竜の棲み処 焔の魔女の森

#10 ニルヴァーナの娘

 恐らく、カインもアベルも同じように、眠れない夜を過ごしているだろう。
 その苦痛の夜を繰り返して数日がたったその日の朝は、重く沈んだ二人には皮肉に思えるほど、雲一つない晴天だった。
 珍しく、魔法騎士団長は朝から詰め所でいつものように秘書官を連れて、お茶を飲んでいた。
 カインもアベルも、良くも悪くも大人だった。何事もなかったふりは幾らでも出来た。今も何もなかったかのように、休憩時間に詰め所でそれぞれ本を読んだり、書き物をしたりしていた。
 二人とも、どうしたらいいのか分からなかったのかもしれない。
 何をどうしたらいいのか、お互いが何を言えばいいのかすら、思いつかないのは、二人とも同じだ。
 ただこのままではいられない事くらい、分かっていた。遅かれ早かれ、エルーだけでもなんとかしなければならないが、肝心のエルーが何を考えているのか。
 カインは目の前に広げた魔術書をぼんやりと眺める。
 何故エルーがこの国に留まりたいのか、カインにはさっぱり分からない。もう少しこの国に留まりたいのだというのは分かっているが、一体何が目的なのか。
 ちらりとアベルを盗み見ると、アベルは書類作りに忙しいようだった。いつもと変わりないように見えるのは、アベルもカインも同じだ。
 この兄弟はこういうところだけは、よく似ている。
「いい天気で忌ま忌ましいくらいだ。……国境に出ている騎士達はいつ戻ってくるのやら。竜が見間違いならいいがな」
 お茶を継ぎ足す秘書官に、団長はやれやれ、といった風情で話しかける。
「今回ばかりは……私もそう思います。団長。ニルヴァーナであった場合、怒らせれば甚大な被害が……」
 そこまで秘書官が言いかけた時に、兵舎の外で何か騒ぎが起こっている事に、詰め所にいる人々も気付き始めていた。
 そこにカインが面倒を見ていた例の新米騎士がバタバタと慌ただしく駆け込んで来た。
「団長! ルズの蒼い森に捜索に出ていた騎兵師団が帰ってきました! 焔の魔女を見つけたそうです!」
 カインもアベルも、一瞬言葉が浮かばなかった。
 高い魔力に恵まれたエルーが、魔力のかけらもない騎兵師団に見つかるとは思えない。見つかったとしても、簡単に逃げ出せるだろう。
 思わずカインとアベルは顔を見合わせる。
 エルーが何を考えているのかさっぱり分からない。何か引き起こしそうな嫌な予感さえ、していた。
 二人とも椅子を蹴り倒すように立ち上がり、駆け出す。
 兵舎の前にはちょっとした人だかりが出来ていた。
 騎士団や魔法騎士団の者だけではない、文官まで出て来て大騒ぎだ。
 本当にエルーなのか確認しようにも、人集りでのぞき見る事も無理なくらいだ。
 そこへ遅れて魔法騎士団長と秘書官がやってくる。
「お前達、そんな大騒ぎして、ご婦人が怯えるだろう! ほら、持ち場に戻れ! 全く、栄えあるランアークの騎士がみっともない真似をするな!」
 魔法騎士団長に怒鳴られて、蜘蛛の子を散らすように人集りは散っていく。
 残ったのは、焔の魔女を連れて来た騎兵師団と、カインとアベル、魔法騎士団長と秘書官だけだった。
「お嬢さん、怖い目に遭わせてすまなかったな。……男ばかりなものだから、皆美人に浮き足立ってしまったのだよ。……申し訳ない」
 俯いた赤毛の女は、促され顔を上げる。
 燃えるような赤褐色の巻き毛に、不思議なすみれ色の瞳。間違いなく、エルーだった。
 どうしてこんな事に、と叫びだしそうな気持ちを、カインもアベルも必死で押し殺す。
「騎士様、ごめんなさい。私、疲れてしまいました……。どこか休めるところはありませんか。王様にお目通りする前に、ほんの少しで構いません。休ませて頂けませんか」
 こんなしおらしい声で、儚げに話すエルーなんか見た事がなかった。こうしてか弱そうに振る舞っていると、確かにこの、あどけない顔は頼りなげに弱々しくも見えなくもない。
 思わずカインもアベルも、今までのわだかまりを忘れて吹き出しそうになる。
 あまりにらしくなさすぎた。あのエルーがしおらしくしてみせるなんて、らしくなさすぎて、おかしくて仕方ない。笑い出しそうになりながら、今はそれどころではないとも思い直す。
 エルーが何か企んで乗り込んできたのは間違いない。
「それは気付かず失礼した。……師団長、お嬢さんはこちらで預かる。王への報告は任せよう。……なに、王の為に調薬しにきてくれた大事な客人だ。丁重におもてなしせねばな。……これ、お嬢さんを休ませてあげなさい。……兵舎ではまた騒ぎになりそうだ。私の執務室かな。やれやれ、浮き足立ちすぎだ……」
 団長に促され、秘書官はエルーを案内して歩き出す。
 しとやかに団長と秘書官について歩き出したエルーは、肩越しにカインとアベルを振り返る。
 全く懲りていないし、全く気にしていない。
 子供のように無邪気に笑って小さく手を振っているが、どうみてもこの顔は何か考えている顔だ。
「何考えてるんだ、あの女……」
 思わずアベルが呟く。
「……こんな奥歯に物が挟まったような話し方してる場合じゃないな。アベル、お前はエルーを娶るつもりがないのか」
 アベルは数歩歩いて、カインを振り返る。
「兄貴の女に手を出した弟を詰らないのか?」
 厭味ではない。淡々と尋ねる口調だ。
「……誰かを好きになるのは理屈じゃない。人の物だからって諦められるのか。……それに、エルーが俺と付き合っていると自覚していたかどうか。あの調子だからな」
 アベルは立ち止まり、少し考え込んでいるようだった。考えて、目を伏せる。
「そうだな。そんなモラルや道理で気持ちを片付けられるなら、こんな事にはならなかったな」
 アベルは目を伏せたままだった。
「……兄さんは俺の気持ちなんか、ひとつも気付いていなかっただろ……」
 ぽつん、と呟く。
 確かに、アベルのエルーへの気持ちなんて全く気付いていなかった。もしもそのアベルの気持ちに気付いていたなら、どうしたいただろうかとカインは考える。
「兄さんはいつでもそうだった……。それでも俺は構わないし、一生秘密にするつもりだった」
 アベルが言っているのは、もしかしたらエルーの事ではないかもしれない。そう気付いた時には、アベルはもう魔法騎士団長の執務室がある東棟に向かって歩き始めていた。
「早く来いよ、兄さん。あの魔女がしでかす前になんとか連れ出さないと。……あの女が何か企んでるのは間違いない」
「連れ出して、どうするんだ。お前はちゃんと後先を考えているのか? エルーを連れて逃げるつもりはないのか」
「そうだな、それが出来るならこんな事にならなかった。……兄さんこそ、エルーと逃げるつもりはないのかよ」
 こうなった今、エルーを連れてこの国を去るなら、もう二度とここには戻れない。王の思い人を拐かした反逆騎士の汚名を着る事になる。二度とこの国には戻れない。それはカインもアベルも同じだ。
 反逆騎士になる事に躊躇いはない。
 二度とランアークに帰れない。それは、二度と会えない別離を意味する。
 エルーを連れて逃げる事は、アベルもカインも出来たはずだ。それを今まで二人とも何故、しなかったのか。
「……ああ。お姫様はのんきなもんだよ」
 アベルに促され、カインは指し示された方向を見る。
 魔法騎士団長の執務室前の、ツルバラの生け垣に囲まれた庭先でエルーがのんきに手を振っていた。
「ねえねえ! こっちこっち!」
 大声で呼ばれて、慌てて二人は駆け出し、生け垣に飛び付く。
「バカ、エルーなに大声出してるんだ! 団長たちに聞かれたら……」
「ちょっと眠ってもらってるから大丈夫」
 エルーがテラスを振り返り、指し示す。
 テラスのティーテーブルに、団長とその秘書官が突っ伏していた。
「薬を盛ったのか!」
 思わずカインが声を荒げる。エルーなら幾らでも薬を用意出来る。団長たちに怪しげな薬を盛るのなんか簡単だ。
「違う違う。魔法だよ。ちょっと寝てもらった」
 こんな小娘の魔力で、秘書官はともかく、歴戦の強者である魔法騎士団長がこうも簡単に眠らされるとは思えない。幾ら油断していたとしても、焔の魔女が魔力持ちな事くらい知っているし、そう簡単に術をかけられるはずがない。
「エルー、お前何をした?」
 アベルは団長と秘書官を見つめたまま蒼白だ。
「いいからいいから。……こんな事してごめん。こうでもしないと、あなたたちに会えないと思って」
 本当にニコニコしていて全くエルーは悪びれない。笑顔でツルバラの生け垣に身を乗り出す。
「いいから逃げろ。バカやってないで、さっさと国境を越えるんだ」
 カインにそう怒鳴られても、エルーは少しも気にしていないように見えた。
「だって……二人に謝りたかったから。もう多分、私には時間がないし……。だから私から、会いに来たよ。……騎士団の敷地に入り込むなら、掴まっちゃった方が早いんだもん」
 時間がない、というのはようやくエルーが国外に逃げ出す気になったという事か。
 結局、カインもアベルも、ここに至ってもエルーだけを選ぶ事が出来なかったのだと思い知らされる。
 エルーは気にもしていないのか、また、子供のような笑顔を見せる。
「ねえ。私、あなたたちが大好きだった。こんなに信頼し合って、お互いを思い合ってる兄弟なんて、見た事がなかった。……何を言えばあなたたちに分かって貰えるか、私は愚かすぎて分かんない。……でも、こんな事をしてあなたたち兄弟をめちゃめちゃにするつもりじゃなかった。……いつか、時が来たら、全て話すつもりだったのに。ごめんね」
 エルーは二人を見上げたまま、瞬きもせずに囁く。
「さよならを言いたかったの。……それから、あなたたち兄弟が大好きだったって、伝えたかったの。……ごめんね。私が謝ったって、もう元に戻らないのかな。……そんな事ないって、私は思いたい」
 エルーはカインもアベルも、エルーだけを選べない事を知っていたのかもしれない。
 それを責める口調ではなかった。エルーの言葉は、あの甘やかな優しい歌声のように二人の耳に届いていた。
「エルー……」
 エルーは何もかも見透かすように、笑う。笑ったまま、空を見上げ、呟く。
「……時間切れだ。……思ったより早かったな」
 不意に、あれほど晴れ渡っていたはずの空が、暗く陰った。
 辺りが薄暗くなるほどに急に陰った空を、アベルとカインは見上げ、息を飲む。
 それは見た事も無いほど、巨大な影だった。
 巨大な何かが翼を広げ、舞い降りようとしている。
 不思議な静寂だった。
 恐らく、この首都にいるものたち全てが、この巨大な影を見上げているはずだ。それなのに、物音一つしなかった。この世に他に誰もいないかのように、物音一つ、風の音さえ聞こえないような気がしていた。辺りは不思議なほど、静まりかえっていた。
 深紅よりもより深い紅色の煌めく鱗に覆われたその身体は、青白く燃え上がる焔に包まれていた。
 美しかった。その深紅の鱗は宝石のように艶やかに輝いていて、神々しささえ感じる。それなのに、いい知れない不気味さがあった。
 長く優美な三つの尾を持つこの禍々しくも美しいファイアドラゴンは、音もなく静かに舞い降りる。
「……ニルヴァーナ……」
 カインはその焔纏う火炎の竜を見上げながら、呟く。
 二人とも、身動きすら出来なかった。それは圧倒的な威圧感と、畏怖と、恐怖だった。
 こんな禍々しい生き物を、見た事がなかった。こんな恐ろしい生き物に、何が出来るというのか。
 異教徒達が神のように崇める、砂漠の主。三つの尾を持つ、深紅の鱗を持つ火炎の竜の話は、噂には聞いていた。
 何千年も砂漠に生きた火炎の竜を、彼らは畏怖を込めて涅槃と呼んでいた事を思い出す。
 ファイアドラゴンは、彼らをすみれ色の竜眼で睨み付け、小さく焔を吐き、聞いた事もない不思議な鳴き声をあげた。
「お父さん!」
 確かにエルーはそう叫んだ。
「お父さん、やめて! 彼らは悪い人じゃないわ! お願い、ひどい事しないで!」
 三つの尾を持つ火炎の竜は、その鋭い爪に覆われた前脚をエルーへと差し出す。
「お父さん、ごめんね。……帰るから、この人達には何もしないで。……なにも怖い事なんてなかった。幸せな事だけだったよ……」
 エルーはその鋭い前脚に両手を伸ばし、抱きしめながら、振り返る。
「カイン、アベル。……さようなら。大好きだった。……あなたたち兄弟が、大好きだった!」
 火炎の竜は娘を愛しげにその前脚に抱き、再び翼を広げる。
 その巨体は音もなく、飛び立つ。空へと舞い上がるその巨大な翼を、カインもアベルも、ただ為す術もなく、見上げる。
 涅槃の名を持つ竜の遠ざかる姿を、ただ二人、見送るだけだった。
 何一つ、言葉が出てこなかった。何も浮かばなかった。
 彼らが愛した焔の魔女が、数千年を生きた砂漠の主ニルヴァーナの娘だと、思いもしなかった。
 ただその事実に、呆然と立ち竦むだけだった。



2016/12/05 up

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