騎士の贖罪

#21 帰れるとは思わない

「おにいさんの生まれた国は、とても綺麗なところなのね」
 今日はよく晴れて、昼下がりの庭にはとても爽やかな風が吹き抜けていた。アンネットは珍しく、ポーチに置かれた寝椅子で日光浴をしていて、こっそりと鉄扉からリュシオンが覗くと、笑顔で手を振っていた。
「こんな可愛いお花があるのね。いいなあ、わたしも見てみたいな……」
 素描ばかりが書かれた紙束だが、アンネットは夢中で眺めていて、暫くは口をきくのも忘れて見ていたようだったが、満足するまで眺めたのか、やっと口を開いた。
「そうだね。いつか一緒に行けたらいいね」
 リュシオンは素直にそう返す。アンネットに悪意を向ける気にはとてもなれなかった。
 ユリエルは『あれが一番犠牲が少ない攻め方じゃないかな。民間人の犠牲がほとんどない』と言っていた。確かにそうだ。卑怯で浅ましい方法だが、直接城を落とせば、王都以外は戦場にならない。悔しいが、事実だ。
 クレティアは小国だ。王族や有力な貴族を始末してしまえば、簡単に指揮系統を失う。末席なれど王位継承権を持つリュシオンが暗殺を逃れたなら、本来は地方の有力貴族や部隊と合流し、体制を整えるべきだったが、それを実行したところで、カルナスに勝てる可能性はないに等しかった。あまりにも国力も戦力も違いすぎた。
 薄汚い手段だが、カルナスは無駄な血を流す事なく、街や村、畑や果樹に損害を与えずにクレティアを掌握した。
 今、アンネットが夢中で眺めている森や小川は、今も美しい姿のまま存在しているだろう。この屋敷に閉じ込められているリュシオンに故郷の今を知るすべはないが、グレイアスやユリエルがクレティアに赴かないなら、クレティアは今、落ち着いていると予想できる。
「……おにいさんは、おうちに帰りたい?」
 アンネットは黙り込んでしまったリュシオンを見上げ、心配そうに声をかけた。
「うちに? ……そうだね……」
 ジーナもいつか、サファへ帰ると言っていた。それが彼女の希望であり夢でもあった。故郷に帰りたいと願うのは、とても自然な事だ。
 リュシオンはアンネットの膝の上にある、小川の景色を見つめる。
 この小川のほとりで、初めてグレイアスに出会った。あれからそう月日が流れたわけではないのに、もう遠い昔のように感じられていた。
「そうだね。……帰れたらいいね……」
 生きてクレティアに帰れると、思っていなかった。生きて帰ろうとも思っていなかった。
 自分の犯した罪を償うには、自分の命を持って贖うしかないと思っていた。
 自分を欺いた男をこの手で殺し、そして生きてカルナスを脱出しようとは考えもしなかった。この足では万が一無事に仇を討てたとしても、逃げるのは不可能だ。
 アンネットの小さな手が、リュシオンの右手に触れた。きゅっとリュシオンの指を握りしめ、アンネットは見上げる。
「おうちに帰れないの? それならわたしも、おとうさまにお願いするわ。……おにいさんを、おうちに連れて行ってあげてくださいって。あっ……でも、おとうさまにも、ジーナにも、ばあやにも、おにいさんの事は内緒にしないといけなかったんだ……」
 リュシオンの指を握りしめたまま、アンネットはしょんぼりと俯く。
「いいんだよ、アンネット。気にしないで」
 アンネットの伏せた狼の瞳は、薄く涙が滲んでいるように見えた。
「……本当はね、おにいさんに、いてほしいの。おにいさんが絵を見せてくれるのが、とても嬉しいの。……おにいさんが帰ってしまったら、もう見せてもらえなくなっちゃうでしょう? ……お外にいけなくても、おにいさんの絵があれば、とても楽しかったの……」
 アンネットの素直で飾り気のない言葉に、リュシオンは泣き出したくなっていた。
 自分の書いた絵を、こんなにも喜んでくれる人がいる。楽しみにしてくれている。この小さな娘を励ます事ができる。こんなにも嬉しい事はなかった。描いた絵をこんなに愛してもらえる、喜んでもらえる。これ以上の幸せはないと思えた。
 あの日、小川のほとりで出会ったグレイアスもそうだった。アンネットのようにじっと絵を見つめ、そして、病気がちの小さな娘を喜ばせたいと言っていた。瞳や髪だけではなく、こんなところまで、この父娘はよく似ている。
「いいんだよ。アンネットがこんなに喜んでくれるなら、僕はここにいるよ。……君の為に、もっとたくさん、色んな絵を描くから。だから……」
 元気でいて欲しい。もっと元気になって欲しい。心からそう願わずにいられなかった。
この傷付いた小さな女の子を、愛さずにいられなかった。
 はっとしたようにアンネットは顔を上げる。
「……誰か来る。足音がする。おにいさん、早く戻らないと」
 不自由な身体を補う為か、長くベッドの上での生活が続いたせいか、アンネットの耳は鋭い。今までも何度か足音を聞きつけて、リュシオンに注意を促してくれていた。
「きっとクラーツ先生だ。すごく急いでる足音。おにいさん、早く隠れて!」
 アンネットの膝上の紙束を掴み、リュシオンはアンネットの部屋を見渡す。リュシオンのこの足では走れない。クラーツが入ってくるまでに、自分の中庭へ逃げ込むのは難しかった。
 アンネットの寝台の下の隙間くらいしか、隠れる場所を思いつかなかった。紙束を抱いたまま、リュシオンは慌てて寝台下に滑り込む。
 すんでのところで、ノックの音が響いた。
「アンネット様、失礼します」
 入ってくるなりクラーツはアンネットへの挨拶もそこそこに、部屋の中を見渡している。リュシオンは息を潜めて過ぎ去るのを待つしかなかった。
「クラーツ先生、こんにちは、ごきげんいかがですか?」
「……おひとりで過ごされていましたか」
「ジーナは学校の日なので、今日は遊んでくれません」
 クラーツが午後、リュシオンの許に現れる事は稀だった。アンネットも、クラーツの診察は午前中か、遅くとも昼食後だと言っていた。
 完全に油断していた。リュシオンは寝台の下に潜んだまま、必死で息を詰める。
「ユリエル様はお見えになっていませんか?」
「王子様は今日、来て下さるって言っていましたか?」
 やはり、ユリエルはアンネットの見舞いに立ち寄っているついでに、リュシオンの部屋を訪れている。そうだろうとはリュシオンも思っていた。
 あの得体の知れない男が、このおっとりしたアンネットとどんな話をしているのか。ジーナに接するように気楽に親しげに話しているのを想像すると、そうおかしくないようにも思えた。
「……いえ」
 クラーツは、リュシオンが部屋にいないと知っている。いなくなったリュシオンを探している。
 真っ先にアンネットの部屋を怪しんだ理由は何か。あの鉄扉の存在を知られているとは思えない。単純に、中庭の壁一枚隔ててこの部屋と繋がっているから、真っ先にこの部屋を疑ったのか。
 クラーツの足音は、ポーチへと向かっていく。ポーチの寝椅子で休むアンネットに歩み寄っているようだった。
「今日はとても顔色がよろしいですね。……おかげんはいかがですか」
「今週はずっと元気です。クラーツ先生、いつもありがとうございます。……今日も苦いお薬ですか……?」
 アンネットは驚くほど、平常を装っている。小さくとも将軍の娘なのか、堂々としていて、リュシオンは驚かずにいられなかった。
「今日は苦いお薬ではありませんよ。具合がよろしいなら、不要ですからね……」
 クラーツの足音が、再び室内へと戻る。硬い石のポーチを歩く足音から、絨毯を踏みしめる足音へと変わった。リュシオンの潜む寝台下へと、足音は近付いてくる。
「寝台にお戻りになりませんか、アンネット様」
「……もう少し、お外を見ていたいの。だめですか?」
 暫くの沈黙があった。
「そうですね」
 ひどく冷たい声だった。
「大きなねずみが一匹、アンネット様の寝台に潜んでおりますね」


2018/06/11 up

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