首都ランアークの魔法騎士団の団長に、そう世間話を振られて、一瞬、カインは言葉に詰まる。
壮年に差し掛かるこの団長は、そのカインの不自然な反応には全く気付いていないようだった。
「調査なさるのですか、団長」
かろうじて、言葉を絞り出す。
今、詰め所にいるのはアベルとカインと、この団長と、団長付きの秘書官だけだ。
この団長はカインたち兄弟を特に目を掛け、可愛がってくれていた。それはカインが弟を育てながら、地道に努力し働き続けていたからかもしれない。
「王が興味をお持ちになられた」
団長は自慢のあごひげをいじりながら、小さく唸る。
「……魔女が作る珍しい秘薬に興味をお持ちなだけではなくてな……。また悪い虫が」
このランドール王国の王は、団長より少し若いくらいで、普段は名君だった。
ただ、女が絡むと目の色が変わる。
他の事なら幾らでも我慢も融通も、寛大さもあるのに、女だけは譲れないという、たちの悪い癖があった。
過去に臣下の妻を召し上げ奪い去るような真似をした事もある。
しかし歳を重ねるにつれ、その悪い癖も収まったように見えていた。
「ああ、焔の魔女が美人だっていう噂のせいで?」
焔の魔女の噂は、当然アベルの耳にも入っていた。
考えてみればアベルは耳聡い。焔の魔女の噂を知っているなら、カインが手に入れた薬の出所にも気付いている可能性が高い。
カインにとってはエルーとアベルの両方とも、頭の痛い問題だ。
「赤褐色の巻き毛の、美しい娘という噂を耳なさってから、すっかり王は……。困ったものだよ」
団長は大げさにため息をつく。
「今は周りの者がお止めしているが、いつまでそれも続くか。説得出来るようなら今までだって苦労はなかったもんだ」
ランドール王は、手に入らないとなると余計に熱くなるタイプだ。
かつで寵臣の妻を奪ったのも、周りに止められて余計に燃え上がったせいだ。
カインは軽く痛み出したこめかみを押さえる。
「で、その魔女はルズの蒼い森のどこに? ……そのうち誰かが迎えに行かされるんだろうなあ」
どうせ俺たちが探しに行くんだろうけど、とアベルは少し愚痴っぽい。
確かにどう考えても楽しい仕事でなない。
「噂だけだからな。まずその焔の魔女の妖しい薬屋を探さなければならん。……そのうち痺れを切らした王が騒ぎ始めたら、我々も動員されてルズの蒼い森を捜索する事になるだろう。……気の重い仕事だよ」
団長は愚痴がてらに世間話をしたかっただけだろうが、カインにとってはありがたい情報だ。
エルーに知らせる事が出来る。
エルーに、王の寵愛を得て贅沢な暮らしをしよう、とかそんな野心があるなら、あんな辺鄙な場所で妖しい薬屋なんかやっていなかっただろう。
あの美貌を利用して幾らでものし上がれた。
そうなると、速やかにエルーに事の重大さを知らせて国外に逃がした方がいいのではないか。
幸いまだ王も騎士団も、エルーの店の場所までは突き止めていない。噂止まりだ。
知らせるなら、少しでも早い方がいい。
団長とその秘書官を見送ると、カインは慌ただしく外出する支度を始める。
「カイン、例の赤毛の美女のところか?」
アベルにそう冷やかされて、適当に頷く。
「野暮用だ。夜には帰る」
カインにしてはずさんだった。いつもなら冷静沈着に行動出来ただろうし、アベルの様子にも注意を払えた。
だが、今はそんな心の余裕がまるでなかった。
あまりに馬を飛ばしすぎて、ルズの蒼い森の、エルーの店の前に辿り着く前に、馬がバテてしまった。
慌てていたせいで、馬の足に魔術を施す事をすっかり失念していた。
もう走れそうにない馬を川縁の立木に繋ぎ、徒歩で店に向かう事にする。
一刻も早く、エルーに知らせなければならない。
いつ、王が痺れを切らして暴挙に出るか分からない。そうなる前に、エルーを速やかに国外へ逃がさなければならない。
カインはひどく焦っていた。
木立を抜けてエルーの店の前に辿り着くと、店の前の立木に馬が一頭、繋がれていた。
いつか鉢合わせした、白砂の国の王女の芦毛だ。
特にカインはこの時、何も考えていなかった。
エルーに早く知らせなければならない、とそればかり考えて焦っていたのもある。
初めて鉢合わせた時に、微妙な雰囲気だった事なんか、すっかり忘れていた。
店の扉を静かに開く。
甘ったるい花のような匂いが充満する店の中は、仄明かりだけで薄暗かった。
小さな衣擦れの音がする。
ほのかな光を放つオイルランプに照らされた、人影があった。
黒髪の華奢な少女を抱いたエルーの、なめらかな項が見える。
「……エルー……」
白砂の王女の細く甘い声が、静かな店の中に響く。
「……いい子ね、メイア。……大好き。とても綺麗で、甘くて、可愛い。私のメイア」
ちゅっ、と濡れた音が響いた。
細いエルーの項に、メイアの両手が絡みつく。
「エルー……あ、んんっ……!」
ここからは、エルーの後ろ姿と、そのエルーにしがみつくメイアの細い手しか見えない。
それでも何をしているのかは明白だった。
貪っていたメイアの紅い唇から、ようやく唇を引き離したエルーは、顔を上げる。
「ああ。ごめんなさい。……変なところ見せちゃった」
エルーは驚きもしなければ、悪びれもしない。カインが来た事にとっくに気付いていたのだろう。
蕩けたように目を閉じ、エルーの胸にもたれかかるメイアの、白くなめらかな額に軽く口付ける。
予想もしなかった光景に、カインは呆然としていた。
何も言葉が出てこない。
全く羞恥を感じないのか、エルーは気にもしていないようで、かえってカインの方が戸惑い、羞恥を感じる。
エルーはくったりとしたメイアを店の隅の肘掛け椅子に座らせて、それからカウンターへ戻る。
「まあ、座ってよ、カイン。何か話があるって顔してるよ。それから……」
カインの背後の店のドアを見つめる。
「えーと、カインのお連れさんもね。アベルだっけ? ……あの時は死にかけてたから、私の事なんて、覚えてないかなあ。まあ、入ってよ。立ち話もなんだしね」
複雑な表情で、息を潜めて隠れていたアベルは大人しく、エルーに従った。
アベルに付けられていたなんて、カインは全く気付いていなかった。あまりに焦りすぎていた。
兄弟が並んで座り、なんとも気まずい空気が流れる。
メイアは肘掛け椅子にもたれて眠ったまま、起きる気配はなかった。
「変なとこ見せちゃったなあ。……ごめん。あの子は竜の番人になるから、変なことはしてないよ。ちょっとキスしただけ」
どこから話したらいいのか、エルーも分からないかもしれないが、カインとアベルだって分からない。いきなりこんな現場に踏み込んでしまって、戸惑うしかない。
「なにか話があるとか、持ってきてくれたとかじゃないの? カイン。用事があったんじゃ?」
確かに重要な用事があった。
あったが、今は激しく混乱していて、カインは何を言ったらいいのか分からない。
アベルはといえば、堅物の兄が恋い焦がれている女を一目見てやろうと後を付けてきたら、とんでもない現場に遭遇してしまって、もっと混乱している。
兄の恋した女が焔の魔女で、どうも兄は自分を助けるために焔の魔女から法外な値段で薬を買い、そしてこの美しい魔女が何故か隣の国のまだ幼い王女と熱烈な激しいキスをしていた。
さすがのアベルも言葉が出てこない。
エルーも困っているが、恥じらいはない。
大した事じゃないのに、何故この二人はそんなに動揺してるのか。何をそんなに困惑する事があるのか、という顔をしている。
「二人ともなんでそんな顔するかなあ。……まあ、いいや。……で、カイン。何か用事があったんじゃないの? 何か欲しい薬でも出来た?」
エルーはカウンターに両手で頬杖をついて、口を尖らせる。
「あ、ああ……」
カインは動揺を隠せない。混乱したままだったが、最初の用件を思い出す。まずはそれが最重要連絡事項だ。
「ランドール王が、きみに興味を持っている。きみの作る薬もだが……きみ自身にも」
エルーは唇を尖らせたまま、ふーん、と声に出す。
「こういうのもなんだが……王は名君だと思う。だがどうにも女癖だけは……。今のところ周囲の人間がなだめてはいるが、いつその気になってこの森まで押しかけてくるか分からない。出来れば今のうちに国外へ逃げた方がいい」
エルーは緊張感なく、頬杖をついて唇を尖らせたままだ。まるで飽きてぐずっている子供のような顔。
「面倒そうだな~。……まあでも、逃げるのはいつでも出来るし。ちょっと様子みようかな」
あまりにも事態を理解していない。
王に囚われたら、もうこんな自由気ままな生活なんか出来なくなると理解しているのか。
エルーのこういう、大らかというか後先を考えないというか、いい加減なところは、カインも時々苛つく。
「大事になるぞ。……悪い事は言わない。早く逃げるんだ」
エルーは頬杖をついたまま、カインを見つめる。
その不思議なすみれ色の瞳で見つめられ、思わずカインは息を詰める。
「……まだまだ、やる事があるの。この国でね」
かたちのいい柔らかな唇が、微笑みの形に動く。
美しく可憐に見えるはずのその笑みは、この娘が禍々しい異形の生き物なんだと思い知らせているように感じられた。
時折エルーが見せるこの違和感は、筆舌にしがたい。
やはり人ではないのではないか、と思う。
エルーはカインの忠告など聞かない。きっと気が済むまで、ここで店を続けるだろう。
エルーが望む、綺麗で素敵なものを得られるまで、恐らく、彼女はこの森を出ない。
小さくため息をついて、隣に座って黙り込んだままのアベルをちらっと盗み見ると、アベルはまだ呆然としているようだった。
それもそうか。
兄の懸想する女をちょっと盗み見ようとしただけなのに、こんな訳の分からないところに踏み込んでしまって、混乱もするだろう。
「……一応、何かあったら連絡は入れるようにする。だが俺はランアークの騎士だ。王の命令には逆らえない。何かあってもきみを守れない。それだけは理解してくれ」
「だから、こうして事前に警告しに来てくれたんでしょ」
エルーはカウンターの中に放り出していたショールをとって、肘掛け椅子で昏々と眠り続けるメイアに歩み寄る。
子供のようにあどけない寝顔で夢を見るメイアにショールをかけてやると、カインとアベルを振り返る。
「ありがとう、カイン。……あなたは優しい人だね。こんな妖しげな、人を惑わす魔女かもしれない私を心配してくれてる。でも……いざという時は騎士の使命を果たしてね。それでいいんだよ。だってあなたはランアークの魔法騎士なんだから。王の騎士として責任を全うする義務がある」
眠るメイアの艶やかな黒髪に頬を寄せ、口付ける。
エルーは本当に、分からない。
少女の面差しを残しながら、無邪気で幼稚で気まぐれな事を言いながら、こうして時折、百年生きた魔女のような、悟った発言をする。
カインよりも年下のはずだ。あどけなさを残しておきながら、時折遙か年上なんじゃないかと錯覚させる何があった。
そして、はっきりと思い知らされる。
彼女がこの国から逃げ出さない事を、喜ぶ自分に。
彼女の身の安全よりも、彼女を失えない、傍にいて欲しい。そう思っている自分の身勝手さを、はっきりと、思い知らされる。