会う場所は制限がかかる。
アレクシスの本宅か別邸か、隠居のブランドール公の屋敷か、警備のしやすい場所に指定される。
以前よりは警戒は緩められた。
城壁に囲まれた王都から攫うのはそれほど容易くはないというのもある。
それに前回の拉致未遂事件で、東西の国境の警備も厳しくなった。
以前よりは三人の警護も緩められたが、ルシルの街に三人で帰るには、取り巻く世界変わりすぎてしまった。
そうして三人とも、一言もそれに触れようとしていなかった。
「……師範代まで遠すぎるよ。せめて週一回くらい、リュカルドと練習したい」
ニノンはお茶の用意をしながら、軽く口を尖らせる。
今日、三人が落ち合ったのはアレクシスの別邸だった。
ここはセニがあの時眠り続けた屋敷で、セニはあの後、ここで暫く療養していた。
「ブランドール公のところの行儀見習いが終わったら、王城に出仕するんだとばかり思ってた」
リュカルドは少々からかうように笑う。
「私が王様のところで働けるわけないでしょー! こんなにそそっかしいのに! ブランドール様が優しいからなんとかなってるのに!」
堅物のアレクシスの両親は、意外な事に、息子ほど堅苦しくはなかった。
恐らくノイマールの貴族の中ではかなりの権力と富を持つと思われる隠居の公爵夫妻は、穏やかでお茶と花を愛する、意外なほどの趣味人だった。
セニはニノンのお茶の準備を手伝いながら、二人のやりとりを眺めている。
リュカルドは随分大人びて、口数が減り、落ち着いた。
ニノンも少し背が伸びて、綺麗になった。前以上に、兄弟の前ではしゃいで見せるようになり、その姿が痛々しく、余計に切なく思える。
あどけなさを残していた二人の頬は、少し痩せて、無邪気さを失ってしまったような気がして仕方なかった。
あれから一年以上経っても、誰もあの話には触れない。
ただ、今の新しい環境の話をひたすらに語る。
どう触れていいのか、誰もわからなかったのだ。
「……奥様がね、私に、何かお菓子を作ってほしいって。だから私、迷ったんだけれど」
ニノンは持ってきた真っ白な箱を、テーブルに載せる。
「すごくすごく、迷ったんだけれど、作ったの。これが私の一番大好きで、一番大切なお菓子で、大事な人に食べて欲しいケーキだから」
真っ白な箱を開けると、丸い、可愛らしい丸いケーキが現れる。
パウダーシュガーを振り掛けられて、バニラと玉子の甘い香りを漂わせた、懐かしいあの、魔法のケーキだった。
「……奥様が、おいしいって。母の故郷のお菓子なんですって言ったら、すごく素敵なお母様だったのねって」
あの日、初めてノイシュとティーオが尋ねてきた日に食べたのが最後だった。
あれから誰も、このケーキの話題に触れもしなかった。
養母の故郷のケーキ。
このエシル王国の伝統のケーキは、養母が仕えていたエヴァンジェリン姫と王子も食し、愛したレシピかもしれない。
「すごく嬉しかった。……きっと、奥様も知ってるよね。知ってて、食べてくれたんだよね」
ぽたり、とケーキの箱に添えられたニノンの手に、雫が落ちる。
「私たち……ずっと目を逸らしてた。……どうしたらいいかわからなくて、……誰も悪くないって思いたくて」
ニノンは眦を拭う。
「私、ルシルに帰る。帰って、指南所をもう一度開くの。私が師範代になって、また、指南所を続けるの。何があっても、私たちの家はあの家なんだもん。……父さんだって、母さんだって、きっと、それを望んでる……」
「……ごめん、ニノン。……ごめんね」
セニは泣き出したニノンの肩を抱いて、ニノンの柔らかな黒い巻き毛に頬を押し当てる。
ニノンの気持ちすら、知らない振りをして過ごしてきた。
誰もが正面から向き合えなかった。
出口のない迷路のようで、先が見えなくて、その不安から見て見ぬふりをし続けていた。
「ごめんなさい……。ごめんなさい、リュカルド、セニ。……こんな事、言うつもりじゃなかったの。二人だって苦しくて辛いんだってわかってるのに、ごめんなさい」
嗚咽をあげてセニにしがみつく。
「……ニノン、大丈夫だ。謝らないで。……ニノンの気持ちに気付いてやれなくて、ごめんね……」
優しくて頑張りやのニノン。この一年、どれだけ耐えていたのか。こんなに激しく泣きじゃくるニノンを見たことがなかった。
しゃくりあげるニノンの背中を撫でながら、セニはふと顔をあげた。
二人の肩を抱くリュカルドの伏し目がちの青い瞳に、自分が映る。
まるで海のような、深く澄んだ瞳。
見たこともない表情で、リュカルドが立ち竦んでいた。
「……リュカルド?」
思わず呼びかける。
「あ。……ごめん。なんでもない」
慌てて取り繕う。
「セニ、ニノン。こっちにおいで。……ニノン、ごめんよ。傷付けるつもりじゃなかった」
長椅子にニノンを座らせて、隣に座り、小さい子供を抱きしめるように抱いて、宥める。
知っているんだ。
リュカルドは、知っている。
どちらがエシルの王子なのか、知っているんだ。
以前、手合わせした時の事を思い出す。
『……ニノンも、セニも、子供のままでいて欲しいのかもしれない。エゴだね』
あの言葉通りに、一人でその秘密を背負おうとしている。
どちらがエシルの王子だったとしても、兄弟三人は、もとの平凡な人生を諦めなければならない。
もしも誰かに知られてしまったら、政治の道具にならない理由がない。
他国に絶対に渡せない存在になるのだ。自由などなくなる。
兄弟も、王子を操るための道具にされるだろう。
死ぬまで秘密を持っていくと、リュカルドは決めているんだ。
セニはやっと兄の覚悟に気付いた。
この一年で随分兄は寡黙になった。痩せて、大人びた横顔になっていた。
なぜ、今まで気付かなかったのか。
これほどまでに悲壮な決意をしていた兄に、何故、気付かなかったのか。
セニは耐える事が出来なかった。
ぽろぽろと頬を滑り落ちる涙を、止める事が出来なかった。
「……セニまで。……君たちに泣かれるのが、僕は一番辛いよ」
リュカルドはハンカチを取り出して、二人の涙を拭う。
「昔、よくこうして、泣いてる二人をあやしたなあ……」
懐かしそうに、少しだけ笑う。
そんな遠い昔の事ではないはずなのに、もうとうの昔に失われてしまった事のように思えた。
「僕が守らなきゃいけないのに、いつまでも頼りにならないお兄ちゃんでごめんよ。……ニノン、もう泣かないで」
ニノンの肩を抱いて、その黒髪に、リュカルドは頬を押し当てた。
「帰ろう、ルシルへ。……ニノン、ごめんね。寂しい思いさせたね。辛い思いさせたね」
それはリュカルドの願いでもある。
「……ごめんなさい、リュカルド。ごめんなさい。……ごめんなさい」
そして、それがもう叶わない事だと、知っている。
ニノンがいなくなったのはそれから数日後の事だった。
丁度その時セニは東のアデリア国境そばの、アレクシスの領主館に滞在していた。多忙なアレクシスの名代で領地管理の様々な手続きを行っていたのだ。
いなくなったという王都からの早馬の一報を聞いただけで、セニは行く先に見当がついていた。
ラーンの拉致ではない。
ルシルの街に帰ったんだと、セニは直感していた。
アレクシスの領主館からルシルの街までは、そう遠くない。セニが兵士を帯同してルシルに着いた時、ニノンは家の修練場の床の上で眠っていた。
子供のように毛布に包まり、丸くなって、頬に涙のあとを残していた。
ニノンを叱る気にはなれなかった。
皆に心配をかけた、と叱らなければならないのは分かっている。
けれど、ニノンのこの気持ちを責める気にはなれない。
華やかな王都での暮らしよりも、ルシルのこの家が大事なのは三人とも同じだった。
「……ニノン」
軽く頬をつついても、起きる気配はなかった。
泣きつかれて眠ってしまったのは、その頬を見ればよくわかる。
セニはサーコートの上に羽織っていたストールを眠るニノンにかけてやると、修練場を後にする。
住む人を失った我が家は、ひどく寂れて、物悲しくセニの目に映った。
ほんの少し前まで、ここで、貧しくとも幸せに暮らしていたのに、今では遠い昔の、帰れない幸せな記憶に思えて仕方なかった。
修練場の外には、南天の木が茂っていた。
ミステルが故郷から取り寄せた植物だ。初夏に白い花を咲かせ、今の時期になると小さく可愛らしい実をたわわに実らせる。
セニは子供の頃、この赤い実の木が大好きだった事を思い出す。
手を伸ばして、たわわな実のなる枝を一本、手折る。
ミステルは、この木は『災いを変えてくれる木』だと言っていた。
彼の故郷、遥か東方の国では、これは魔除けのお守りとして庭に植えるという。
災いを転じ、家庭を守る。
両親の深い愛情が亡くなった今も、こうしてこの家に溢れている。
南天の枝を抱いて数歩歩き出し、外に待たせていた兵士を探そうとした時、思いも寄らない声に呼び止められた。
「……兵士なら、ちょっと眠って貰ってるよ」
あまりにも自然な素振りで、井戸に腰掛けている。
レンドハルトかマデリアか、本当にどうやって国境を越えているのか。
「今日は前向きに、取り引きにきた」
ノイシュはごく自然に、セニに話しかける。
「……どうやってここまで」
「蛇の道は蛇、って以前に言っただろ? ……国境を警戒しようが、俺一人くらいなら幾らでも」
事も無げに言い放ち、足を組みかえる。
「さて、取り引きしようか。……こっちの条件を飲めるなら、君たち兄弟から手を引くし」
嫣然と微笑む。
「……エシル王家の王子のしるしも、渡すよ」