もうアンネットに絵を見せる事ができなくなるかもしれない。もうアンネットを慰め、励ます事ができなくなるかもしれないと、真っ先にそんな事を考えていた。
逃げ果せるはずもない。リュシオンは覚悟を決めたというよりは諦めて、寝台の下から這い出した。
「……どうやってこの部屋に」
いつも淡々しているクラーツにしては、少々感情的な物言いだった。そんな彼を見るのは初めてかもしれない。
「クラーツ先生、おにいさんはわたしに、絵を見せてくれただけなの! おにいさんを叱らないで!」
アンネットは寝椅子から身を乗り出し、必死に叫ぶ。
「わたしに絵を見せる為に、ここに来てくれたの。だから、叱らないで! おにいさんに、罰を与えたりしないで……!」
リュシオンは紙束を抱えたまま、座り込んでいた。クラーツに見つかるなんて、最悪の事態かもしれない。どう立ち回るのが正解なのか、全く思いつかなかった。
「アンネット様、どうか落ち着いて下さい」
クラーツは寝椅子から転げ落ちそうなくらいに乗り出しているアンネットを抱きかかえて座り直させると、リュシオンに再び向き直る。
「まずは、どんな手段で抜け出したのか教えて頂きましょうか。ご存知の通り、私は監視役なのですよ。監視する相手は、あなただけではありませんけれどね」
「クラーツ先生……!」
アンネットは弱々しい両手で必死にクラーツにすがる。
「おにいさんを叱らないで! おにいさんは悪くないのよ、わたしが寂しがっていたから、来てくれていたの……!」
アンネットの懇願に眉一つ動かさずに、クラーツはすがりつくアンネットの指を引き剥がす。
「アンネット様、そんなに興奮なさってはいけません。また熱が出てしまいますよ。……さあ、リュシオン殿。案内して下さい」
「こんなところに、この部屋と繋がる扉があったとは。……将軍はご存知ではなかったのか、それとも、錆びてもう開く事がないと杜撰に放置していたのか」
クラーツはリュシオンを部屋に連れ戻すと、すぐさま庭師を呼びつけ厳しく叱責し、扉を鎖と錠で塞がせた。太い鉄の鎖で塞がれ、大きく硬い錠前で閉ざされた扉は、明るい庭の中でそこだけが異質なくらい、冷たく不気味に見えていた。
今更何をどう言っても取り繕えるような状況ではない。リュシオンが脱走を図ったとクラーツは考えているだろう。
どう言い訳しようがクラーツが信じる事はない。リュシオンは押し黙ったまま、寝台に座わっていた。
「アンネット様に近付いたのは、祖国を滅ぼした将軍への恨みを、アンネット様で晴らすつもりだったからか」
「そんな事するはずがない! そんな浅ましい考えなんかなかった!」
一度も考えた事がなかったと言えば、嘘になる。そんな醜く卑怯な事を考えた事もあった。
自分が受けた辱めと同じ事をアンネットにできたなら、どれだけグレイアスを傷付け、絶望させられるかと、考えた事はあった。
そんな事をしても、リュシオンの気持ちは晴れない。仇を討てたとは思えない。アンネットには何の罪もない。グレイアスの娘がグレイアスの罪を償わなければならないなんて、思えなかった。
「将軍に復讐するなら、アンネット様を苦しめるのが一番だ。アンネット様なら小さく弱く、歩く事さえできない。犯そうが殺そうが、どうにでもできる」
クラーツの声はひどく冷たい。いつも事務的で必要最低限しか話さない男が、珍しく、感情も露わだ。
この何を考えているのか分からないような男でも、アンネットは守りたいと思うのかもしれない。身体も心も深く傷ついている小さな子供を守りたいと、そう願うのは医者でなくとも人であるなら誰もがそう感じるだろう。
この感情の薄い男の人間らしい部分を、リュシオンは初めて垣間見た気がしていた。
「アンネットを傷付けるのが復讐になるなんて、思えない。そんな醜く卑怯な手を好むのは、カルナスだけだ」
そんな非道な真似ができたなら、もっと楽に生きられたかもしれない。それでもそんな人としての道を外れるような事をしたくはなかった。
それが弱さだと、甘えだと言われてるならそれでもいい。人として正しくある方が大切だと思えた。
暫くの間、クラーツは無言だった。ただ黙っていつものように鞄を開き、薬や診察の準備をしているようだった。
「……私は監視役だと言ったが、監視されているのは君というよりは、レクセンテール将軍の方だ」
クラーツは薬瓶から小さな塊のようなものを取り出し、煤のついた乳鉢のような物に落とし入れた。陶器と塊がぶつかる、高い音が響いた。
「クレティアの支配権を持つ傍流の王子を手に入れたレクセンテール将軍の動向を、ロデリック王は常に監視し、把握しようとしている」
乳鉢に落とし込んだ塊にピンを突き刺し摘まみ上げると、いつも持参しているオイルランプで炙り始めた。
「奥方様が亡くなられる以前から、堅物で色恋の噂も全くなかった将軍が、何故急に愛玩物を、それもこんな少年を欲しがったのか、誰でも疑問に思うだろう。しかも王位継承権を持っている。謀反でも企んでいるのかと思われても仕方がない」
再び乳鉢に戻された塊から、細く白い煙が立ち上っている。以前頻繁に閨で焚かれていた香とは匂いが違う。それに香なら、いつも香炉で焚かれていた。
これは一体何なのか。リュシオンはぼんやりと思い巡らす。
「もしも将軍が君を引き取らなければ、君はどうなっていただろうね」
クラーツは立ち上る細い煙を眺めながら、まるで独り言のように話し続ける。
「ユリエル王子も君に興味を持っているので、運がよければユリエル王子の玩具になっていたかもしれないね。そうでなければ、一生どこかの砦に幽閉されるか、処刑されるか。暗く湿った、不衛生な牢獄に一生閉じ込められるくらいなら、ひと思いに殺された方が幸せかな。……支配権を持つ王子の行く末なぞ、そんなところだ」
リュシオンは手や足がじわじわと痺れ始めている事に、今、気付いた。今まで経験した事がない、不気味な痺れだ。身体を何かが這い回るような、背筋が冷たくなるような、気味の悪い痺れだった。
「な……」
舌先まで痺れ始めている。言葉を発しようにも、ままならなかった。
「私は何度も警告したはずだ。将軍の温情が、慈悲が分からないのかと、何度も言った」
あれは閨で焚かれる香のように、神経に作用するものなのか。
身体に力が入らなかった。寝台に崩れるように倒れ込みながら、リュシオンは立ち上る煙を睨み付ける。
「将軍が何を考えているのか私には知りようもない事だが、今まで積み重ね得てきた王の信頼を失ってまで、君を手に入れたかったのは、何故だろうね」
ばくばくと心臓が脈打ち、額に、掌に、じっとりと汗が滲み始める。痺れだけではなかった。身体が急に重く沈むように感じられていた。
ここ最近は香を炊かれる事はなかったが、飲み薬は分からない。今もずっと食べ物や飲み物に混ぜられていたなら、薬漬けのままだ。
クラーツは平然としている。リュシオンにだけ作用するなら、やはり薬漬けのままで、香でコントロールできるようにされたままだったのか。こんな身体が麻痺するようなものまであると思うと、得体の知れない薬への恐怖に吐き気がこみ上げてくる。
「本音を言えば、少々興味がある。こんな親子ほど歳の離れた少年に……」
クラーツの言葉を最後まで聞き取る事はできなかった。リュシオンの身体を蝕む痺れは、身体の中だけではなく、思考まで麻痺させようとしていた。
何故、グレイアスがリュシオンを手に入れようとしたのか。
それを考えようとした事はなかった。ただ憎しみと悲しみと怒りだけで、他には何も考えられなかった。
見上げた寝台の天蓋が、ぐにゃりと歪む。目を開けているのすら、苦痛に思えていた。
欺いた償いか。ただ憐れんだだけか。
遠のく意識の片隅で、いつか聞いた言葉が思い浮かんでいた。忘れかけていたのに、今、鮮明に蘇っていた。
『君が愛して描いた世界を、人を、生き物たちを、もっと見ていたいと思ったんだ』
何が悲しかったのか、何が許せなかったのか、何に憤っていたのか、それを認めたくなかっただけかもしれない。