だ。客車というよりは、少し高級感のある貨物用だろうか。
「お待たせ、連れて来たよ! この子が十五年前の雪の日に来た赤ちゃんだよ」
 そうララが声を掛けると、御者台の男が降りてくる。
「……思ったより地味な子だな。まあいい。奥さんありがとう、もう帰っていいよ。これはお礼だよ」
 中年の、少し陰気な感じのする男はララに重たげな小袋を差し出す。
「お金なんていいよ。あたしはこの子を母親に会わせてあげられればそれでいいんだ。……どうか、無事に連れて行ってあげてね」
「大丈夫だよ、任せてくれ。……坊ちゃんはこっちだ。おいで」
 男はユーニの手を掴んで、馬車へと数歩歩く。
「待って、あたしも連れて行って。……心配だから、国境までは一緒に行きたいの。この子も心細いと思うし」
 クーが小さく鳴く。この声は何かに警戒している声だ。肩の上のクーを片手で撫でながら、ユーニは戸惑いを隠せない。
 少しの沈黙があった。男は被っていた黒い帽子を脱いで、ララを振り返る。
「……奥さんはそのまま帰す事になってたんだがなあ。面倒な事になっちまったな」
 ユーニのショールの中から顔を出していたクーは、素早く這い出してユーニの肩にしがみつく。小さくくちばしを開き、威嚇するような低い唸り声をあげた。



2017/12/12 up

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