人外×メイド♂

#01 置き去りの人形

 昨夜も帰ってこなかった。
 厨房の椅子にぼんやりと座ったまま、黒いエナメル靴のつま先を眺める。
 今日で一ヶ月と一週間が経った。
『また、捨てられてしまったんだろうか』
 一度目は、子供の頃だ。
 物心つくかつかないかの頃、森の奥深くに置き去りにされたが、今もその時の記憶は鮮明に残っている。
 犬の子のように古い大木に繋がれたまま、遠ざかっていく背中を見送った。あれは多分、父親だった人だろう。
 主が置き去りの子供を見つけた時『口減らしか』と言ったのも、覚えている。
 また捨てられたなら、二度目になる。
 この屋敷ごと置き去りにされたとしたら、主はどこに行ってしまったのだろうか。いや。屋敷ごと捨てる理由はない。
 一瞬、いやな想像が頭をよぎる。
 そんなことはないはずだ。きっとそうではなくて、屋敷ごと捨てられたんだ。
 その方が、ずっといい。
 堂々巡りするとりとめのない考えは、そこで強制的に打ち切られた。
「……彫刻などは不要ですからね。貴金属以外ではお支払いに充てられません。そうですね、そこの置き時計と、その棚に飾ってある金杯はよさそうですね」
 声は大広間から聞こえる。慌てて椅子から立ち上がるが、もう何日も水とわずかな木の実しか口にしていない。ふらつかずにいられなかった。屋敷には食料品の買い置きがいくばくかあったが、食べ物を口にするのは自分だけだ。たいした備蓄はなかった。
 一ヶ月ももつはずがなく、早々に食べられる物は尽きていた。空腹を抱えよろよろと頼りない足取りで急ぎ大広間に向かうと、そこには見覚えのある紫がかった桃色の髪から尖った耳を覗かせた少年の姿があった。
「ああ! いらしたんですね! 何度もお声をかけたのですがお返事がないので、てっきりご主人と共に夜逃げなさったのかと! これは失礼いたしました!」
「撫子さん……これは一体、どういことですか」
 明らかに人ではないものだと分かる姿をした撫子色の髪の少年は、出入りの百貨店の外商で撫子という。彼が勤めるダーダネルス百貨店は『人間以外の生き物』相手に商売をしている百貨店で、主人は確かにこの外商からよく商品を買っていた。
「申し訳ございませんが納品から一ヶ月以上経過してもお支払いいただけなかったので、代金分を差し押さえさせていただきます。ご連絡も途絶えているのですが……ご主人からご連絡は?」
 首を横に振るしかなかった。どこに行ったのか、帰ってくるつもりがあるのか、それさえ分からない。俯き、再びエナメルの靴先を見つめ、言葉に詰まる。
 小さなため息が聞こえた。
「……そうですか。やはり、討伐されてしまったのでしょうか。……最近、この地方でバンパイアハンターが派手な戦闘をしていたと噂が流れておりました」
 考えたくなかったが、やはりそうなのかもしれない。
 主はバンパイアだった。数百年生きた古参だったが、だからと言って『絶対に人間に狩られない』とは言えないのだ。
 もしかしたら『狩られて』しまったかもしれないと、心のどこかで思っていた。ただ、そうあってほしくない一心で考えないようにしていた。
 考えたくなかったことを撫子に突きつけられ、直視したくない現実は空腹の身体に追い打ちをかけた。目眩に耐えきれず、へなへなと座り込んでしまった。
 そんな姿に同情したのだろう、撫子は遠慮がちに声をかけてきた。
「あの、もしかしてご主人がいなくなって、お食事にも満足にとれていないのでは……」
 俯き、メイド服のエプロンをぎゅっと握りしめる。
 どう答えればいいのか、分からなかった。
 思えば、この屋敷で幼い自分を主と一緒に育ててくれた老メイドが亡くなってからは、主以外の誰かとろくに喋ったことがなかった。もちろん、この森の奥深くにある屋敷から出たこともない。街がどこにあるのかさえ知らない。この屋敷がどこの国に、どこの地方にあるかさえも、知らない。今まで知る必要がなかった。
 出入りの撫子とも、今までほとんど口を利くことはなかった。ただお茶を運ぶくらいだった。完全に世間から隔絶された世界で生きていた。
 撫子も、この屋敷での彼の暮らしぶりをよく知っていた。そして『彼』の性格もよく知っていた。
 少しの間、撫子は考え込んでいた。その撫子の後ろで、スーツ姿の撫子と髪と目の色以外はそっくり同じ姿の少年たちがきびきびと家財を物色し、運び出していた。
「……困りましたね」
 撫子は運び出す仲間たちの姿を眺めながら、思案気に腕を組む。
「メイドさんもご主人の持ち物なので、回収しなければなりません。新しいご主人にお譲りして、お支払いいただけなかった代金の代わりになっていただきます。申し訳ございませんがそういうわけで、ご理解ください。……次のご主人の許に行く準備をしましょう」
 撫子の言葉に、ただ黙って頷く。
 自分が『持ち物』で主の非常用食料である『血液袋』だったのは分かっていた。
 主は女性の、それも処女の生き血にしか興味がなかった。だから少年の彼は今まで吸血をされたことがなかったが、万が一、主が重傷を負って帰宅した時など、非常時に血を差しだすために飼われていたのだ。
 その『万が一』がなかったから、今までずっとメイドとして仕えていた。
 結局、主の命を救うこともできず、ただの出来の悪いメイドとして仕えることしかできなかった。捨てられていた命を長らえさせてくれた主に、ひとつも恩を返せなかった。せめて、主が払えなかった商品の代金くらいにはなれるだろうか。
 がっくりと肩を落とす。文字通り、途方に暮れるしかなかった。これから先のことなど、ぼんやりとも思い描けなかった。
 その姿を見て撫子がどう思ったのか、この時の彼は全く考えも思いもしなかった。
「鮮度が落ちると商品価値が落ちますね。若さと健康を保っていただかないと。ご主人の棺桶がいくつかあったはずですね。あれで次のご主人が見つかるまで、眠っていていただきましょう」
 撫子と同じ顔でスーツに身を包んだ少年たちに取り囲まれ、いくつもの手に捕らえられ、黒塗りの棺桶へと導かれる。
 人形のようにされるがままに棺桶に寝かされ、蓋を閉められるまで、涙ひとつ零さなかった。
 主は生きているはずだと叫べるような気力はなかった。ここで主を待ち続けると言えるほど強くもなかった。たったひとりでここに取り残されて、どうすればいいのかさえも分からないのが現実だった。
 今までは、ただ人形のように生きていても許されていた。命じられるままに生きているだけでよかった。何も考えず主に尽くすことだけが仕事だった。
 尽くすべき主を失って、どう生きていけばいいのかさえ分からずにいた。
 撫子も、分かっていたのだろう。
 ずっとバンパイアと共に生きてきた意思のない人形のような彼が、いまさら人間として生きてはいけないと、これからひとりで生きていく術さえも知らないと、分かっていた。
 これが撫子にできるたったひとつの思い遣りだったに違いない。
 長い眠りにつき、再び目覚める時に、彼も撫子の精一杯の想いに気付けるかもしれない。
 人でない撫子でさえ、主を失った彼の行く末を案じていた。



2023/05/05 up

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